次への障害②
弾圧され、糾弾され、排斥された。友も家族も、そして居場所さえ失った。
そうして行き着いた先に、ようやく小さな安寧の地があった。
協力者の助けで、自らの醜い血を隠し通し、時には嘘を重ねて身分を偽ってきた。
その罪悪感に苛まれることもあったが、それでも屋敷で過ごす日々は楽しく、過去の痛みを覆い隠すことができていた。
しかし、その幸せな日々も唐突に終わりを告げた。突然屋敷を襲った盗賊団――その護衛に紛れていた裏切り者の傭兵によって、テリアお嬢様が人質に取られてしまったのだ。
その混乱でアルディ邸のメイドや執事たちも全員捕らえられてしまった。
彼女の体内には穢れてはいるが強大な力を秘めた血が眠っている。
もし隠していた真実を暴き、その血を解放し、いかなる犠牲も厭わない覚悟を決めれば、この窮地を打開できたかもしれない。
だが、それでは何の意味もない。
本来この力は誰かを救うような上等な代物ではないことを彼女自身が一番よく分かっていた。加えて、たとえ盗賊団を撃退できたとしても、せっかく得た安寧の地は瓦解し、彼女は再び排斥と糾弾の中を流浪する身に戻るだけだ。
とても耐えられない結末だった。
かといってこのまま傍観していてはアルディ家は全財産を奪われ、結果的にすべてが失われてしまう。
どのみち何もかもが終わるのだ。――「……短い幸せだったな」。
フィアラはそうかすかに呟いた。
もう二度と、あの日々に戻ることはできない。戻りようがない。
終わりだ。すべてが終わりだ。絶望が心を麻痺させ、何もかもどうでもよくなり始めていた。
――そんな絶望をすべて払い去り、安寧の地を守り抜いてくれたのは、一人の男、アレクであった。
彼は四十人ほどはいた盗賊団をただ一人で殲滅し、人質もすべて無事に解放してみせたのだ。
その偉業を成し遂げ、すべてを救ってくれたアレクに、少女――フィアラの心はきっと奪われてしまっていたのだろう。
彼女自身、助けてもらったというだけで惹かれてしまうのは安直だとも思った。
だがそれでも、フィアラは自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。
むしろ彼と会話を交わし、人となりを知るほどに、その迷いなき在り方にますます強く惹かれていった。
――だからこそ、執事のフォーテンから「アレクが叛意あり」と告げられ、それが事実だと認めねばならないと知ったとき、フィアラはどうしようもなく胸をえぐられる思いがした。
***
紅蓮の烈火がアレクを襲った。
対峙するアレクは、とっさに剣を鞘に収め、後方へ跳躍して距離を取る。
「逃さない!!」フィアラの怒声が修練場に響き渡り、その発する灼熱の熱気がアレクを追う。
至近まで迫られれば肌を焼かれ、たちまち重度の火傷を負うほどの業火であった。
だが、アレクもただ逃げていたわけではない。
目にも留まらぬ速さで指先を踊らせ、空中に術式を描いていた――。
「フィアラさん!」フォーテンが鋭く制止の声を上げる。
しかしその警告は既に遅かった。唐突にアレクの手元から迸った大量の水流が、フィアラの猛炎をたちまち水蒸気に変え、彼女の身体を容赦なく吹き飛ばす。
水流はその勢いのまま彼女を遠くへと押しやり、一定の距離を取ったところでようやく止んだ。
確かに彼の“異能”はまだ戻っていないが、魔法ならば数日前から再び使うことができるようになっていた。この世界において魔法は、術式――すなわち空間に魔法陣を描くことで発動する。
しかし一筆でも魔法陣の描線が乱れれば、術式は霧散してしまうものだ。
それを移動しながら成し遂げたアレクの魔法行使能力は、極めて高度な域にあると言えよう。
不意を突かれたフィアラは、なすすべなく水撃をまともに浴びてしまったのである。
アレクは以前より、炎を操るイフリートの一族は総じて水を弱点とすることを知っていた。
それだけに、先の一撃でフィアラも大きな痛手を負ったようだ。
フィアラの動きが明らかに鈍っている。それを見逃さず、止めを刺さんとアレクは両手に二本の剣を抜き放ち、一気に間合いを詰めた。
だが、その刹那、フォーテンがアレクの前に立ちはだかる。
