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第1話

 金曜日の夜。

 仕事終わりのビジネスマンと、夜の街に繰り出す学生たち。スマホをものすごい勢いでタップしている女性は誰かに連絡でも取っているのだろうか。

 ぼんやりと彼らと夜景とを流し見ながら、(ゆう)は通勤バッグに入れていた時計代わりのスマホを手探りで取り出した。

 時間は九時過ぎ。家に帰る頃には十時頃だろう。

 ――今日は金曜だ。

 これまで金曜日の夜なんて、一週間分の溜まりに溜まった疲れでぐったりとしているだけだったのに、この半年、優は金曜日のこの時間に心が浮足立つ。

 ――今日は彼に会える。

 ついにやけそうになる顔を引き締めて、スマホを鞄にしまい、目を閉じた。

 いつもはどうせ帰るだけで面倒だからメイク直しなんてしないのに、今日は仕事上がり、駅ビルのメイクルームで簡単に化粧を整えた。

 月曜から木曜はパンツスーツばかりだけれど、金曜だけはスカートで。勤務先の講師たちに、裏で「あの人金曜日は彼氏にでも会うのかね」と囁かれていることは知っているが、そんなことは気にならなかった。

 少しストライプの効いた、ラインのきれいなスカートは最近買ったばかりにお気に入りだ。

 彼としてはこのスカートの長さはおそろしく短く感じるものらしく、二度めに会った時など「はしたない!」とお前はどこぞのロッテンマイヤーさんか、ってくらいの形相でたしなめられたものだけれど。


 最寄り駅のコンビニでカクテルチューハイとビール、それに彼の好みそうなおつまみをいくつか買い込んで。

 十時になる五分前、住み慣れた1LDKのアパートの鍵を開ける。

 ぽいぽいとパンプスを脱ぎ捨て、鞄もそのあたりに置いて、手にはビニール袋一つ。寝室のドアについた何の変哲もないノブを捻るとそこには――



「――遅かったな、ユウ」

 ああ、やっぱり。

 彼が、待っていた。

「シズ、こんばんは」

 コンビニを出てから家まで急いで帰ってきたものだから、毛先があちこちにはねてしまっている。それを手でそそくさと撫でつけながら、優は彼に笑いかけた。

「ああ。ユウ、おかえり」

 優の笑顔につられたように彼が小さく笑う。その笑顔を見ただけで、一週間分の疲れが癒されていくようで、優は彼に気付かれないようにほうと息を漏らした。

 優がシズと呼びかけた男――シズレーは日本人ではない。

 それどころか、優が周囲の人に話したところで誰にも信じてもらえないだろうが、この世界の人ではない。

 『レビネル皇国』の『皇国軍第二騎兵隊の隊長』を務める騎士だそうだ。


 初めてこの部屋でシズレーに出会った時、全く理解できないことばかり話す彼に、思わず警察を呼びかけたのは今となっては笑い話だ。

 そのシズレーもシズレーで、彼の国にはいない、彼曰くの「はしたない」丈のスカート姿で顔立ちも風変りな優を見て、腰に佩いていた鈍色の鉄剣を優の首に突き付けたのも、もう過去のことだ。

 あの時は本当に死ぬかと思った。

 コスプレ好きの友人が持っているおもちゃの剣とは比べ物にならない鋭い剣先は、優が下手に動けば軽い怪我などでは済まなかっただろう。

 あの時のことを口にすればシズレーが海の底より落ち込むことを知っているので、冗談めかして一度だけ「怖かったんだからね」としか言わなかったが。


「今日はシズの部屋なんだね」

「そうだな」

 ぐるりと周りを見渡して、優は感嘆のため息を漏らした。

 相変わらず壮麗な部屋だ。無骨な石壁は少しも見せず、皺一つなく貼られた白の壁紙に薄く灰色の蔦模様が絡み合いながら複雑に描かれている。飴色に輝く調度品は優からすれば美術品級のものばかりで、触れるのもおそろしい。天井から吊り下げられた集合灯(シャンデリア)の蝋燭がゆらゆらと揺れ、この部屋をほのかに明るく照らしている。

