次への障害① 戦闘開始
「アレクさーん!」
明るい声とともに、廊下の奥から手を振りながらフィアラが駆けてくる。
「……ああ、フィアラか」
アレクはその姿を認め、軽く応じた。
「今から修練場へ行きませんか?」
意外な誘いに、アレクは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
時刻は夕刻四時半、空は既に朱に染まり始めている。通常この時間帯、屋敷では夕餉の支度で使用人たちが忙しく立ち働いているはずだ。フィアラも例外ではないと思われたが——
「いえいえ、私は朝食と昼食の当番だったので、夕食の支度は免除されています」
そう言って、フィアラは笑みを崩さぬまま首を振った。
「そうか、それなら構わん。……どれほど腕を上げたか、見てやろう」
アレクはこれまで何度か、彼女に身体操作や技術の基礎を教えていた。余裕のない身でありながら他者に時間を割くのは本意ではないが、早く屋敷に馴染み、必要な布石を打つためには悪くない投資でもある。
フィアラは、メイテルとは異なり取り繕うのが巧い性質を持っていた。アレクとしてはその裏にあるものを見抜くためにも、こうした時間は有用だった。
「ま、待ってくださいよ。一日でそんなに成長しているわけないじゃないですか」
「それは見てみないと分からん。さあ、早く行こう。着替える時間も要るからな」
「は、はい……。なんか今日のアレクさん、ちょっと怖いかも……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、彼女は素直にアレクの隣に立ち、修練場へと歩を進めた。
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修練場が視界に入った途端、アレクは目を細め、その全体を注意深く観察し始めた。装飾は質素で、初夏の夕刻に相応しく、周囲にはまだ柔らかな明るさが残っている。
一見すれば、いつも通りの閑散とした修練場。だが、どこか釈然としない感覚があった。理屈ではなく、直感が告げている——異変が潜んでいると。
気付かれぬよう注意しつつ、不敵な笑みを浮かべながら足を進める。
「さて、今日は一本取れるかな?」
「もう、いいですってば。今日こそ絶対一本取ってみせます!」
着替えを済ませたフィアラが意気込みを見せる。それにアレクは肩を竦め、構えをとった。
「安心しろ、手加減はしない。全力でいってやる」
「そこは普通、加減してくれませんかね……」
唇を尖らせて頬を膨らませるフィアラに苦笑しつつ、二人は扉の前に立つ。アレクが扉を押し開けると、修練場の中には誰の姿もなかった。
フィアラはてててっと駆け出して武器庫から木刀を二本取り出し、一本をアレクに放ってよこす。
「では、始めましょう!」
「……木刀は投げるな。次から気をつけろ」
それでもアレクは構えを取り、相対する。
「はい、いきますよ! いやぁぁぁぁぁ!」
奇妙な叫びとともに突っ込んできた彼女の木刀を見据えた——次の瞬間、背後から殺気が迸る。
「——っ!」
咄嗟に後方へと跳躍。フィアラの木刀は空を切り、その動作を合図とするかのように、背後から何者かの攻撃が迫る。
抜刀の隙などない。アレクは木刀を駆使し、飛び込んできた右の拳を受け流した。だが、手応えは異常だった。木刀に亀裂が入り、破損寸前である。
「まさか……道具か。いや、強化術の気配はない……?」
魔力の痕跡はない。つまりは魔法による増幅ではない。それでも常人の攻撃でこの威力はあり得ぬ。道具か、それとも異能か——思考を巡らす間にも、次の蹴撃が飛んできた。
それを捌き、地に手をついて姿勢を整えると、逆に体勢のまま反撃の蹴りを放つ。まともに受けた襲撃者は宙を舞い、距離を取った。
「……やはりお前か、フォーテン」
アレクの前に立つ男——その正体に疑いはなかった。窓から差し込む夕日が赤く修練場を照らし、フォーテンの表情を鮮明に浮かび上がらせる。
「何故俺を襲う?」
「貴殿はアルディ様に取り入り、すべてを奪う疫病神。我々は今、貴殿を排除せねばならぬ」
「……助けなければ、お前ら全員、盗賊の手にかかっていた筈だ。それを仇で返すとは、ここの教育は随分と歪んでいるらしいな」
アレクは皮肉を交えた冷笑を放つ。
「すべて貴殿の仕組んだこと。そう確信しています」
フォーテンの言葉には確かな決意が込められていた。
「そうか……。けれど、俺もお前たちを排除せねばならん理由がある。ここで終わらせるぞ」
そう言って、アレクは剣を抜いた。左右の手に一本ずつ。戦う意志を、はっきりと示す。
