惨劇と始まり
——酷い惨状だった。
肉片は四散し、地面は血の海と化している。響き渡る断末魔と咆哮。空間を満たすのは、死と絶望の音色ばかり。しかし、そのすべては結界の外側の出来事でしかなかった。結界の内側——そこだけは、まるで異世界のように静寂が支配している。血もなければ、肉片もない。鳴り響く声すら、遠くかすかに聞こえるだけ。
だが、それでも——彼の心までは守れなかった。
アレンの胸中では、痛みと苦悶が渦巻き、頭の内側を蠢く幻覚めいた錯覚を呼び起こす。怒り。悲しみ。憎悪。そして——無力感。
それらすべてが、彼の精神を蝕んでいた。
理解はしていた。頭では分かっている。ただ、理解していることと耐えられることは、決して同義ではない。必死に意識を逸らそうとしても、理性で感情を押さえつけようとしても——心は、それを許してはくれなかった。
——なぜ、今なのか?
助けない理由が、どこにある?
——自分は……本当に、これでいいのか?
家族を。友を。大切に思う者たちを——見殺しにして良いのか。
理性は答える。
——そうするしかない。
彼らはアレンのために戦っているわけではない。すべては計画のため。未来のため。その時間を稼ぐために、彼らは命を賭している。アレン自身がこの計画の要。ここで倒れれば、全てが無に帰す。それだけは絶対に許されない。
理性は冷静だった。しかし、心は違った。
湧き上がる激情が、理性を呑み込もうとする。痛む頭。滲む冷や汗。動揺は隠せない。教育され、準備されたはずの自分が、今ここで揺らいでいる。自問が胸を穿つ。
——足りないのか……自分は。
焦燥が募り、理性の防壁が音を立てて軋む。
「俺は……皆を!」
叫ぶように、反射的に駆け出しかけた。
その瞬間——
充填されていた『術』が完了する。計画遂行が可能になった。
「……いや、駄目だ」
アレンは歯を食いしばり、再び意識を外界から切り離す。理性がかろうじて持ち直した、その直後だった。
——結界を守護する防壁が、魔獣によって破られた。
音が、感覚が、一気に押し寄せる。彼の視界に映ったのは——異形。
まるでハイエナを無理やり引き伸ばしたかのような不気味な体躯。黒と赤が混ざり合った血色の瞳。腐臭と異臭を放つ体表には、どす黒い血管が絡みつき、脈打つ様は生理的嫌悪を呼び起こすほど禍々しい。
——猶予は、ない。
凶悪な牙が今まさに、アレン目掛けて飛びかかろうとしていた。術が発動するまでに、その牙は届くか——否、確実に届く。
なのに——
奇妙な冷静が、アレンを支配する。それは激情が処理しきれず、反動で訪れた虚ろな冷静だった。
——これで、終わるのか。
その瞬間、彼の視界を覆ったのは——少女だった。
華奢な身体でアレンを庇い、魔獣へと立ち塞がる。彼が愛し、守りたいと願った存在。碧眼の少女は、死を前にして微かに微笑んでいた。
「またね」
唇が、そう動いた。彼女の口癖だった。
——そして。
彼女の首が、魔獣の牙に喰い破られる。
その光景を最後に、アレンの意識は時空の彼方へと引き裂かれていく。意識が遠のく中、彼は誓った。
——必ず……。
——必ず俺が、未来を変えてみせる。
もはやそこには、人間が集い暮らしていた痕跡は一片たりとも残っていなかった。
血に塗れ、破壊し尽くされた研究施設。屍は散乱し、魔獣たちがその肉を醜悪に貪り合う光景は、まさに地獄そのもの。
——だが。
その中に、ぽつりと佇む一つの人影があった。
常識では考えられないことに、飢え狂う魔獣たちはその人影に目もくれない。ただ、屍を奪い合い、貪り続けている。
そして——人影もまた、眼前に広がる無残な死を前に、何の感情も見せなかった。
その人物はふと、ゆっくりと頭上へ視線を向ける。十秒……いや、それ以上。静かに空を見上げ——呟いた。
「過去へ、逃げられたか……」
わずかに目を細め、周囲を見渡してさらに言葉を続ける。
「まあ、逃げられたものは仕方ない。どの道——終焉は避けられんよ」
無感情に紡がれたその声は、魔獣たちの肉を引き裂く音に掻き消され、誰に届くこともなかった。