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第10話

 シズレーへの手紙を書いてもらった翌日、優はヘンリックの「お遣い」で皇宮内をてくてくと歩いていた。

 手紙がシズレーのいる砦まで届くには多少時間がかかるそうで、特にすることもないのでひたすら雑務に励んでいたら、書類仕事はもうあらかた片付けてしまった。

 また明日になれば大量の書類が執務室に届けられるのだろうが、雑用係でしかない優にはヘンリックやヴァレンスがしているような重要書類には手を出せない。手を貸せと言われたところで困るのでそれは良いのだが。

 そうしてハンナが淹れてくれた紅茶を片手にまったりと過ごしていたら、暇そうにしているのがヘンリックの(しゃく)に触ったのかお遣いを命じられた。

 優がせっせと添削して再提出された経費書類を、財務の部署へ持ち運ぶというだけの簡単な仕事だ。

 道が分からないとごねようかと思ったが、有能なヴァレンスがすぐさま行先までの地図を描いてくれた。そこは有能でなくとも良かったのに。

 ささやかな敗北感を味わいつつ宮内を歩いているのだが、これはこれで結構良い観光だなと、優は気持ちを切り替えた。

 異界であっても基本的に動植物は変わりないのか、回廊部分から見える庭は見事なダリアが咲き誇っている。

 綺麗だなあとのんびり横目で見て通り抜けながら、景色を綺麗だと思えるくらい、周りを見られるようになったことを実感した。追い詰められるようにただ仕事をしていたのはほんの最近の出来事なのに、もう遠い昔のことのように思える。

「……もう水曜日か」

 月曜日から数えて三日だ。三日、塾に行っていない。

 今頃あちらではどうなっているだろうか。一日ならばともかくもう三日。単なる無断欠勤ではもう済まされない。

「明後日は、金曜日」

 ぽつりと呟いて、その「キンヨウビ」の響きが少しも魅力的に聞こえないことに、優は耳を塞ぎたい気分だった。

 戻るなら次の金曜日しか機会はない。

 一週間の失踪ならばまだやり直せる余地はきっとある。期間が延びれば延びるほど、あちらの世界での優の居場所は消えていく。

 それでも。

「……せめて、シズの返事があってから」

 それは単なる現実逃避だと分かってはいるけれど。


 そして地図通りに歩いて辿り付いた先、ヘンリックとヴァレンスの執務室よりもよほど簡素な扉の前で優は立ち止まった。

 扉に打ち付けられている木札はおそらく部署名が書かれているのだろうが、読めない。だがヴァレンスはそれも予想して地図に部署名を書いておいてくれたので、照らし合わせて間違いなくここが目的地であると知れた。

 皇帝の執務室とは異なり部屋の前には兵士などもいないので、少し迷ってから優は扉を押し開けた。

 扉を開けたその先は、さながら地獄絵図だった。

「……ここもかい」

 思わず心からの突っ込みが漏れ出る。

 辛うじて足の踏み場はあるが、壁際から積み上げられている書類で部屋が狭く感じられた。そこに三十人ほどの財務官たちがそれぞれ慌ただしく働いている。時折聞こえる怒号はここが軍の訓練場かと間違えるほどだ。

「あ、君は確かヘンリック殿下のところの」

 げんなりしている優に、扉の近くに座っていた一人の青年が声をかけてきた。何度かヘンリックの執務室に来ている財務官だ。

「……こんにちは」

 かなり正確に発音できるようになったレビネルの公用語で挨拶すれば、彼は手元で次々と捺印していくのを止めないまま「お遣いかい?」と尋ねてくれた。

 多分彼とは同年代か、下手をすれば年下なのだろうけれど、あっさりとした顔立ちの優はここでは年若く見られるらしい。(ちなみに初対面の際、ヘンリックからは実年齢よりも年上の未亡人だと思われていたと知った時は、思わず拳を固く握りしめた優である。)

 いちいち年齢を口外するのも面倒なので、優は気にせず持っていた書類を彼に差し出した。

「これ、決済、済んだもの。処理、お願い」

「ああはいはい、騎兵隊の経費精算ね」

 ようやく捺印の手を止めて、彼は受け取りながらざっと内容を確認している。

 手持ち無沙汰になった優は脇に避けられた捺印済みの書類を盗み見て、定規をあてたかのように真っすぐ中央に捺印されたそれに、職人技を見た。勤め先の塾で領収書に日付印を捺すたび、ぷるぷる手を震えさせていた優とは大違いだ。

