25
玄関の扉を開ける。
そして閉める。
「あ、おかえり、お兄ちゃん」
「合格!!」
おれが嬉々として叫ぶと、ごく自然にリビングから出てきた母親は、きょとん顔でおれに尋ねた。
「……何に?」
「よかったよ母さん、今のはよかった!」
「何が?」
「あぁよかった、本当によかった、一週間諦めずに言い続けた甲斐があったよ母さんっ」
「何を?」
長かった……とても長かった、この一週間は。
毎帰宅時、今日こそはちゃんとこの母親が扉の開閉音に気付いてくれるだろうか、とどきどきしながら扉を開けては我が母に絶望したものだった。
それが、今日、この日、ようやく!
「これで神波家は安泰だ!」
「………そう、よかったね。あ、ご飯7時ごろにはできるから、もう少し待ってねぇ」
言いながらすでに母さんは、玄関の前を通り過ぎ、そのまま和室に入っていった。
「うんっ、あ、ただいま!」
おかえり、の返事をしていなかったことに気付き、おれは和室に聞こえるように大きな声で言った。
「あいりっ、ただいまぁ!!」
これからの平穏な神波家に思いを馳せながら、おれは自分でも驚くほど爽やかに、リビングに突入した、が、
「……おにーちゃんだぁ」
ちらともおれに目を向けることなく、あいりは酷いローテンションで呟くように言った。
いや、これはやはりいつものことなのだ。むしろ今日は、ゲームをしているのに気付いてくれたのだから、いつもより良い方なのかもしれない。
「ええと、着替えてくる」
あいりは何も答えなかったが、おれも答えてもらうつもりはなかったので、返事を待たずにリビングを出た。
二階に上がり、制服のままベッドに寝転がって、赤いネクタイを緩めながら、今日のことを思い出し、おれは深くため息をついた。
久々の厄日だった。
今年に入って一番運勢の悪い日だったかもしれない。
どうしてこんなことになってしまったのか。
ああそうだ、一番悪いのはあの胡散臭い新聞部の報道を信じてしまった皆だ。まったくもう。
もっと辿れば、あんな新聞を作成し掲示板に貼り付け晒した新聞部が諸悪の根源ということになるが。
もっと辿れば、あんな写真を新聞部に提供した望月が諸悪の根源ということになるが。
もっと辿れば、あの場、あのカラオケに、望月なんて誘ってしまった、
……………。
「おれじゃん」
おれか?
悪いのはおれなのか?
いや、けど、あんなノリでキスとかしやがった吉原も悪い。
……あれ、でも今考えるとなんかおれからしたような気が……。
けどあそこに吉原さえいなければ、こんなことにはならなかった。だから悪いのは、カラオケに吉原を誘ってしまった、
……………。
「おれじゃん」
おれか?
全部おれが悪いのか?
いや、けど、元々吉原を誘おうと言い出したのは日野だったはずだ。
「三人じゃなんとなく寂しいね」
「そうかな?三人で充分だと思うけど」
「でも缶蹴りとカラオケは人数多い方が楽しいもん。ねぇチェリー、だれかもう一人か二人、誘わない?」
「え?宇垣のほうが顔広くない?」
「そうでもないでしょ。ね、宇垣くん?」
「そっ………そっすね!」
「宇垣ちょい泣いてない?」
「最近チェリー、誰と仲良い?」
「んっと……最近……あっ、吉原?」
「じゃあ吉原くんも誘おうよ!」
「わかった、じゃあ今度聞いてみるね」
「うん、お願いねー」
(回想終了)
……………。
「おれじゃん!」
おれか?
全てはおれが原因なのか?
