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第3話

「――え!? そうなの!?」

 いつも通りの金曜日。

 仕事を手早く終わらせて急いで帰宅した優は、今日はシズレーよりも早く帰宅できたようで、少し遅れて現れたシズレーと優の部屋で過ごしていた。

 先日優が買った丸いクッションはとてもシズレーには似合わない。かっちりした制服を着込む軍人様にふわもこクッションて。これでも落ち着いた色目のものを選んだつもりではあるが、おそろしく似合わない。もう一度突っ込む。マッチョ様にふわもこて。

 直視するとうっかり笑い出しそうになるのであまり見ないようにしていたが、シズレーから告げられた言葉に驚いて、おかしさも忘れ優は真っすぐにシズレーを見返した。

 シズレーは言った。遠征に出るのだ、と。

 なるほど。そういえばシズレーは軍人だった。つい忘れていたその事実を思い出して、優は一人頷いた。出張などない学習塾の事務員には縁遠い話題だ。

「どのくらいかかるものなの?」

「特に何もなければ、三月ほどだ」

「うわ~三ヶ月もかかるのか~。そっか……」

 衝撃を受ける優とは裏腹に、シズレーはいつもの淡々とした語り口調だ。

 それ以上言葉が続かなくて、優は先ほど飲み干したばかりで手持ったままだったアルミ缶の飲み口をかし、と噛んでしまう。

 三ヶ月。優にとってその期間はとても長い。

 学生時代からの友人だって半年に一度会えば良い方だし、放任気味の母子家庭で育った優は母親にすらこの一年会っていない。それなのに三ヶ月シズレーに会えないと聞いただけで、ずりしと気分が落ち込んだ。

 シズレーと出会って九ヶ月。親しみを覚えるようになって半年。その半年もの間、毎週金曜日の逢瀬を楽しみに、何とか日々を過ごしてきた。

 どれだけ校舎長にいびられようと、変わり映えのしない生活に疲れようと、金曜日になればシズレーと会える。それが、三ヶ月も会えないとなると、どう過ごせばいいのか。優はすっかりシズレーとの金曜日に慣れきっていて、シズレーのいない週末の過ごし方を忘れてしまった。

「……でも、ずっと遠征先(そこ)にいるわけじゃないんでしょ? シズ、ちゃんと帰ってくるんだよね?」

「もちろん」

 恐る恐る確認すればすぐさま答えが返ってくる。

「そっか……」

 きっとこんなに落ち込んでいるのは自分だけだろうな、と思うとなんだか悔しい。

 涼しい顔のシズレーは優に三ヶ月会えないことなんて、なんとも思っていないのだろう。

 偶然金曜日の夜を一緒に過ごしているだけの赤の他人。シズレーと優は仲は悪くはないが、おそらくシズレーにとって単なる知り合い程度の存在でしかない。

「……おみやげ」

「ん?」

「遠征のお土産買ってきてよ、シズ」

 暗い気持ちを払いのけてしまいたくて、優は努めて明るくシズレーに笑いかけた。

「みや、げ?」

「そう。あ、ごめん。もしかして出張土産とかそういうのはないかな?」

「いや……あるにはあるが」

 いつも明朗快活なシズレーが珍しく言い淀んだことから、何か変なことを言っただろうかと不思議に思いながら優は続ける。もしかして土産をねだるようなことは、シズレーの世界でははしたないことだっただろうか。