「――うん。流し見しただけだけど、特に不備はなさそうだ。ここ数日騎兵隊からの不備がぐっと少なくなって、助かるよ」

 そうでしょうとも! と請け合いたい気分だったが、ヘンリックやヴァレンスならともかく顔見知り程度の相手に調子に乗るのはやめておく。

 ひとまずヘンリックのお遣いはこれで済んだので、後の処理は財務に任せて部屋を出ようと背筋を伸ばした時。

「オラァ、そこの下っ端ぁ! くっちゃべってる暇がありゃ仕事しろ仕事ォ!」

 ただでさえこちらの世界の言語は聞きとりにくいのに、巻き舌がふんだんに散りばめられた罵倒が飛んできて、優は思わず首を竦めた。

 どうやら世間話をしていると思われたらしい。部屋の奥の方から聞こえたので上官だろうか。硬直する優をよそに、慣れっこらしい青年はちらりと優を見上げて苦笑してから、口元に手をあてて叫び返した。

「してますってば! 騎兵隊の経費がきたんで確認してただけっすよ!」

「オウ、それならいいんだそれならヨォ! ……って、騎兵隊っつったか今!」

 財務は怒鳴らないと仕事できない部署なのだろうか。

 ヘンリックとヴァレンスは時折議論を交わしているがそれは静かなものなので、あまりに予想外だ。早く帰りたいなと優がそうっと身を(ひるがえ)そうとしたところで、のしのしと足音を立てて奥から人が出てきた。

「……くま」

 くまだ。熊がいる。森のくまさん的なファンシーなやつではなく凶暴なの。

「アァン?」

 日本語の呟きに思い切りアウトローの口調で唇をひん曲げた男は、シズレー以上に大柄な男で、広い肩幅と分厚い胸、それに(こわ)い顎髭が相まって見事なまでに熊のようだった。

「ああ長官、この子がヘンリック殿下のとこのお遣いですよ」

 長官、という単語を聞きとって、優は冗談はほどほどにして欲しいと真剣に思った。こんないかにも軍人に見える粗野な男が財務長官であるなどと、何かの間違いだ。

「おい娘、殿下のとこってのは本当かい?」

 無遠慮な仕草で両肩に手を置かれ、本人にそんなつもりはなくとも、その手の重さに肩がはずれる、と恐怖を覚えながら、優はこくりと頷いた。すると鋭い瞳が優を上に下に眺めまわし、ばすんばすんと肩を叩かれた。

「そぉかァ! お前が騎兵隊の不備を減らしてくれた立役者ってやつかァ! 人は見た目に寄らねェなあ!」

 見た目に寄らず財務長官なんて職についている男に言われたくない。よほどそう言いたかったが、あまりに遠慮なく肩を叩かれるので優は足に力を入れるのでいっぱいいっぱいだった。

 どうやらこの男はヘンリックから事情を聞いているらしい。ヘンリックもヘンリックで、誰が不備削減に貢献したのかを包み隠さず言う程度には、この男と関係が深いのだろう。

「え、そうなんですか?」

 書類を受け取ってくれた彼が驚いた様子で尋ねてくるのに「……一応、そう」となんとも覇気のない返事をして、優はやめてくれないかなーという気持ちを大いに込めて財務長官を見上げた。わはははと口を大きく上げて笑っている長官は、放っておくとこのまま優を胴上げでもしそうな勢いだ。

「いいぞォ、娘! その勢いで騎兵隊の経費節約にも取り組んでやってくれよ!」

「経費、節約?」

 それは多分、というか間違いなく、優の手に負えるような仕事ではないように思うのだが。

 だが優がオウム返しに呟いたことを、内容について尋ねたと勘違いした財務長官は、ようやく優の肩から手を離して腕組みをし、続けて言った。

「そうとも!」

 いちいち感嘆符エクスクラメーション・マークをつけるような声で話さなくても聞こえている。先ほど回廊で耳を塞ぎたくなったのは精神的なものによるが、今は物理的に耳を塞ぎたい。

