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第12話

 ガタゴトと軽快な音を立てて馬車が街道を進む。窓越しに広がる風景に、学生時代最後の旅行で行ったドイツの片田舎を思い起こしながら、優はほうとため息をついた。

「綺麗ですねえ……」

「はい?」

 思わず日本語で呟いた感嘆に、ハンナが不思議そうに首を傾げる。慌ててレビネルの公用語で綺麗だと言ったのだと伝えれば、彼女は少し誇らしげに頷いた。

 何とありがたいことに、こちらの常識に明るくなく、また意思疏通も難しい優のために、ハンナが同行してくれているのである。

 城で働く女性というのはある程度の上流階級の出身であろうにと、恐縮しきりの優だったが、ヘンリックに「一人で行ってみろ。お前みたいなのは(かどわか)しに遭うか、騙されて無一文で迷子にでもなるのが目に見えている」とせせら笑われて憤慨しつつ思い直した。

 同時にそんなに治安が悪いのかと不安になったものだが、単に彼なりに、シズレーの知人である優のことをほんの少しは心配してくれているらしい。

 そして続けて告げられたヘンリックの言葉を思い出して、優はハンナに話しかけた。

「ハンナさん、殿下、言う。気を付ける、するって」

「え?」

「ええーと、誰って言ってたかな殿下。あ、そうそう、ストフリーさん!」

 考えながら話していたら途中から日本語になっていたが、固有名詞を聞き取ってくれたハンナは目を丸くした。

「ワンダ様ですか?」

「そう、その人。ワンダ・ストフリーさん。ハンナさん、知る?」

 知っている人なのかと尋ねれば、ハンナはぱちぱちと瞬きをしたあとで、とてもおかしそうに笑った。

「ふふ、殿下はお可愛らしいところがありますのね」

 可愛い、という単語にぎょっとして優は身動いで椅子に背をぶつけた。地味に痛い。

 あのヘンリックと可愛いという形容詞は全く、全く、相容れないものではないか! レビネルの「可愛い」には「信用できそうにない」とか「鬼のよう」とかそういう意味があっただろうかと悩んでいる優に、ハンナはころころと笑いながら続けた。

「ワンダ・ストフリー様は、勿論存じ上げています。殿下はユウさんに『ストフリーに気を付けろ』と仰ったんですね?」

「そう。怖い?」

 あのヘンリックが気を付けろと言うくらいだ。よほどの要注意人物だろう。名前からすると女性のようではあるが、財務長官のように筋骨隆々の「くまその2」くらいなのだろうか。気に入らない相手は初対面であっても拳でぶちのめしていく系の。

 はらはらしている優をよそに、ハンナは「ちっとも怖くなんてないですよ」と微笑む。

「そうですねえ、一言で言えば憧れの女性、ですかね。女性なのですが騎士でいらして、何というか……とても紳士的な方ですよ」

「紳士」

 とは、男性を形容するものではなかったか。

「お会いになればユウさんも分かると思います」

 某有名女性歌劇団を思い浮かべて、男装の麗人とかそういう感じだろうか、と見当をつけつつ、それにしても、と首を傾げる。

「殿下、なぜ?」

 そんな人物なのならば、何故ヘンリックはわざわざ優に気を付けるよう忠告してきたのだろうか。

 ハンナはその質問を待っていたとばかりに前のめりになり、とっておきの秘密を打ち明けるように優に言った。

「ワンダ様は、殿下の元ご婚約者なんですよ」

「?」

 ヴァレンスお手製の単語カードにはない響きに優が「何?」と尋ねれば、ハンナは人差し指を立てながら「殿下、結婚、約束」と単語を並べてくれた。

「……ええっ!?」

 再びぎょっと身を引いて背中をぶつけて、痛さに悶絶する優である。

 あの人でなし(優による偏見あり)に婚約相手がいるなんて驚きだ。まあでもそう言えば、すっかり忘れかけていたのだが、ヘンリックはレビネルの皇子だ。婚約者の一人や二人や三人はいてもおかしくない。美女を(はべ)らせてゴブレット片手に高笑いしてそうだし(優による以下同)。

 教育的に非常によろしくない想像図を思い浮かべてげんなりしてから、優はふとあることに気付いた。

「……あれ、ハンナさん、元、言った?」

「ええ。残念ながら婚約は何年も前に白紙になっています。ですが、殿下は決してお嫌いになったわけではないようですよ」

「なぜ?」

「未だ独身でいらっしゃいますし、わざわざ私を側で雇ってますから。私、以前はストフリー公爵家に奉公しておりましたので」

 いくつか聞きなれない言葉があったが、要約するとハンナはワンダと個人的な付き合いがあるらしい。そして元婚約者になったとは言え、彼女の動向が気になるヘンリックは敢えてハンナを近くで働かせている、と。