鍛え上げられた両拳に鉄甲を装備し、迫る斬撃を受け止めたのだ。剣と拳が激しく火花を散らす。
そのまま左、右、左、右と、お互いの剣撃と拳撃が立て続けに衝突し合う。
鋼鉄の衝撃音が連続して修練場に木霊した。
アレクもフォーテンも身を翻しながら互いに斬撃と拳打を繰り出し、時には攻撃をかわし、時には足で蹴り合い、壮絶な攻防を繰り広げる。
激突のさなか、ふと間隙を縫ってフィアラの凛然たる声が響いた。
「フォーテンさん、退いてください!」その声に呼応し、フォーテンは渾身の拳打でアレクの斬撃を止めると、身を捻って肘打ちを見舞った。
不意を突く一撃に、アレクは応戦を中断して後方へ飛び退かざるを得ない。
アレクが間合いを外した隙に、フォーテンは大きく後方へ跳躍し、距離を取った。
同時に、フィアラのいる方向から尋常ならざる熱気が真っ直ぐに迫ってくる気配を、アレクはすでに捉えていた。もはや悠長に術式を組んでいる暇はない。
アレクは悔しげに奥歯を噛み締めつつも冷静に判断し、懐から白い玉――表面に複雑な紋様が刻まれた魔具――を右手に取り出すと、そこに魔力を注ぎ込んだ。
瞬間、玉から眩い魔法陣が浮かび上がる。
それは、いざという時のために術式を保存しておける特別な魔具である。あらかじめ術式を刻んでおき、今のように所定量以上の魔力を注ぎ込めば、瞬時に発動できる仕組みだ。
一度きりの使い捨ての魔具ゆえ、本当は温存しておきたかった。
しかしこの状況では背に腹は代えられない。
だがすでに、フィアラの放つ熱波はアレクの肌を焼き焦がさんばかりの距離まで迫っていた。
灼熱の奔流がアレクの意識を白く染め上げんとする――その刹那、先程と同等かそれ以上の水流が魔具の玉から噴出し、襲いくる火炎を再び水蒸気へと変え去った。
まさに間一髪である。あと二秒遅れていれば、アレクは致命的な不利を背負っていただろう。
下手をすれば戦闘不能に陥っていた可能性すらある。とはいえ、完全に無傷というわけにはいかなかった。
左腕で頭部を庇ったおかげで大事には至らなかったものの、軽い火傷を負い、腕を動かすだけで鈍い痛みが走る。
もっとも、それもかすり傷程度のものだ。
戦闘続行に大きな支障はない。
しかし、安堵する間もなく、すでにフィアラが間近まで迫ってきている気配を感じ取る。
やはり息つく暇さえ与えられない。
アレクは再び空中に術式を描き始めた。常人なら術式を完成させるには到底間に合わないほどの至近距離である。
だが血の滲むような修練を積んできた彼ならば、それが可能だった。
とはいえ、フィアラも先ほどと同じ轍は踏むまい。
アレクの予想通り、フィアラは今度は彼の目前数メートル手前でピタリと動きを止め、無数の炎弾を撃ち放ってきた。
彼女の放つ炎弾が先程にも増して熱気と殺意を帯びていることを、アレクは肌で悟る。
しかし、フィアラが突進を止めて攻撃に移ったことで僅かな猶予が生まれた。
今度はその隙にアレクも術式を余裕をもって完成させ、解放する。
轟然たる水流が炎弾にぶつかり合い、互いの性質を相殺して、再び濛々と水蒸気が立ち込めた。
フィアラの猛攻を防ぐべく、アレクは先程よりも多くの水量を術式に込めていたが、それでも相殺が精一杯だった。
彼女の一撃が予想以上に強力だったのだ。
周囲は水蒸気で覆われ、視界はほとんど利かない。
アレクは頼れる感覚を総動員して全神経を研ぎ澄まし、その中でフィアラが迫ってくる気配を正確に捉えた。
フィアラはあえて纏っていた炎のオーラ――火炎の鎧――を一時的に消しているようだが、それでも完全に気配を断つことはできない。
この状況で彼女が自らの炎を収めて接近してくるということは、奇襲を狙っているに違いなかった。
しかも、奇襲を成功させるには二方向から同時に攻め立てる挟撃が効果的だ。
アレクは瞬時にそう推察するや、まず背後から迫るフォーテンへの対処に移った。
素早く懐から三本の投擲ナイフを抜き放ち、背後めがけて一斉に投げ放つ。
奇襲を看破されたことで、フォーテンは一瞬目を見開いた。
だがすぐに平静を取り戻すと、予想通り拳の鉄甲で飛来するナイフを叩き落とそうと構える。