 少し身を引きながら、この場を去る機会をうかがっていた優だったが、次の財務長官の言葉に動きを止めた。

「特に第二騎兵隊のをよォ!」

「……第二」

 第二騎兵隊とは、シズレーが率いている隊のことではなかったか。

 シズレーの関係することとなると何でも情報を得たくなって、優は先ほどの及び腰から前のめりになった。

「長官、そんなこと言ったって仕方がないですよ。第二騎兵隊は毎年遠征があるんですから、遠征の少ないほかの隊に比べて経費がかかるのは当然です」

 青年が上司に向かって呆れたように口を挟む。どうやらこの財務は、比較的ざっくばらんとした職場のようである。

 ヘンリックの三歩後ろをついて歩くような従順なヴァレンスとはまるで異なる。職場によって違うんだなあ、とヘンリックの身分をすっかり忘れて関心する優である。

「違ぇよ、下っ端。お前の目は節穴か、アァン?」

 そう言って、財務長官はまたのしのしと部屋の奥へ進んで行き、優と青年がぽかんとしている間に書類を手に戻ってきた。

「よォーく見てみろォ」

 そんなことを言われてもレビネルの文字はまだ読めないのだが、と思いながらも優が彼の差し出したものを見てみれば、それはグラフで記された経費の推移のようだった。グラフがあって良かったとほっとしつつ内容を確認する。

 月ごとに記されているらしい経費は、秋から冬にかけての部分で大きく棒が伸びている。なるほど、遠征に費用がかかるというのは道理だ。

 だが前年、前々年と同様に記されているものを見て、あれ、と優は呟いた。

「増えている」

「あ、ほんとですね」

 前年や前々年も秋から冬にかけて経費が増えるというかたちは同じだが、明らかに今年の方がその増え方が大きかったのだ。

「そうだろぉ? さすがに増えすぎだからってんで、あの涼しい顔したお綺麗な隊長サマによぉ、嫌みの一つも言ってやろうと思って、注意はしたんだがなァ」

 涼しげな顔をした隊長とは、まさかシズレーのことだろうか。

 単純な優はシズレーを冷やかすように言われたことにむっとしたが、財務長官は全く気付いた素振りもなく、続けた。

「だいたい、馬具やら武器やら、新調希望が多すぎンだよなァ。そんなに買い替える必要なんてないだろうによォ」

「……まあ、あそこは荒っぽい隊ですから、物も壊れやすいんじゃないですか」

 青年の口出しに、「失礼な、シズは素敵なマッチョで荒っぽくなんかないぞ!」と胸のうちで反論して、けれど、と優はもう一度グラフを見直した。

 確かに経費の増え方は尋常ではない。何か特別なことでもあったのだろうか。

 全くの部外者である優にはグラフを見ただけでは少しも分からなかったが、一応、財務長官の言葉はヘンリックにも伝えておくべきだろう。

「長官、これ、同じの、あるなら欲しい」

「おっ! なんだ、やる気になってくれたのか! 不備削減の立役者が、今度は経費削減の立役者になってくれんのかァ!?」

 くま、うるさい。いい加減耳が痛くなってきた優は顔をしかめながら、上機嫌で長官が差し出した紙を受け取る。

 こんなことを財務で言われていると、ヘンリックだけではなくシズレーにも知らせた方が良いだろう。

 少しでも彼の役に立ちたくてそんなことを考えながら、優は続く長官の言葉を聞き流して、財務の執務室を辞した。



 思いのほか長く滞在してしまったことを苦く思いながら往きと同じ道程を歩いて戻ると、全く心配していないヘンリックと、今にも執務室を飛び出しそうな勢いのヴァレンスが待っていた。

「ああ良かった、ユウさん! 迷子にでもなったのかと!」

「迷子、ない。長官、話、長い」

 長官の長話に巻き込まれたのだと説明すれば、途端にヴァレンスは同情の様子を見せてくれた。ヘンリックはにやにや笑っている。

「あの長官、一度捕まると長いですからね……」

 何度も経験があるのかヴァレンスにしてはとても嫌そうな顔つきで、その彼と愉快そうなヘンリックを見比べて、優ははたと気付いた。

「……殿下」

「なんだ?」

「殿下、そうなる、分かる、いた?」

「何が言いたいかさっぱり分からんな。お前の公用語は拙い」

 分かっているくせに! と優はヘンリックを睨み付けた。財務長官に捕まると長引くのが分かっていて、それを優に説明せずにお遣いに出したのだ。むうと顔をしかめる優に、ヴァレンスが慌てて「まあまあ、ユウさんお茶でもどうですか」と宥めてくれる。その紅茶はハンナが随分前に入れてくれたものだ。とっくに冷めている。