「本当は私、皇子の側仕えができるほどの身分じゃないんですけどね。それで、殿下がああいう言い方をすれば、ユウさんはワンダ様を警戒して気にかけられるでしょう? 殿下はワンダ様がどうしていらっしゃるか、ユウさんからお聞きになりたかったのではないでしょうか」

 回りくどいな! と優はこの場にいないヘンリックに心中で突っ込んだ。

 素直に、気になる相手だから様子を見てこいと言えば良いものを、人にちょっとした恐怖を植え付けて、一体何なのか。あまのじゃくなのか。小学生男子か。

「なら、必要、ない?」

「そうですね。警戒、という意味ではしなくても大丈夫でしょう。騎士中の騎士と言っていいほど、公明正大なお方ですから」

 難しい表現をされるとヒアリングもお手上げ状態なので、優はふうんと適当に聞き流すことにした。


 その後、打ち解けてみれば意外と俗っぽいところのあるハンナといわゆる恋バナで盛り上がり、この際だからと異性には聞きづらかった生活面での質問を投げ掛けていると、太陽が真上にさしかかったあたりで馬車が止まった。

「ああ、もうお昼ですね」

 馭者(ぎょしゃ)と短くやりとりをしたハンナが「昼食にしましょう」と決めて馬車から降りるように促してくる。

 レビネルに来て以降、ヴァレンスの根回しで騎兵隊の食事を融通してもらっていた優は、ひそかに目を輝かせた。

 騎兵隊はヴァレンスなどを除いてほとんどが武人集団なので、用意されている食事はスタミナ定食といった様相の、肉!肉!更に肉!ごくまれに野菜!という食事だったのだ。お世話になっている手前、勿論文句は言えないのだが、もう少しヘルシーなものが食べたいと思うのは微妙なお年頃にとっては切なる願いだ。

 よいしょ、と優は肩からかけていた鞄を抱えて立ち上がった。

 鞄の中身は、財務長官からもらった騎兵隊の経費推移の資料や、ヘンリックの執務室にあった経費書類の原本、それに隊員名簿である。絶対になくすなとヘンリックから厳命されているのでこうして身につけているのだが、何しろ重い。ハンナが「持ちましょうか?」と心配そうに尋ねてくれたが丁重に断った。ハンナはあくまで同行者であって、優が何のためにシズレーに会いに行くのか、実のところ詳細は知らされていないのだ。

 事情を知る者はそれだけ危険だから少ない方が良い、というのがヘンリックの考えである。「あたしは危険に晒されても良いって言うんですか!」と唇を尖らせたが、「さっぱり分からんなあ」と首を傾げる小憎らしい演技まで交えてスルーされてしまったのは出発直前の出来事だ。

 大容量データを簡単に持ち運べるUSBメモリやSDカードに慣れている現代人の優は、常にない重みにふうふう言いながらハンナについて歩き、辿り着いた飲食店で大いに食事を楽しんだ。

 空腹は最大の調味料とはよく言ったものだ。バター系のこってりとした味付けだが、ぺろりと平らげることができた。

 優はこれまで自らを食に貪欲なタイプではないと思っていた。だが醤油と味噌を取りに戻るためならば現代社会に戻ってもいいかも、と都合良く考えたことに、我ながら情けなさを覚えつつも、おかしかった。


 食べ物がおいしい。自由に飲み物が飲める。

 たいしたことはしていないが、ヘンリックやヴァレンスの執務室で細々とした作業をこなすのは楽しい。

 噂話に花を咲かせる相手がいる。

 外見は好みのド真ん中なうえ、親しみを覚えるシズレーがいる。

 そしてここでは、誰も優に手をあげない。


 ――一週間以上失踪していたというマイナスな札を引っ提げてまで戻る価値が、果たしてあちらにはあるだろうか。


 戻らない理由を正当化しようとする自分を俯瞰(ふかん)して苦笑をこぼしたところで、店の入口に馭者が姿を現した。彼は馬車を預けてきたので遅くなったのだ。

「いやあ、すみません、すっかり遅くなりました。つい惚れ惚れするような馬に会いましてね!」

 純朴そうな見た目をした中年の彼は、ほくほく顔で席についた。

 人より馬が好きと公言して憚らない彼は、店員を手招いて料理を頼みながら、(うまや)で見かけた馬がいかに素晴らしかったか熱弁している。馬のことなどさっぱり分からない優は、ハンナが絶妙なアルカイックスマイルで受け流しているのに倣った。