 そして部屋の隅には大きな寝台。少しもシーツが乱れていないということは、彼は眠らずに優のことを待ってくれていたのだろう。


 優には、誰にも言えない秘密がある。

 九ヶ月前、この部屋に越してきた時から――金曜日の夜の間だけ、この部屋は異界と繋がるのだ。

 優が先に入れば優の部屋に。シズレーが先に入ればシズレーの私室に。

 ある一つの例外を除き、その部屋から互いの世界に出ることはできない。優はシズレーの私室の外につながるノブは動かせないし、シズレーはLDK部分にあたる優のスペースに入ることはできない。

 何故このようなことになるのかは分からない。シズレーに確認したところ、以前はこのようなことはなかったと言うから、前の住人も知らないだろう。

 とりあえず、今のところはこれで良いのだ。

 優はシズレーに会うこの時間が大切なのだから。


 シズレーが用意してくれていた椅子に腰を下ろして、優は手にしていたビニール袋を机に置いた。

「今日はなんだ? ビールか、いいな!」

 いそいそとシズレーが袋をのぞき込み、ビールを手にして歓声を上げる。

 こういうところは年上のくせに可愛いな、と優は内心思った。

 それにしてもシズレーにビールは似合わない。ビールが、というよりも、アルミ缶が。

 それと言うのも、シズレーの装いはいかにもな『異界の軍人』だからである。

 上衣は濃紺の詰襟ジャケットに、同色の細身のズボン。これから登山でも行くんですかと言いたくなるようなゴツゴツとしたブーツに裾を押し込んで、腰には優の肩から指さきほどの長さの剣を帯びている。肩の房飾りは明るい金色で、詰襟の白い縁とよく合う。これは皇国軍の制服なのだそうだ。

 そして極め付けは彼の容貌。

 冴えわたる美貌にふさわしい切れ長の灰紫の瞳に、短く整えられた濃い金髪。

 軍人らしく鍛え上げられた肉体は、優など片腕にぶら下げられそうなほど逞しい。

 美青年という言葉より、美丈夫とか言った方が良い感じ。

 この人いわゆる高足のごついゴブレットとか、そういうザ・中世なものが似合いそうなのにアルミ缶て。

 うぷぷ、と吹き出しそうになるので、そっと視線を逸らす優である。

 そんなことも知らずぷしゅと乾いた音を立てて慣れた手つきで開封したシズレーは、実に美味しそうにビールを味わっていた。

「うん、やはり美味い。こちらのエールとは比べ物にならないな」

「そうかなあ? あたしはこっちのビールは苦くてあんまり好きになれないけど、そっちのエールは飲みやすくて好きだよ」

 同じくアルミ缶のプルトップを引き、お気に入りのカクテルチューハイを口にして優は答えた。

 しゅわしゅわと炭酸が口の中ではじけていくこの感覚がたまらなく好きだ。

 別に普通の炭酸飲料がいけないわけではないけれど、やはり金曜の夜くらいはアルコールを流し込みたい。優は酒に強いわけではないので、決まって缶一本分だけしか口にしないけれど。

 喉を通り抜けた爽やかな味に少し心が満たされて、そのあとすぐに一週間疲れが溜まった原因を思い出した。

「ねえ、聞いてよシズー。またあの校舎長ったらね――」

 続く優の愚痴に、シズレーは適度に相槌を打ちながら、優が買ってきた「コンビニスナック」なるつまみ類に手を伸ばし、彼の世界では手に入らない複雑な味わいを楽しんでいた。



 優の勤務先は都会にいくつか校舎を持つ小中学生向けの学習塾で、優はその中でも小さめの校舎の事務員として採用された。

 事務員は一人だけ。講師の授業数などを割り振るのは優の仕事ではなく本社がすることなので、優のすることと言えば、電話応対や新規入塾希望者の取りまとめや、本社から定期的に送られてくる配布物の整理、あとはテストの採点作業など。授業料は大半が銀行引き落としに切り替わっているので会計処理はテキスト代や夏季・冬季講習など普段と異なるときだけでよい。