フォーテンの拳甲が迫る刃と激突し、鋭い火花が散った――ちょうどその瞬間、三本のナイフそれぞれの切っ先を中心に半径五十センチほどの魔法陣が不意に浮かび上がったのだ。
「なっ!?」フォーテンが驚愕の声を上げる。
視界は煙に閉ざされているとはいえ、相対位置とナイフの速度さえ計算すれば、術式の解放タイミングを図ることはできる。
そして、ここでアレクが発動した術式の内容はただ一つ。
ナイフにさらなる加速を与えるものである。魔法陣が輝き、ナイフは慣性を無視して軌道を変えながら一層の速度で飛び、拳甲の防御を掻い潜った。
しかしフォーテンも己に速度強化の魔法を掛けていた。
その恩恵で、彼は土壇場で回避行動に移ることができたようだ。
飛来した三本のナイフのうち二本は、フォーテンの左脇腹と右腿をかすめて通り過ぎる。
だが、残る最後の一本は彼の右肩に深々と突き刺さった。
「ぐっ……!」フォーテンが苦痛に顔を歪める。すべてはアレクの計算通りだった。
フォーテンが避けることまで織り込み、ナイフを放つタイミングと狙いを微妙にずらしていたからこそ、最後の一本を避けきれず命中させたのだ。
この高度な戦術を、視界の利かぬ中で成し遂げたことは、アレクの卓越した気配察知能力の賜物である。
ともあれ、これでフォーテンに手傷を負わせ、戦線から離脱させることに成功した。しばらくの間、彼は戦闘に加われまい。
――次なる脅威は、正面から迫るフィアラである。アレクはすぐさま意識を前方に切り替え、身を翻して構え直した。
だが、その時にはフィアラはすでに眼前に迫っていた。
アレクは苦々しく奥歯を噛み締めつつ、再び懐から白い魔具の玉を取り出し、そこへ魔力を注ぎ込む。
ほぼ同時に、フィアラも再びその血に宿る力を解放していた。
凄まじい熱波がアレクを呑み込まんと襲いかかってくる。
しかし、その灼熱がアレクの肌を焼き尽くそうとする寸前、再び鉄砲水が玉から噴き出した。
先程と同じようにフィアラを押し流そうとする――が、「同じ手は食らわない!」フィアラが叫びながら高く跳躍した。背後に炎を噴射して推進力とし、一気に空中から襲いかかってくる。
だがアレクも瞬時に状況を把握し、即座に最適な行動を取っていた。
とっさに身を左へ投げ出し、受け身を取りつつ地面を転がって、かろうじて直撃の熱波を回避する。
「逃さない!」
もちろんフィアラも見逃しはしない。
転がるアレクめがけて、立て続けに三発の炎弾が放たれた。
「くっ……!」炎弾の殺気を感じ、アレクは咄嗟に身を起こす。
そしてとにかく右へ、さらに右へと、横っ飛びに転がって炎を避ける。
「まだまだ!」アレクがかわすそばから、フィアラは次々と炎弾を追加で放ってきた。
アレクは身を捩り、空中で翻り、地を蹴っては転がり――擦り傷など省みず、ありとあらゆる手段で迫り来る炎を回避し続けた。
その代償に全身は傷だらけとなったが、焼け爛れるよりは遥かにマシである。
そして遂にすべての炎弾をかわし切り、フィアラの攻撃が途切れた刹那、アレクは地面から跳ね起きた。
素早く指先を動かして術式を描き切り、反撃の如く無数の水弾をフィアラめがけて放射する。
すでに力を使い果たし、炎の鎧を解いて肩で息をしているフィアラには、それを防ぐ術はもはやなかった。
無数の水弾が彼女に叩きつけられ、フィアラは意識を刈り取られ――。
――と、その瞬間、フォーテンが横合いから飛び込み、フィアラを小脇に抱えて横跳びに避難した。
間一髪で直撃を逸らし、そのまま二人で後方へと跳躍する。
フォーテンはフィアラを修練場の壁際にそっと下ろし、静かに口を開いた。
「フィアラさん。あなたを一人で相手させてしまい申し訳ありません。ひとまず体力が戻るまで休んでいてください。今度は私の番です。しばらくの間、私が一人で引き受けましょう」
「……わかりました。お願いします」フィアラは悔しげに唇を噛みしめ、わずかに俯いてからしぶしぶ頷いた。
本来ならアレクは、この隙に反撃を続行したいところだった。
だが先ほどの立て続けの回避行動の反動で、今になって眩暈が押し寄せ視界が揺らぐ。
さすがに高度な身のこなしを連発し過ぎたようだ。
しかし、これでフィアラはしばし戦線を離脱した格好になる。ひとまず一人を無力化できたのは大きい。