「食べ物とか飲み物とかさ、何かシズのお勧めのものを持って帰ってきてよ。それで、一緒にここで食べようよ」

 それはとても良い考えに思えた。

 シズレーが優のために土産を選んでくれるとなれば、彼のいない三ヶ月もそれを楽しみに待てるような気がする。

 「ね」とにっこり笑う優に、一瞬シズレーが硬直した。

「エールとかさあ、こっちでも地酒ブームなんてあったんだけど、現地のものとかあったらいいなー。あ、でもこの間のパイも美味しかったし、食べ物でもいいかも!」

 一人うきうきと話す優は気付かない。

 シズレーの瞳に不穏な光が過ったことに。


 カン、と空になったビール缶がラグに音を立てて置かれる。

 毛足の長いラグは普段物音を響かせないが、それを超える強さで置かれた缶は歪につぶれていた。

「……それだけか」

 不意に暗くなった視界に「え?」と優が顔を上げれば、目の前にシズレーの端正な顔があった。

 ごく平均的な日本人顔である優とは違う、こちらの世界で言えばアングロサクソン系の彫の深い目鼻立ち。薄く引き結ばれた唇が触れそうなほどの距離。

「それだけなのか」

 もう一度シズレーは低く押し殺した声で言った。

「え? な、なにが!? っていうかシズ、近いよ!」

 最近すっかり恋人の影もない淡白な生活を送っていた優にとって、この接近度合は妙に落ち着かない気分になる。おまけに相手は優の好みのド真ん中をいく美形マッチョだ。

 ぐい、とシズレーの顔を押しやろうとして伸ばした手を、そのまま彼に掴まれた。

「ちょっと……」

 自分とは違う、大きな筋ばった手。手の甲にいくつも走る小さな傷が、彼が紛れもなく軍務に就く人間であることを示している。

 彼の指が簡単に回ってしまえるほどの自身の手首が、いつもより頼りなく見えて鼓動が高鳴った。

「ユウは、俺と三月も会えないことを、何とも思わないのだな」

 真っすぐに見つめられて、尋ねられた内容がろくに頭に入ってこない。

「え、ええと……?」

「ただでさえ七日に一度だけしか会えないのに」

「え……」

 シズレーは「一度だけしか」と言った。

 優はこの逢瀬を毎週心待ちにしているが、「しか」という言葉を使うということは、もしかしたらシズレーもそう思っていてくれていたのか。

 そして意識して明るくやり過ごそうとした優にこんな風に激昂してくれたということは、それはつまりシズレーは――

 いや、待て。

 仮に思い合っていたとして、この関係はいつまで続くのか?

 混乱する優の中に残る冷静な部分が、冷ややかに告げる。

 七日に一度のほんの僅かだけしか会えず、親や友人に紹介することすらできないこの非建設的な関係は、果たして一体いつまで。

 半面、優の中の夢見がちな部分は想われているかもしれないという期待にざわつく。いっそのこと、こんな世界など捨ててシズレーの世界にいってしまえば良いのでは、と。そうすればこの嫌な日常から逃れられる。

「……っ」

 最後に頭に浮かんだ現実逃避願望に、優は息を呑んだ。

 慕う気持ちと逃げ出したい気持ちのどちらが強いのか分からなくて、そんな自らの卑怯さに衝撃を受けたのだ。

「と、とりあえず!」

 この醜い計算高さをシズレーに知られたくなくて、優は声を上げた。

 じっとこちらを見ているシズレーの眼差しから逃れるように手を動かす。するりと自然に放された手を自身に引き寄せて、ぎこちない笑みを浮かべた。

「ちょっと、落ち着いて話をしようよ。ねっ?」

「ユウ」

「ほら、そうだ、お、お茶、お茶淹れてくるからさ!」

「ユウ」

「待ってて、すぐ……」

「ユウ!」

 シズレーの腕をすり抜けるようにして彼から離れた優は、視線を合わせることなく、言い訳を重ねて寝室から離れ、キッチン部分に向かった。

 優だけが自由に出入りできるそこに、異界の住人であるシズレーは立ち入ることができない。


 ――はずだった。

 唯一の例外を除いては。


 混乱する思考を落ち着けるように無心に電気ケトルに水を入れていた優は、後方からばさばさと衣擦れの音がしてケトルを片手に振り返った。

 濃紺のジャケットが音をたてて床に落ちたところだ。

 ストイックさを感じさせるジャケット姿から、幾分ラフな白いシャツになったシズレーが、無表情にその釦にも手をかけて、隠れていた胸元が徐々に露わになる。

「し、ず? なにして……」

 シャツも脱いだ上半身裸の彼が下衣のベルトにも手をかけたところで、優は彼が何をしようとしているかに気付いた。

 異界の部屋からは出ることができない。枷となる服を着ている限りは。

「ちょっと、ま、待って! 脱ぐな! 落ち着いて! うん落ち着こう!」

 いくら筋肉フェチの優でも、全裸になろうとする美形マッチョの前では「いいぞもっとやれ」とはとても思えない。いや泥酔していれば少しは思ったかもしれないが、あいにくあまりの衝撃に僅かな酔いさえ吹き飛んでる。というか半裸で迫るマッチョってどんな修羅場。