 簡単な一般事務なので代わりは効くが、一応大学生アルバイトも日に一人はいて、最近とみに口うるさく電話してくる保護者たちの対応に明け暮れている。

 仕事内容に不満はない。効率よく雑務を片付け、一番手間のかかる採点作業に時間を割くようにしている。

 小中学生なので中には読めないような字を書く生徒もいて、実はこれが大変なのだ。

 アルバイトの子たちとああでもないこうでもないと何とか読み解きながら採点を続け、やり終えた後はある種の達成感すらある。


 今日も、講師が採点する最後の記述問題を除いてやり終えたところで、思わずうーんと伸びをしたものだ。

 デスクワークは嫌いではないのだが肩が凝る。

 『終わりましたね~』なんて、こちらも伸びをしながらアルバイトの子が笑って、少し休憩しても良いだろうと、冷蔵庫に入れてある飲み物をその子と一緒に飲んでいた時だ。

『あ、斉藤さん、今暇? 手あいてるんならこれもお願い』

 授業を途中で抜け出してきた校舎長がどさっと優の机に紙の束を置いたのは。

 見れば、つい先ほどまで実施していたのだろうテストの解答用紙だった。

 ――小テストは各自やるはずなんだから、自分でやれよ!

 喉元まで出かかった言葉を無理矢理飲み込んで、口にするはずだったマグカップを置いた。

『承知いたしました』

 え、とアルバイトの子が驚きの声を漏らしたのが聞こえた。

 退勤時間まで残り三十分もない。アルバイトの子を時間を超えて残らせるわけにはいかないから、ほとんど優がやるはめになるだろう。

 それでも引き受けたのは、いや、引き受けざるを得なかったのは、いくら本社に採用されているといっても校舎では校舎長の権限が強く、彼がその気になれば今より遠くの校舎へ転属させられることを知っているからだった。

 仕事を押し付けて上機嫌な彼は、『じゃあ成績入力まで終わらせといて』としれっと仕事を追加して、教室へ戻っていった。

『斉藤さん……』

『あ、いいよ。これはあたしがやっておくから。申し訳ないけど、先に片づけお願いできるかな?』

『……はい』

 ――気にするな、優。

 自分に言い聞かせて腹立たしさを押し隠す。

 どうせ、事務員なんて便利屋としか思っていない校舎長に何を言っても無駄だ。

 待遇が悪くなるくらいなら自分が我慢してこなせばいい。

 今日はシズレーに会えるのだから。シズレーとの他愛ない会話を楽しめば、この鬱憤もすぐに消えてなくなる。

 気にするな。

 もう一度唇の中でだけ呟いて、優は採点に取り掛かった。


 校舎長から次回の定期試験の問題作りを依頼されたのは退勤間近のことで、それにも優はおとなしく頷いたが、思わず噛みしめた唇は痛かった。



「あんたのために取った教育免許じゃねーぞー!」

 ダン、と優がテーブルにアルミ缶をぶつけたところで、シズレーが苦笑した。

 パーティー開きをしたおつまみのナッツを一つつまんで、「まあまあ」なんて言いながら優の口に押し付けてくる。

 思わずそれをむぐむぐと食べて、優はシズレーを見た。

 この人さらっとこういうことするんだなあ、なんて思いながら。恥ずかしくないんだろうか。いや、恥ずかしくないんだろうな。きっとあちらの世界のお嬢様とかには片膝ついて仕えているに違いない、うん。

 適当に決めてかかって、優は納得する。

「美味いか?」

 自分もナッツを口に運びながらシズレーが尋ねたので、優はこくりと頷く。頷いた拍子に頬をすべり落ちた横髪を、とても自然な手つきでシズレーが耳にかけてくれた。

「美味しい。……はあ、スッキリした。シズ、聞いてくれてありがとうね」

 シズレーはとても聞き上手だ。きっとご婦人の話を遮ってはならぬ!とか教育を受けているに違いない。

 それにしても会って早々に愚痴ばかりで申し訳ないなと思いながら、ビニールから水滴をまとった残りのビール缶を取り出した。

「シズ、まだビールあるけど飲む?」

 シズレーは外見からくる期待を裏切らず、酒に強い。優はシズレーが酔っぱらうのを見たことがない。

「ユウはもう飲まないのか?」

 缶を受け取りながらシズレーが小さく首を傾げたが、優はカクテルチューハイ一本で少しほろ酔い気分のまま、ぶんぶんと頭を振った。

「これ以上飲んだら、寝ちゃうからやめとくー」

「そうか」

 頷いて、新しい缶を開けるシズレーを羨ましく見つめた。

 今日は色々と腹の立つことが多かったから本当はもう少し飲みたい気分だが、優はある一定以上を飲むと食事をしていようが会話をしていようがお構いなく眠ってしまうという性質なので、自制する。