「筋肉の付きかたも絶品でしてね! 流れるような上腕頭筋と艶っぽく盛り上がる上腕三頭筋の素晴らしさときたら! ありゃ良い馬でしたなあ。とびきりの軍馬に違いないですよ」

 生憎優は人間の筋肉専門である。

 だが軍馬と聞いてほんの少し興味を覚えた。シズレーは騎士だと言っていた。レビネルにおいて騎士とは現代で言うところの名誉称号ではなく、その名の通り乗馬の戦闘員で、彼も馬を乗りこなしているという。シズレーに会うのはいつも室内だったので勿論優は彼が乗馬するところを一度も見ていないが、実際の馬を見れば最近たびたびしている妄想もはかどるのではないだろうか。

 ちら、とハンナに視線を移して、優はそんな欲望に忠実な願いを諦めた。ハンナは引き続き菩薩の顔で聞き流していたからである。アルカイックスマイル怖い。


 ここで優が勇気を出してハンナに願いを告げていれば、この先の事態が大きく変わっていたことを、三人の誰も、知る由もなかった。



 食事を終えた優たちが会計を済ませて店を出てすぐ、興奮した面立ちで店に駆け込んだ者があった。

「今そこでさ、俺、会っちゃったんだよなあ!」

 浮かれる男に、何だ何だと周りがせっつく。

 興奮冷めやらぬ男は大ぶりに手を動かして、「聞いてくれよ」と声を張り上げた。

「あのオトロード様さ!」

 おお、と周囲がざわつくのに得意げに頷いて、続ける。

「何だかお急ぎでいらしたけど、お馬もさすがにご立派でさあ、手綱を預かる手が久々に震えたね! ちょうどそのあと馬車を預けに来ていた別の客とすっかり馬のことで盛り上がっちまったよー」

 交替時間になったので後任に任せてきたが、勿体なくてもう少し残りたかったなあと未練がましく呟きながら、それでも男は満足げに笑みを浮かべ、早速並べられた料理に舌鼓を打ったのだった。





 その夜、砦に着くにはあと二、三日はかかるために宿屋に連れられた優は、狭いが整えられた部屋の片隅で資料を広げていた。ハンナと馭者とは別の部屋である。さすがに四六時中共にいると互いに気を遣うからと相談して分けてもらったのだ。

 異国語で書かれた資料は意味が分からず、眺めているだけで何かが理解できるということもないのだが、シズレーに会いに行く途中なのだと思えば脳がすっかり興奮してしまってなかなか寝付けないのだ。

 ちらりと視線を寝台に向けて、先ほど一度寝転んでみた感触を思い出す。

「……柔らかかったなあ」

 何が、というと、つい昨日まで寝泊りさせてもらっていたシズレーの寝室の寝台が、である。

 この宿もヘンリックやヴァレンスが充分な路銀を持たせてくれているからか粗末な宿では決してないのだが、昨日までと比べると格段に劣る。

 すっぽりと包みこまれるような、それでいて体が沈み込み過ぎないほどの弾力があったことを思い出す。安くてもそれなりに質の良いものが手に入る日本において、量販店で買ったマットレスを使っていた優は、レビネルに来てもあまり睡眠に不都合を感じなかったが、それは特別だったのだと今更ながらにして気付いた。

 シズレーは騎兵隊の隊長であり、ある程度身分の高い人物である。

 その彼に宛がわれるものが粗末なもののはずはなかったのだ。

 身分というのはそうした生活の質に明確に表れるものなのか。なるほど、と感心したところで、考えないようにしていたことが脳裏に過った。

 誰も何も言わないのでなし崩しにシズレーの部屋に寝泊りしていたことを、シズレーはどう思うだろう。

 あんな風に話し合いの場から逃げ出した卑怯な優のことなど、とっくに愛想を尽かしているのではないだろうか。そんな女が勝手に自分の部屋で寝泊まりしていると知れば、気分を害してしまわないだろうか。