 普段の優であれば惚れ惚れするような逞しい腹筋を見せたままのシズレーは、じっと優を見ている。

 赤くなったり青くなったり慌ただしい顔色の優を見るシズレーの灰紫の瞳は、怖いくらいに真剣だ。

 きっと彼は優がこの場を適当にごまかそうとしたことに気が付いたに違いない。

 そして優ははっとした。

 優がごまかそうとしたのは、自分の現実逃避をシズレーに知られたくなかったが故であるが、客観的に見れば、優の行動はシズレーの気持ちには応えられないと言っているに等しく――

「あの、シズ」

 違うのだ、と言おうとしたところで、シズレーは不意に優から視線を外した。

「……悪い」

 長い睫毛に隠れて鋭い双眸が見えなくなる。

「シズ?」

 LDK部分で立ち尽くしていた優は、慌てて彼の名前を呼ぶ。

 何故なら、優から視線を外したシズレーはその類まれな筋肉美も隠さず、くるりと優に背を向けたからだ。綺麗に浮かんだ肩甲骨が妙になまめかしくて、優は金縛りにでもあったかのように身動きが取れなかった。

「今のは、忘れてくれ」

 硬い声で言うシズレーは狭い寝室ではとても大きく見えるのに、すらりと伸びた背筋と優に向けられた金色の後頭部がとても遠く感じた。そういえば知り合ってから九ヶ月も経つが、いつも互いに並んで座るか向き合っているばかりで、彼の背中などまともに見たことがなかった。

「ちょっと、シズ、待ってよ!」

「――ではな」

 優の静止も聞かず、シズレーは振り返ることなく壁へと足を進める。

 毎週金曜日の夜九時から三時間。部屋は繋がったままで深夜になれば元に戻っているものだが、今はまだ十時を過ぎたところだ。

 慌てて寝室に戻った優がシズレーの逞しい腕に触れる直前、彼の姿は壁をすり抜けるようにして唐突に掻き消えた。ただ白い壁紙があるだけのそこは、おそらくシズレーの部屋であれば扉にあたる部分なのだろう。

 残された優は勢いのまま寝室の壁にぶつかって、思わずいらだち紛れにどんと壁を殴った。

「待ってって言ったのに!」

 部屋には優だけである。シズレーは制服を拾いもせずに去ったので、彼が立っていた足元には白いシャツと濃紺のジャケットが脱ぎ捨てられていた。

 一体何なのだ、あの態度は。

 というか先ほどシズレーは、三日後から遠征に出かけると言っていなかったか。そして戻るのは三ヶ月後だと。

 それなのに、この気まずい雰囲気を放置してさっさと去っていった。

 始めに会話から逃げ出したのは優であるが、それはさて置いて優は憤慨する。

「っていうか今の何! 忘れてくれって何よ!?」

 遠征の話になってから、三十分と経っていないはずだ。

 急すぎる展開と、置いていけぼりにされた事実に、優は愕然とする。

「このまま三ヶ月も放置するつもりなの? ちょっと、戻ってきなさいよシズ!」

 十二時まではまだ時間がある。彼がもう一度寝室のドアを開ければこの優の部屋に繋がっているはずだが、優からシズレーの部屋に行くことはできない。仮にここがシズレーの寝室であれば、彼がしようとしたように服を脱げば出られるかもしれないが、ここは優の部屋なのだ。

 異界に声が届くことはないと知りつつも、優は何もない壁に向かって叫んだ。

「ねえシズってば!」

 そして壁を殴った手がじんじんと痺れを訴え始めて、そこでようやくここが賃貸アパートであることを思い出して我に返り、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。