だがその緊張を破ったのは、別の声だった。
「なんで……」
それはフィアラの声。震えた声だった。
「……なぜ私には、何も言ってくれなかったのですか、アレクさん」
「————」
低く、か細いその声は、しかしアレクの耳には何よりもはっきりと響いていた。
「それとも……私のことなんて、どうでもよかったんですか?」
普段の快活さや芯の強さとは正反対の、抑揚を欠いた糾弾の響き。それはかえって不気味なほどに胸へと刺さった。彼女に視線を向けるも、フィアラはうつむいたまま、表情まではうかがえない。
「私は、あなたを裏切ったのに……それでも何も言ってくれないんですか?」
「…………」
彼女の怒りをまずは受け止めるべきと、アレクはあえて沈黙を選んだ。だがその態度こそが気に入らなかったのだろう。フィアラは顔を上げ、憤怒と悲哀の混じった瞳でアレクを真っ直ぐに見据え、叫ぶ。
「なんで……なんで何も言ってくれないんですか、アレクさん!」
その怒声を真正面から受け止めたうえで、アレクは静かに口を開いた。
「……お前が最初から裏切ろうとしていたわけではないことくらい、最初からわかっていた。確かに、フィアラは取り繕うのが上手い。並の観察眼では到底見抜けないだろう。だが、隠そうとしている“目的”の方に視点を移せば、推測はそう難しくない」
「…………」
言葉に詰まる気配、息を呑む気配。図星だという反応を、アレクは冷静に受け止めていた。
「お前が、俺だけでなく屋敷の者たちにも何かを隠していること。そして、その“隠し事”から逃げるように、アルディ邸へと辿り着いたこともな」
それは核心に迫る指摘だった。フィアラの中で何かが音を立てて崩れていくような沈黙が続いた。
「だからこそ、屋敷を守ろうとするお前の気持ちも、理解している。裏切りたくなかったが、それでも大切なものを選んだ……それだけの話だろう」
「だったら……」
かすれた声が漏れる。反論の意志も、責める激情も、もはや彼女の中には残っていなかった。アレクはその続きを促すように、言葉を継ぐ。
「だったらなぜ糾弾しないのか。それは、俺自身が説明を怠り、それ故に疑われるのも当然と考えているからだ。だがそれでもなお、俺はフォーテンとフィアラ、お前たちの力を借りたいと願っている」
アレクは静かに踏み出す。彼の意思は揺らいでいなかった。
「だからこそ……今、この場で決着をつけよう。お前自身が戦うと決めたのなら、全力で来い。それでしか……何も変えられない」
この場の騒ぎが長引けば、アルディたちが異変に気付き、事態はうやむやに収まるかもしれない。だがそれでは何も解決しない。不信は燻り続け、やがて再び牙を剥くことになる。ならば、今この瞬間で断ち切らねばならない。
「で、でも……」
未練を滲ませる声。アレクはその揺れを見据えながら、あえて背後の声に耳を澄ませた。
「フィアラさん、騙されてはいけません」
フォーテンの冷静な声が割り込んでくる。
「奴は我々の日常を蝕み、全てを奪おうとしている張本人です。賊が屋敷を襲撃してきた時、即座に人質が解放されたこと。屋敷の構造を熟知し、警備を掻い潜れたこと。これらは事前に計画を知っていなければ不可能な行動ばかり……それが証明しているのです」
筋の通った論理。冷徹なまでの結論。フィアラが再び言い募ろうとするが——
「し、しかしアレクさんは、私たちを……」
「感謝は確かにするべきでしょう。しかしそれは己の利益のために与えられた“恩”に過ぎません。今ここで手を打たなければ、我々にはもっと過酷な未来が待っている。フィアラさん、あなたも覚悟を決めるべき時です」
フォーテンは決断を迫る。そして——
「……アレクさん、ごめんなさい」
呟きとともに、フィアラの身体が眩く輝き始めた。
「ッッッ!?」
空気が焼け、周囲を灼熱が包む。フィアラの茶髪が燃え立つような紅に変わり、瞳もまた紅蓮に染まる。その姿は、かつて伝説に名を残した「イフリール一族」の顕現そのものであった。
「……イフリール一族は滅んだはずだが、その末裔が生きていたとはな」
アレクは驚愕と共に、その存在の重みを認識する。滅びたとされた一族の力が今ここに再び姿を現したのだ。だが、彼は動じない。
「……いきますよ、アレクさん」
炎を背に、フィアラが進み出る。その力は確かに強力で、そして貴重な駒となり得る。ならば今ここで、彼女の全てを受け止める必要がある。
「かかってこい、フィアラ。お前の全てを、受け止めてやる」
その言葉と共に、紅き炎が咆哮を上げ、アレクへと襲いかかった。