 ううむ。それにしてもシズレー、夕食後だろうに、アルコールもつまみもぽいぽい口にしておいて、その体型。羨ましすぎる。

 騎兵隊の隊長とか言っていたしきっと鍛えまくってるのだろうなあ、とジャケットから覗く筋張った腕を見て思う。細マッチョよりはマッチョ寄りだろう。密かに筋肉フェチな優は酔いに任せて「ちょっと上腕二頭筋見せて」とか言わないようにぐっと堪えた。いや案外シズレーなら何でもないことのように見せてくれそうで怖い。

 つらつらとそんなことを考えていたら、神様からのご褒美があった。

「飲んだら暑くなるな」

 二本目も空にしたシズレーが詰襟をぷちぷちと外してジャケットを脱いだのだ。

 ジャケットの下に着るものは特に指定されていないのか、簡素な白いシャツで、その袖をまくり上げている姿に、優は「ぐっじょぶ!」と小さく拳を握った。危うく突き上げそうだった。危ない危ない。

 シズレーは着やせするようで、ジャケットを脱ぐとより筋肉質なのが分かる。

「こっちにはエアコンないもんね」

「えあこん?」

「あたしの部屋にある機械式の冷暖房機」

「ああ、あれか。あれは良い。こちらにもあれば快適なんだがな」

 いやなくても良い。

 今日は実に良いものが見れた。これで疲れも全て昇華された気分だ、とほくほくしている優を他所に、シズレーはよほど暑いのか胸元のボタンを二つほど外していた。そこから覗く胸板にどきりとするよりも、もっとよく見せたまえ、と思う自分に我ながら呆れる優である。

「ユウは暑くないのか?」

 尋ねられて、いやいや、と優は顔の前で手を振った。

 帰宅した時と変わらずスーツを着込んだままであり、暑いというよりどちらかというと肩が凝るような気分だが、だからと言ってこのマッチョ様の前でジャケットを脱ぐのは自分の貧相さが露呈するので恥ずかしい。

 幾分リラックスした格好になったシズレーは行儀悪く片足を椅子の端にかけるように持ち上げて、つまみに手を伸ばしている。

 某ロッテンマイヤー並みにうるさいシズレーなので、これはきっと程よく酒の力が効いているのだろう。ビシッと決めているシズレーも良いが、こんな姿もまたレアで良い。

 今日は良い夢が見られそうだと内心にんまりしつつ、優はシズレーに新しくつまみを勧めて、他愛ない会話を続けた。

 この時間があるから、どれだけパワハラじみたことを校舎長にされようと、放任主義の母がまたろくでもない彼氏をつくっていようと、優より先に結婚した友人が「早く結婚しなよ~子供可愛いよ~」と余計なお世話を口にしようと、全て忘れられる。

 異界同士にある部屋が繋がる現象がいつまで続くか、そんなことは分からないけれど。

 とりあえず優は、金曜日のこの時間を楽しむのだ。


 もしシズレーの部屋の外――向こうの世界に行けるものなら、すべて投げ出して行ってみたいと思うくらいには今の生活に疲れていると、自分でもわかっているけれど。





「斉藤さん、週末にお願いしてた試験問題、できてる?」

 月曜日、出勤するなり校舎長に声をかけられて、え、と優は足を止めた。

 確かに依頼されてはいるが、指示があったのは先週金曜日の退勤間近だ。今日から二、三日かけて、通常業務の合間にやろうと考えていたから、勿論まだ手をつけていない。

「いえ、これからやろうと……」

 だいたい、この塾において試験問題を作る際は、講師が一から問題を作るのではなく、いくつもストックされている問題集から抜き出してきたりアレンジしたりするもので、職場にいなければできない。