「……」

 ジト目でヴァレンスを見遣れば、彼は慌ててハンナを呼びに行った。


 彼が部屋を出ていくのを見送ってから、優はそう言えば、と手元の書類に視線を落とした。

 目ざといヘンリックは「財務からか?」と問いかけてくる。

「そう。長官、第二騎兵隊、経費、増えている、言った」

 ヘンリックに伝えるつもりでもらってきた資料なので、はいと渡せば、初めて目にしたのか彼は目を(みは)った。

「……財務はこんなものまでまとめていたのか。細かいやつらだな」

 まあ財務とは得てしてそういう部署だろう。ヘンリックを含め、ほかが大雑把すぎるのだ。

 驚きながらも内容に目を通したヘンリックは、優と同じ部分で目を止めた。

「なんだこれは。こんなに増えているなんて聞いていないぞ」

 やはり知らなかったのか。

 色眼鏡で見ているシズレーとは異なり、優はヘンリックに対しては特に思い入れもないので、隊の長官ならそのくらい把握していて然るべきでは、と斜めに見遣った。口にしようものならまた「お遣い」を頼まれそうだったのでおとなしく口を噤んでおく。

「長官、ぶ、ぶ……武器? 新しく買う、多い、言った」

「なんだと?」

 シズレーより色鮮やかな紫の眼差しが冷ややかに優を見据えてくる。こっちを睨まれても、と思いつつ優は資料を指さした。

「武器、そんなに、必要?」

「……遠征を機に古くなった武具を買い替えることはざらにある。だがそれだけでこんなに経費が跳ね上がるのは解せない。……何かあるのか?」

 一人腕組みをして考え込んだヘンリックに、優は声をかけないでおこうと少し離れた。

 ハンナとヴァレンスはまだかな、と扉に視線を向けたところで、ヘンリックが「ユウ」と呼びかけてくる。考える時間が短すぎやしないだろうか。有能な人の思考回路はどうなっているか分からないものだ。はいはいなんでしょう、と振り返れば難しい顔をしたヘンリックが腕組みを解かぬまま、言った。

「お前、経費書類をまとめていたな?」

「え? ああ、うん」

 仕事を与えられた初日にハンナとひたすら片づけてこの部屋を綺麗にしたのは最早良い思い出だ。

 ファイリング癖のある優はその際、決済済みで財務から戻ってきた経費書類は隊ごとに分けてまとめておいた。ようやくその機能を存分に果たしている棚へ向かい、第二騎兵隊のファイルを引っ張り出す。そのファイルは第一や第三以降の隊に比べると確かに分厚かった。

「どうぞ」

「……隊ごとに分けてまとめたのか」

「日付の順番」

 部署ごと、日付順に並べるのは当然である。当然のことをしたまでなので感心されても妙な気分になるだけだ。

 ぱらぱらと日付の古い方からめくっていたヘンリックは、最新のものまでざっと目を通したところで、顔つきを険しくした。

「……合計が合わない」

「え?」

「お前、本当に隊ごとに分けたのか? 混ざっている可能性は?」

 怪訝な表情を向けられ、失礼な、と優は顔をしかめた。

「それは、ない。自分で二回、見た。そのあと、ハンナも、二回」

 ほかの隊のものが混じっていれば気付いているはずだ、と言い張る優に、ヘンリックはもう一度経費書類を始めから見直した。そして最後まで確認してから優を見据える。

「やはり金額が合わない。書類が抜けている」

 ヘンリック曰く、一度各隊から上げられた申請書は彼の決裁を受けて、財務へ回される。そして財務が経費処理をして申請者へ給金に上乗せするかたちで返金をし終えたら、処理済みの印を捺されて書類だけが第一騎兵隊へ戻ってくるというのだ。

「……財務、持ってる?」

「それはない。あそこは確かにお前が見た通り書類の山だが、提出した総数と戻ってきた総数はヴァレンスが確認していた」

「……なら」

「この部屋から、なくなったと考えるのが妥当だろう」

 結論を出すヘンリックをよそに、優は彼が手持っているファイルに視線をやった。決して少なくはない枚数だったはずだ。その金額を合計したと?