 シズレーが戻ってくる気配はない。

 まだ体温の残るシズレーの軍服を手繰り寄せて、呆然とする。

 彼が去るまでのやりとりを思い浮かべて、優は視線をあたりにうつろわせた。


 これまでずっと、単なる知り合い程度に思われているに違いないと決めつけていた。

 今まで仕事の話や休日の話など色んなことをシズレーと互いに話したが、恋愛に関する話は自然と避けていた。一度だけ恋人がいないことをシズレーに言ったし、彼もそうだというのは聞いたことがあるが、暗黙の了解とでも言うのか、そうした話題になりそうな雰囲気の時は、どちらともなく話題を変えていたように思う。

 だが、シズレーは優のことを憎からず思っていてくれている。きっとそれは、優がシズレーを思うような気持ちで。だから、彼との別離を何でもないことのように受け止めた優にあれだけシズレーは動揺したのだ。そしてそこから逃げ出した優に、失望した。

 けれど仕方がないではないか、と優は八つ当たり気味にシズレーの軍服を握りしめた。

 優は、夢見る少女では最早ない。

 これが中学生や高校生の頃なら、喜んで彼の手を取って現実から逃げ出していただろう。

 だが優は大学を卒業し、社会で働く大人だ。働いて税金を納めてなんとか人並みの生計を立てている。

 仮に現実から逃げ出して、どうなるのか。

 まずは勤務先に迷惑がかかる。優が勤務する校舎の事務員は優だけだ。ある日突然優が消えようものなら、あの校舎の事務まわりはめちゃくちゃになるだろう。

 それにいくらいけ好かない校舎長とは言え、部下が出勤してこなければ探すなりなんなりするはずだ。音信不通気味の母親にだって連絡がいくだろうし、警察の捜索も行われるかもしれない。もしかしたら母親は悲しみはしないだろうけれど、それでも優が逃げだすことで迷惑を被る人は少なくないだろう。

 そんな未来を予想すれば、自然と彼と真剣に相対することから逃げ出していたのだ。

 何もかも捨てて男に走るには、優は常識に縛られ過ぎていた。


 もしかしたら、シズレーは二度とこの部屋に現れないかもしれない。

 ふと想像したことに、優はぞっとした。

 会わないようにしようと思えばできるのだと、今更にして初めて気が付いたのだ。

 どちらが先に帰宅していたとしても、七日に一度の三時間、その間シズレーが寝室に入らなければ会うことはない。

 シズレーは『ではな』と言い置いて去って行った。

 いつも別れ際はどうだった? 思い出して、優は唇を噛む。


 ――いつもシズレーは『またな』と言ってくれていた。七日後にまた、と。


「どうしよう……」

 会えなくなるかもしれないなどと、考えたことはなかった。


 その晩、シズレーが再び現れることはなかった。





「斉藤さんさあ、昼頼んだことまだ終わってないの?」

 退勤間近、アルバイトの大学生と手分けして片付けていたところで、本日最後の授業を終えて事務室に戻ってきた校舎長が話しかけてきた。

 プリントアウトしたままにしてはいけない生徒の成績表をシュレッダーにかけていた優は、その声を聞いただけで身が竦む思いで手を止めて振り返る。

「校舎長……」

「これ、採点しておいてって頼んだよね?」

 彼が指さした先には、優のデスクに置いたままのテストの束。出勤するなり、彼に採点作業を依頼されたものだ。

「え」

 一拍おいて、優は怪訝げな声を漏らした。

 以前のテスト作成のことがあってから、校舎長に依頼される業務については常に期限を確認してきた優である。今日も校舎長は、『まあ明後日くらいまでにはやってもらえれば』と言ったはずだ。依頼されたのは本来講師が行うはずの記述式問題の採点で、到底事務員が短時間で終えられるものではない。