 誰だって自分のプライベートスペースに他人が足を踏み入れれば多少は気を悪くするだろうし、その相手が気に入らない相手ならば尚のことだ。

「どうしよう……」

 彼に出ていけと言われたら、ヴァレンスあたりに泣きついて部屋を用意してもらおうか、と他人任せなことを考えたところで、いやいや、と優は首を振った。

 先ほどからこんなけしからぬことばかり考えている自分に、我ながら驚きである。

 異界で旅路に就くという非日常にわくわくしているのもあるが、何よりも、この道程の先にはシズレーがいる。その事実に心が落ち着かず、まるで遠足前日の子供である。これではとてもヘンリックのあまのじゃくさを笑えない。

 そうして自分を戒めても夢想は留まるところを知らず、優はシズレーに会えば最初に何を話そうか、などとまた考え始めながら、手元の資料を見るともなしにぱらぱらとめくった。


 仕事でとびきり嫌な目に遭ったこと。

 レビネルに来てしまったこと。

 シズレーの上着を羽織ったままこちらに来てしまったために、零時を超えても自分の世界に戻れなかったこと。……いや、勝手に上着羽織ったとか恥ずかしくて言えない。うん、これはごまかそう。

 こちらに来て始めに会ったヘンリックから、滞在許可をもらって仕事を少しだけ手伝っていること。

 ハンナと仲良くなったこと。

 ヘンリックがワンダという女性に小学生男子的な恋心……なのかよく分からないが、素直じゃない気持ちを抱いていること。これはシズレーに教えたら面白そうである。もしかしたらヘンリックとシズレーはいとこだそうだし既に知っているのかもしれないが。


 そして。

 あの夜、話し合いから逃げ出したことを、とても後悔していること。

 優がシズレーを慕わしく想うように、彼もそう思ってくれていたと知って嬉しかったのに、自分の勝手な都合できちんと向き合わなかった。こんな打算だらけの女ではあるが、もう一度あの時のやり直しに、きちんと話をさせてもらいたい、と。


 ――それから、あちらの世界にもう帰りたくないこと。


「……見事に自分のことばっかだな、あたし」

 挙げ連ねた事柄を思い返して、優は自嘲した。

 あの夜、シズレーの気持ちが変わってしまったかもしれないのに、どこまでも自分勝手な空想を繰り広げている。

 人の気持ちなど、変わらない保証はないのだ。

 何人もの恋人に振られては新しい恋を探してふらふらとしている母親をずっと見てきたのに、ずっと友達だと言っていた友人が結婚や出産を経て自然と疎遠になったのに、まだ夢を見ている。


 ふふ、と笑いたくなったところで、注意散漫になっていた優は手元の資料を取り落とした。

「あ、しまった」

 慌てて拾いあげて、手で埃を払い落とす。幸い資料の綴りが解けるようなことはなく、ヘンリックの雷は免れそうだった。

「……あれ?」

 ちょうど開けたページの経費書類に、優は手を止めた。

 そのサインに見覚えがあったのだ。散らかったヘンリックの執務室を無心に片付けていた際、いくつも同じ名前を見かけた。あまりによく見かけるので文字は読めはしなかったが何となく形は覚えている。

「あー、そういえばこの人は、不備全くなかったなあ」

 他人事ながら悲しくなるくらいに事務効率の悪い騎兵隊内では、経費書類は不備があって当たり前、という笑えないレベルだ。ヴァレンスの手助けにと経費書類に目を通していた優は、この名前の主だけは枚数が多い割に一度も不備がなかったので「この人すごいなあ」と思っていたのだ。きっと完璧主義なのだろう。

 あいにく優は見覚えのある名前のほかはどういう内容なのか知り得ない。

「まあでも字が綺麗だから騎士の人かな?」

 レビネルは身分で教育水準が違うそうで、字の上手い下手で騎士か兵士か見分けがつくという。

 それにしても、騎士なのにこんなに立て替えなどの雑用をしなければならないなんて、騎士の中でも新入りなのだろうか。

 優の働いていた校舎ではどれだけ新人だろうが講師はぽんぽん雑用を優に投げてきていたし、優もそれが自分の仕事だと承知していたので特に不満はないが、ここでは違うのだろうか。

「そうそう、ハーキムって読むんだっけな」

 シズレーはあまり耳馴染みがないが、ヘンリックやヴァレンス、ハンナといったようにヨーロッパ風の響きが多い中で、どちらかと言うとエジプト系の響きだったから何となく耳に残っていた。家名にあたる部分は読めないので分からないが、それも変わった響きなのだろうか。

 神経質な程整った署名を眺めて、優はこの人は定規を宛ててサインでもしてるんだろうかと、どうでもいいことを考えながら、ぱたんと資料を閉じた。

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