30
ここでひとつ昔話をしよう。
むかしむかしあるところに、アイリスの花のような少女がいました。少女は見る者を残らず魅了してしまうほどに可愛らしく、しかしその小さな赤い唇でつむぐ言葉は冷たいトゲに覆われていました。
少女には兄が一人いました。兄はまだ子供でしたが、妹であるその可愛い少女を、子供なりに一生懸命に愛していました。少女の方は兄を愛していたのか、それはわかりませんが、決して誰にもなつかなかった少女ですから、きっと兄にも本当はなついていなかったでしょう。それでも兄は妹を大切に可愛がっていました。
ある日少女は兄に尋ねました。
「ねぇおにーちゃん、どうしてひとにはふたつあるのかなぁ?かしこいひとと、おろかなひと」
そう口にする少女は、考えるまでもなく前者に属す子供でした。そして兄は、自分がどちらに属すのかも判別できない子供でした。
兄は少女の問いに、懸命に考えて答えました。すると少女は、いつものようににぱっと笑って、
「じゃああいりはこいをしてはいけないんだね」
と無邪気に言いました。
「だってあいり、おろかなひとにはなりたくないもん」
兄はどう答えるべきか迷いました。少女の言うことに間違いなどひとつもありませんでしたが、それでもなんとなく、肯定してはいけないような気がしたのです。
だから、
だから兄は、どう答えることもできずに、口ごもるばかりでした。
その姿は紛れもなく、恋をしてもなお愚か者でいつづけるであろう種類の愚者でした。
ノブに触れる前に、一瞬だけためらって。
「………ただいまぁ………」
と、
イタズラの見つかった子供みたいに、おれはそろそろと家に入った。
いつものように父さんは帰りが遅いし、母さんは役員会。
つまり今、この家にいるのは、
「あ、おにーちゃんだぁ」
あいりと、おれだけである。
「ただいま、あいり」
一瞬だけおれを見て、すぐにDSに目を戻したあいりに、おれはもう一度言った。
言おう。
がんばって言おう。
何度だって頭の中でシュミレーションしたじゃないか。
「………あのさ、あいり」
「おにーちゃん、あいりはおなかがすいたのだ」
「ハイ、今用意します」
ばかばかおれのばか、なんでこうもあいりに弱いんだこんちくしょう。ていうかあいりはわざとおれにこの話をさせまいとしているのではないのか?
「あいり」
「ん?」
「真面目な話をしよう」
「おにーちゃんのマジメはほんとにマジメなのかなぁ?」
「そんなの決まってるだろ、あいりも真面目に聞いて?」
「おにーちゃんはマジメにごはんつくって?」
「いや、だからねあいり」
「あうー……おなかがすきすぎて……みみが、とおくなってきちゃ………くー………」
「いや、寝るなって」
「いや、ごはんつくれって」
あいりは頑なに話を聞くのを拒んだ。もしかしたら本当にお腹が空きすぎて耳が遠くなっているのかもしれないが、あいりのことだから意図的に話題を操作しているとも考えられる。
「わかったよ……じゃあご飯食べたら話聞いてね?」
「はぁい」
あいりはお手本のようなよいお返事をしたけれど、あいりのことだからきっと、食べる間にさっぱり忘れてしまうだろう。
けど食べてる間に言うのもなぁ……。
「ナポリタンだよね?えへへー、ピーマンいれないでねっ」
「だめだよ。ちゃんと野菜も食べなさい」
「えー」
「じゃないと大きくなれないぞ」
「やだよ、せっかくこれで15まできたんだから、しぬまでこのままでいたいもん」
背後からのあいりの言葉に、おれは振り向いた。
小さな身体を、あいりは気に入っているのか?
そりゃあ確かに、現代日本においての小人割引というものは、少子高齢化社会とはいえ非常にメジャーな言葉である。電車でも映画でも、見た目が子供であるというだけで半額やそこらで利用できてしまうのだ。あいりがその矮躯を手放したがらないのも頷ける。
けれど。
「そんなんじゃいつか困るんじゃないか?」
「こまらないよぉ」
その即答さ加減は一体何なのだろう。
困ることが無いと断言できる、その根拠は一体どこにあるのだろう。
「本当に?絶対に困らない?」
と、おれがあいりに尋ねると、
あいりが、おれを睨んだ。
あぁ、今のは確かにしつこかった。あいりがイラつくのも当然で、むしろその反応が無ければ、おれはあいりを心配していただろう。
けど、おれは一瞬、そんな当然のことに、怯んでしまった。
おれの動きがびくりと止まったのを見て、
あいりは満足そうに、にぱっと笑った。
「どうしてこまることがあるっていえるの?どうせあいりはもうすぐしぬのに」
と、
分かりきったことでも言うように、あいりはそう言ってのけたのだ。
「………そんな」
解ってはいたのだ、あいりがそんな子だということくらい。
あいりは多分、明日の存在を信じたことなど一度も無いのだろう。
もしかすると自分は、次の瞬間息をしなくなるのかもしれない、と。
あいりがそんな冷めた子だなんて、生まれたときから解っていたのに。
「そんなこと、言うなよ」
腕は自然と、あいりの小さな小さな身体を抱き締めていた。
昔々にそうしたように。
こんなに愛しい妹を。
あいりが苦しがることのないように、力いっぱい加減して、ぎゅうと抱き締めていた。
「……くるしいよ、おにーちゃん」
そんなはずは絶対に無いのに、あいりはそう言った。おそらく嘘なのだろう。あいりは人に抱き締められるのが苦手だから、そんな嘘をついて、それで解放を訴えているのだ。
やろうと思えば突き飛ばして自由になることも簡単だろうに。
優しい子だな、と、思った。
「なぁ、あいり」
言おうとして言えなかった言葉は、気が付けばすんなりとつむがれていた。
まるであいりに好きだと言った、あのときのように。
「駆け落ちしよっか?」
おれには見えなかったけれど、きっとあいりはその瞬間も、相変わらずにぱっと笑っていたに違いない。
まるでクラスの友達に、一緒に帰ろうとでも言われたように、
「べつにいいよー」
あいりは答えたのだった。