やがてフォーテンはフィアラのもとを離れ、改めてアレクの正面に立った。
だが、彼はすぐには襲いかかって来ず、構えを解いてみせる。どうやら束の間、言葉を交わすつもりらしい。
それはアレクにとっても好都合である。彼もふっと肩の力を抜き、しばし策に乗ってやることにした。
もっとも、いつ敵が飛びかかってきてもいいように、内心では警戒の手を緩めてはいないが。
アレクの様子を窺いつつ、フォーテンが口を開いた。
「近接戦闘は予想通り卓越しています。ですが、それだけであればフィアラさんの力で封殺し、速攻で決着がついていたでしょう」
確かにその通りだった。
フィアラの能力は身に炎をまとい、近付く者をすべて焼き尽くすというものだ。
故に、どれほど接近戦に秀でた者でも近づけなければ意味がない。
かといって、距離を取ってナイフを投げれば直接熱波を浴びずに攻撃できるものの、ナイフは炎に焼かれて炭と化すのがオチである。
フォーテンは以上を踏まえた上で、アレク暗殺の計画にフィアラを共犯者として引き入れたのだろう。
しかし、彼の計算の範囲外だったことが一つだけあった。それは――
「あなたが魔法まで使え、しかも卓越した技量を持っていたことです。そのせいで計画のすべてが崩れました」
フォーテンが静かに言い放つ。
まさしくフォーテンの言う通りであり、その分析は的確だった。
アレクは改めて、この男が今後も必要な駒であると再認識する。
もっとも、実のところアレクがすべてを周到に仕組んでいたわけではない。
この結果を得られたのも偶然の巡り合わせを利用したに過ぎなかった。
例の盗賊団との戦闘跡で魔法の痕跡を残さなかったことや、魔法の代用となる魔石を大量に調達していたこと――それらの行動が、図らずも伏線となっていたのだ。
さらにアレクが今まで一度も彼らの前で魔法を使って見せなかったため、魔法の腕を悟られずに済んでいたのである。
とはいえ、それも実のところ、アレクが「使わなかった」のではなく単に「使えなかった」だけの話なのだが。
だが、もしあの盗賊団との死闘で魔法が使えていたならば、間違いなく彼は魔法を使っていただろう。
ゆえに、今回の勝利は偶然に偶然が重なったものに過ぎない。
一度うまくいったからといって、こんな幸運が何度も続くはずがない。
アレクは今回の結果を教訓と捉え、次こそは必然の勝利を掴むことを自らに誓った。
とはいえ、すでに出てしまった結果は変えられない。だからこそ、今回ばかりはこの偶然を徹底的に利用させてもらうつもりだ。
「見事な分析だ。しかし、結果は既に出ている。その反省を活かすというのなら、使用人を無下にせず、この俺と共に歩む道を選び、次の機会を与えてやることだな」
アレクはそう告げながら、抜き放った二本の剣を構え直し、腰を落として挑発するように笑んだ。
フォーテンがアレクに話し掛けてきた真の意図は、フィアラが回復するための時間稼ぎに他ならなかった。しかし、そもそも今回の暗殺計画は、如何に屋敷の者たちに気付かれずに標的を仕留めるかが肝要だ。
たとえ修練場を結界で覆っていたとしても、アレクが屋敷に不在である事実は時間の経過とともに明らかになってしまう。
故に、時間が経てば経つほどフォーテンとフィアラは焦燥を募らせることになり、戦況は次第にアレクの有利へと傾いていく。
加えて、先ほど連続して強引な回避を行った反動で、アレク自身の平衡感覚もまだ完全には戻っていない。
万全の状態に立て直すには多少時間が必要であるから、そういう意味でもこの対話はアレクにとって僥倖だった。
それに比べ、フィアラの方は多少時間を稼いだところで回復にも限度がある。
メリットとデメリットを天秤にかければ、対話に応じた方が得策だったのだ。
とはいえ、その猶予もそろそろ終わりである。戦いを再開する意思を示すかのように、フォーテンは鉄甲を装着した両拳を眼前に構え直した。
「次などいりません。たとえすべてを犠牲にしようとも、ここであなたを倒します!」フォーテンは決死の覚悟を叫び、拳を構える。
その言葉通り、彼は全身に闘気を漲らせ、徹底抗戦の意思を示していた。
アレクも応じるように剣をきらめかせ、次の瞬間、両者は再び激しくぶつかり合った。