「あの、期限は明後日では」

 思わずそう口にすると、彼はとてもわざとらしくため息をついた。

「確かに期限は明後日でとお願いしたけど、まだ全く手をつけていないってどういうつもりか、ってことなんだけど。あのさあ、斉藤さん、やる気ないの?」

「そんな」

 今日は月曜日で、保護者の電話対応や本社から指示された他の急ぎの業務があったから手をつけられなかっただけで、決して放置するつもりなどないのに、その言いようはひどいのではないか。

 そんな優の心の声が表情に出てしまっていたのだろう。

「校舎長、それってちょっと言いがかりなんじゃないですかぁ? 私も斉藤さんも、今日月曜日だし、手一杯だったんですよー」

 仲の良い大学生が気まずい空気を払拭するかのように、明るく口を挟む。

 だが校舎長はちらりと彼女を一瞥しただけで、蔑むように言い捨てた。

「バイトは黙ってろ」

「……っ!」

 彼女も優も、あまりの台詞に息を呑む。

 他の講師がまだ教室から戻って来ないのを良いことに、校舎長は続けて言った。

「だいたいさあ、斉藤さんって俺のこと嫌いだろ。顔見てればそれくらい分かるんだよ。だから俺の依頼した業務は後回しにしてるんだろう? あーあ、やだやだ、これだから気分で仕事をする女は」

「っそんな、ことは」

 一瞬言葉に詰まったのは、『校舎長が嫌い』というその一点はまさしく事実であったからだ。

 だが気分で仕事をしたことなど優は一度もない。彼が嫌いでも依頼された業務は常にこなしてきた。シズレーに愚痴を言うことはあったが、それが仕事であればきちんと取り組んできた。そんな風に軽蔑される筋合いなど決してない。

 気分で仕事をしているのは、校舎長の方だ。気に入らない優をいびり抜くために本来事務員の仕事ではない業務を指示し、優が少しでも手を止めるのを許さない。

 ただ、そうさせているのは自身の態度が一因かもしれない、と優は思った。

 校舎長を嫌う気持ちが伝われば伝わるほど、優へのあたりがきつくなっている。

 けれど優は別に人間ができているわけではないから、ある種いじめのように接してくる校舎長に対して、にこにこと受け流すことなどできなかった。

「あーあ、もういいよ、依頼した俺が間違ってたよ」

 優の反論を聞くこともせず、彼は机の上に置いたままの束を手に取って、自席へと向かった。

 依頼した校舎長が間違い、というのは意味合いだけとれば正しい。元々は講師の業務である。ただし、彼が言ったその台詞は優への蔑みが多分に含まれていた。

「もっと使える事務員採用されねえかな」

 優へ聞こえないようにする配慮などかけらもなく、椅子へかけた彼が呟く。

 隣の大学生がめげずに非難の声を上げようとしたのを見てとって、優は彼女にそっと首を振った。

「……でも」

「いいの」

 唇だけで呟くように告げる。

 負のスパイラルだ。この状況はこの先も変わりないように思えて、胃がシクシクと痛んだ。


 シズレー。

 シュレッダーにかける手をまた動かしながら、優は音にせずに唇を動かした。

 助けて、と叶うはずもない願いを胸のうちで呟く。

 いや、彼に助けを求めたところで、どうにもならないことは分かっている。始めに彼との真剣な話し合いを放棄して逃げ出したのは優なのだから。

 都合のいい時だけ頼ろうとするのは優の身勝手だ。

 それでも優は祈るようにシズレーの名を唇に乗せることを、やめられなかった。


「あれ、斉藤さんたち、もう時間ですよ? 大丈夫ですか」

 別の講師が教室から戻ってきて、まだ作業を続けている優たちを心配そうに見遣った。

 校舎長は素知らぬ顔で何やらパソコンに向かってキーボードを叩いている。

 優はなるべく自然に見えるように愛想笑いを浮かべて頷き、大学生に早く帰るよう促した。

 校舎長に押し付けられていた記述式の採点は彼が引き取ったのでなくなったが、業務はまだほかにも残っていて、今日も日付が変わるまでに帰宅することは難しそうだった。


 そして優は、仮に今日が金曜日であったとしても、急いで帰る気のない自分がいることを理解していた。

 ただただ、考えることを放棄するようにして残りの業務に手をつけた。

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