 素直にそう返答すれば、優より二十は年上だろう校舎長はあからさまに顔をしかめた。

「ええ!? 困るよ、先週依頼したよね?」

「はい。帰り際に仰いましたが……」

「土日があったでしょ。何やってたんだよもう」

 優に聞こえないとでも思ったのか小さく「使えねえな」と呟いたのを耳が拾ってしまい、優はかちんときた。

 土日など、業務時間外だ。元々問題作成は講師の仕事であるし、単なる事務員に持ち帰りで仕事をしろなどと聞いたことがない。作業の締め切り日を確認しておかなかった優にも落ち度はあるが、そもそもこれは優の仕事ではない。

 ――お、ま、え、が、や、れ、よ!

 彼に見えないように俯きながら唇だけで呟いて、優はぎゅっと強く拳を握った。

 言い返したい。どう考えてもこんなことは理不尽だと。

 現に、校舎長と優とのやりとりを遠くから見ている講師たちは不思議そうに、もしくは憐れむような目で優を見ている。それでも誰も手出しはしてくれないだろう。彼らからすれば校舎長は上司にあたり、一事務員を庇うことで余計な火の粉をかぶることはしたくないだろうから。

 週明けは体調を崩した等の電話が入りやすく忙しい日だが、――仕方ない。

 こみ上げる怒りを吐き出すように細く長い息を漏らして、優はすっと校舎長を見返した。

「申し訳、ありませんでした」

 言って、静かに頭を下げる。

 謝るのも屈辱的だが、謝らねば話が進まない。

 優が頭を下げたことで多少は溜飲を下げたのか校舎長はねちねちとした攻撃をやめたが、「今日中には仕上げといて」と言うのは忘れなかった。

「はい」

 胃のあたりがむかむかする。

 シズレーなみの筋力があれば、こんなやつぶん殴ってやるのに。そんな物騒なことを考えながら、優はもう一度頭を下げた。

 悔しいが一人分の衣食住を十分に賄えるだけの給与をもらえる職場は希少だ。

 大丈夫だ。こんなことは何でもない。

 無理矢理自分に言い聞かせて、優は校舎長がいなくなったのを見計らってから、彼の席の近くにある問題集を取りに行った。



 電話応対や欠席する生徒の補講の手配をこなしながら試験問題を作り上げ、月曜日なのに疲労の溜まる体を半ば引きずるようにして帰宅したのは、日付も変わろうとするところだった。

 昼から勤務の優にとっては珍しくもないが、それにしても今日は疲れた。

 スーツを脱ぐことすら煩わしく、ベッドに倒れ込んで大きくため息をつく。

 食欲はない。それよりも眠りたい。だが、化粧を落とし、服を脱がねば惨憺たる状況になるのは目に見えている。

 重い瞼をなんとか押し上げ、眠気で滲む視界で部屋を一巡した。

「あたし、何やってるんだろう……」

 優はこんなことがしたくて仕事をしているわけではない。

 教員免許を取ったのだって、自分が生徒たちに授業をすることが夢だったからで、決して何でも屋のように使われるためではない。

 保身で言い返せない自分にも腹が立つ。

「……シズレー」

 無性にシズレーに会いたかった。

 今日は月曜日だ。金曜日にならなければシズレーに会えないことは優だって勿論分かっている。分かってはいるが、それでも、ここにいないシズレーを恨めしく思った。

 シズレーに頼めば威力のあるアッパーの繰り出し方とか教えてもらえるだろうか。それか、右ストレートとかハイキックとか。ああでも優の運動能力ではハイキックなどしようものなら勢いよくバランスを崩して倒れるに違いないが。

 想像上の校舎長に一発かましても、気は晴れない。

「毎日、いればいいのに」

 シズレーがいてくれれば、そして「おかえり」と言ってくれれば、この苛立ちも、あの美貌を見るだけですっきりするだろう。

 叶わない夢を呟いてから、優はのそのそと起き上がり、閉じそうになる瞼をなんとか押し上げながら洗面所に向かった。

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