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「ねぇ、なんで吉原、おれらのこと助けてくれるの?」
「……、は?」
おれがもっともな質問をすると、吉原は目を丸くした。
「な……なんでって」
おれは吉原がノートの上で走らせていたペンを止めたのを見て、
「やっぱり……あいりのため?」
と聞き直した。
「あいりのため?いや……あいりのせいで、だな。……なんでこのタイミングで俺なんだか……」
「?……どういう意味?」
あいりのため、と、あいりのせい、と、どう違うのか、今すぐ辞書を引きたくなったが、おれは我慢して吉原の答えを待っていた。が、
「……気にするな。こっちの話だ」
などと、吉原ははぐらかしやがった。
「えっ、何?なになになに!?」
「うるせぇよ、こっちは勉強してんだ。お前もぼーっとしてないで予習くらいしたらどうなんだ?」
「だって、教科書とか全部学校に置いてるし……」
「……え、まさか本当に何もしてないのか?復習は?数学とかさ、自分が当たるとこぐらいやってるだろう?」
「えっ、吉原、誰がどの問題当たるとかわかるの!?」
「そりゃ、出席番号で……え?数学河野先生だよな?」
「うん。……次から吉原にどこ当たるか予言してもらお……」
「お前、もしかして、数学とか当てられたらその場で解くのか?」
「皆そうしてるんじゃないの?」
おれが聞くと、吉原は大げさにため息をついておれを睨んだ。
「な……何?」
「うるさい近寄るな。俺は努力しないで上にいるやつが大っ嫌いなんだよ」
………ん?
それって、おれのことじゃないよね?
「……その上自覚が無いときた。出来の良さを自慢する奴よりよっぽどタチが悪いな」
首を傾げるおれを見た吉原は、憎々しげにそう言って、再び英文をノートに連ね出した。もう相手にしてくれなくなったかと、
「ねぇ吉原ぁ」
と用もなく話しかけると、予想に反し吉原は
「ん?」
と、目をノートから離さないながらも、ちゃんと返事をしてくれた。
声をかけたからには何か話さなければ、呼んでみただけー、などと今の吉原に言ってしまっては、俺らは付き合いたてのバカップルか、みたいなおかしなツッコミを入れられそうだから、おれは必死に考えて、
「ええと、昼間はごめんね?」
と謝ってみた。
「あぁまったくだな……いや、確かに俺も、悪くはあったんだが……」
吉原は少し苛々したように言ったが、その苛々全部がおれに向かっているようには思えなかった。多分吉原は、あの時手を出したことを後悔しているのだろう。
「でも神波、あそこで『ずるい』は無いと思うぞ?あの場にいた全員に殴られても仕方なかったと思う」
「えぇ?なんで?おれ皆の代弁したつもりだったんだけど」
「皆の代弁したのはどう考えても俺のほうだろう。……蹴りは痛かったし」
「それは……すみませんでした」
「……いや、いい。先に手を出したのは俺だし。悪かったな」
ちょっとだけ不機嫌そうに、吉原はそう言った。
悪いのはおれなのに。
「っつーかお前ら、兄妹そろってなんでそんな強いんだよ。経験者じゃないとは言わせんぞ」
「父さんが警察官なんだ」
「親の職業は関係ないだろう」
「そうかなぁ?」
そういえば、どうしておれは空手を始めたんだっけ。
あいりが始めたから?
いや、あいりのほうが、空手を始めたのは遅いはずだ。
「なんでだっけなぁ……」
おれが頭をかきながら考えているうちに、吉原は勉強を再開してしまった。大して興味も無かったらしい。おれは考えるのをやめて、吉原の並べる字を眺めることにした。
「あいりがつよくなったのはさんさいのときからだよー」
と、唐突に背後から声がしたので振り返ると、髪の濡れたままのあいりが立っていた。
「3歳からだっけ?」
「うん。おにーちゃんはごさい」
「何の話だ?」
おれがごく自然にあいりの髪をタオルで拭きはじめるのと同時に、吉原はおれたちに尋ねた。
「おれら二人とも、11年前から始めたんだ、空手」
「おにーちゃんのほうがはじめたのははやいよ」
「うん、そうだよな」
「お前らさ」
吉原はおれとあいりを交互に見て、
「兄妹、なんだな」
と言った。
それは当たり前のことなんだけど、
なんとなく、悲しくなった。
「……はい、終わり」
吉原の言葉の意図を聞きたくなくて、話題を変えようとしたおれは、あいりの髪を拭き終わったことにして、タオルをあいりの肩にかけてやった。一瞬、いつもと違う石けんの匂いがふわりとした。
「吉原も風呂、入ってくれば?」
「いや、俺は……もう少しあとで」
吉原はなぜかあいりを一瞥してから答えた。おれはそれを少し訝しく思いながら、
「……そっか」
と返した。
思えば、吉原は演技が、いや、嘘が下手なのかもしれない。
吉原のそんなところが、おれは好きなんだけど。
吉原は優しいから、こんな茶番に付き合ってくれたのだと思う。
あいりのせいで、
それでいて、おれのために。
「桜世!!」
おれが一番畏れている人の声が、おれの名前を呼んだ。
「あ、おとーさんとおかーさん」
あいりは吉原の部屋に飛び込んできた両親を見て、まるでそれを予想していたみたいに、あるいはそれを知っていたみたいに、当然のように、にぱっと笑った。
何が何だかわからなかった。