 優の視線がどこへ向かっているのかに気付いたヘンリックはにやりと笑った。

「なんだ、これくらいの計算もできないのか?」

 電卓を持っていない優にはとてもできない。だができないと認めるのも悔しくて、ぐぬぬと唸った。というか、そんなスピード暗算ができるくせに事務効率が悪いって、どうなってるんだこの皇子、と明後日の方向なことを考える優である。


 ファイルした優も間違っておらず、計算したヘンリックも間違っていない。書類はすべて戻ってきている。では、誰かが故意に書類を隠匿したのだ。

 ――誰が?

 少し前のこの部屋の様子を思い出して、犯人を特定するのは難しいだろうなあと優は思った。

 床に重要書類が散らばったままだったこの部屋なら、書類を提出しに来たふりをして目的のものを持ち去ることなど、容易だったことだろう。

 散らかし放題だったあなた方が悪いんですよね、という視線を向ければ、ヘンリックに「何か言いたいことがあるのか」と意地悪そうな顔で言われたので優は「いえ」とさっと目を逸らした。

「ああ、そういえば第二の次官から名簿の取り寄せ依頼がきていたな」

 第二、とのフレーズに逸らしていたはずの視線を戻してヘンリックを見る。開封済みの手紙を透かし見るようにかざして、彼はぽんとそれを優に寄越してくる。反射的に受け取ったが当然文字は読めない。

「あちらでも何か気付いたのか?」

 ヘンリックは優に話しかけているわけではなく、独り言ちているだけのようだ。

 席を立ち、優が片づけた棚に向かったヘンリックは、分厚い名簿を手に戻ってきた。第二騎兵隊のところまで行きあたると見るともなしにそれを見ている。

「……ユウ」

「?」

 名を呼ばれて顔を上げれば、閉じた名簿を肩にとんとんとあてて、ヘンリックは面白がるように優を見つめた。

「お前に、『お遣い』を指示してやろうか?」

「お遣い」

「……この名簿を砦まで送る必要がある。それに経費書類や財務の資料とあわせて説明した方が良いだろう。郵書屋に頼んでもいいが、事が事だ。ヴァレンスに行かせようかと思ったが、あいつがいないと仕事が滞るし――ユウ、お前が行くか?」

 優にはゆっくりと話すように努めてくれているヴァレンスと違って、ヘンリックの早口の言葉は聞きとりにくい。それでも何とか反芻(はんすう)しながら意味を汲み取った優は、数秒遅れてヘンリックを凝視した。

 その、砦というのは。

「シズの、」

 それ以上の言葉が続けられずに立ち尽くす優を見て、ヘンリックはいつもの意地悪そうな、それでいて少し親しみを込めた笑みを浮かべた。

「休暇とでも思え」

 一度も見たことのないその笑みに、優は嬉しく思うよりもまず恐怖を覚えた。

 第二騎兵隊の次官からきた手紙を胸に抱きしめ、疑いの眼差しをヘンリックに向ける。

「……罠」

「なわけあるか! お前、俺を何だと思ってるんだ!」

 鬼だと思っている、とは賢明にも口にしないでおいた優だが、多分表情に出ていたのだろう。「いい度胸をしているな」と綺麗な顔で微笑まれた。とても怖かったので優はまたさっと視線を逸らしたのだった。


 シズレーに会える。

 ピアスの留め具(キャッチ)とともに手紙を出したばかりではあるが、本人に会えるのならばこれ以上の幸運はない。手紙にシズレーが返信を出してくれるとしても、その返信が優の手元に届くより、優が砦に着く方が早いという。

 軍事遠征というれっきとした職務に就いているシズレーを訪れて良いものかと悩んだが、ヘンリックの名代というかたちであれば問題はないそうだ。

 ハンナとともに戻ってきたヴァレンスも「それは良いですね!」と笑ってくれて、とんとん拍子に話が進んでいく。

 善は急げとばかりに外出の用意をしてくれるハンナについて歩きながら、一瞬、頭の片隅を(よぎ)った感情に、優はかたく蓋をする。


 シズレーに会いに砦へ向かうのならば、少なくとも二日後にこの皇都には戻れない。

 二日後の、金曜日には。


 現実世界に戻らない理由を見つけて感じた喜びには、気付かないふりをした。

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