そうなのだ、冷静に考えてみると、カラオケ参加者の追加候補に吉原を挙げたのも、さらに望月を勝手に誘ったのも、さらに酒なんか飲んで酔って吉原にキスなんてしたのも、みんなみんな、おれなのだった。
これはまさしく自業自得というやつであり、当初吉原のせいだと思われていた事実も、元はといえばおれのせいで、だから、おれが吉原の道連れなのではなく、吉原がおれの道連れだったのである。
ごめん吉原。
「お兄ちゃあん?ご飯いらないのー?」
「いっ、いるよ!!」
階下からの母親の声に、おれは慌てて返事をし、制服のままで階段をかけおりた。
通常なら冗談だと思われる発言も、神波家の女性陣は通常でないため、冗談じゃない事態になってしまうこともしばしばあるのだ。
おそらく今の母さんの言葉も、半分は冗談だったかもしれないが、おれが返事をしなければ、当然のごとくあいりと二人でおれの分まで食べ尽くしてしまったに違いない。
結構前にもそんなことあったし。
「お兄ちゃん、まだ着替えてなかったの?」
リビングに再入場したおれに、母さんは一瞥してから問うた。おそらくその質問に、大した意味は無いのだろう。
「ん、ちょっと考え事してて」
「ふぅん。どうでもいいけどさ、若いうちから悩みすぎちゃだめだよ?将来ハゲちゃうから」
「わかったわかった」
適当に返事をしながら、食卓の上に二人分のナイフと三人分のフォークを揃えるおれに、母さんはさして興味も無さげだった。
息子の悩みにも関心を示さない母親ってどうなの。
まぁ、こうでもなきゃ、あいりの母親なんて務まらないか。
いや、逆に、この母親に育てられたからあいりはこうなったのか?
「……でもそしたらおれだってあいりみたくなっちゃうよな」
「あ、おにーちゃん」
おれの独り言は聞こえなかったらしく、あいりは反応することなく、ゲームから目を離さずに訊いてきた。
「おにーちゃんさぁ、もしウチにかえれなくなったりしたトキ、とめてもらえるアテってある?」
「へ?」
相変わらず見事なまでに突拍子が無ぇ。
「うーん……リョウさんに頼るわけにもいかないしなぁ……宇垣とか?」
「あー、うがきクンはパス」
パスされた哀れな宇垣以外に、おれなんて泊めてくれる人、いるのだろうか。
「ええと……あ、吉原なら、頼めばOKしてくれるかな?」
吉原、意外と押しに弱いし。
と、そこまで考えて、しまった、と気付いた。
これでは数日前のおれの二の舞ではないか。
しかしそれは仕方の無いことだった。なぜならすでに吉原は、おれの中で時の人となってしまっているのだから。
「よしはら?だぁれ?」
「お兄ちゃんにそんな友達いたっけ?」
口を挟んできた母さんと、質問している身でありながらゲームをやめようとしないあいりを交互に見て、
「最近できた友達だよ」
と答えた。
友達、でいいんだよな?
「最近できた友達なのに、泊めてくれんの?」
簡単でいて手抜きに見えない、今流行りのなんとかという人が紹介していたという、特製オリジナルハンバーグを並べながら、母さんは首をかしげた。
あいりの薮棒な質問にはツッコミ無しなのに、なんでそんなことにツッコんでくるんだ、この母親は。
「うん、多分。あーでも今のタイミングだとちょっと厳しいかもなぁ」
「今のタイミングだと?どうして?」
「いや、ちょっとね、色々あって」
「ふぅん、そなんだ。あいり、ご飯食べよ」
「うんわかったぁ」
うなずきつつもやはりゲームをやめる気配の無いあいりをよそに、母さんはさっさとハンバーグを食べだした。またいただきますを忘れていやがる。
「いただきます。……で、いきなりどうしたの、あいり?まさかとは思うけど、おれがウチに帰れなくなるような、おれでも知らない大事な情報を握ってたりはしないよな?」
「うーん……んーう、しないでもないかもねぇ?」
DSの画面をタッチペンでぐりぐりしながら、あいりはのろのろと食卓についた。そういえば、いつのまにあいりのDSは、もとのぱかぱかする姿に戻ったのだろう。
「んーっ?なになにあいりちゃん、何その意味深なかんじの言い方?」
「母さん、あいりはいつも意味深だよ」
「うふふー」
おれが母さんに言うと、あいりはいつものようににぱっと、しかしどこか含みありげに笑った。
まるで望月みたいに。
「……どうせ意味は無いんだろ?」
「うふふー」
一抹の不安を隠しながら訊くが、あいりは同じような笑みで答え、逆手に握ったピカチュウのフォークをハンバーグに刺して、豪快にかぶりついた。
「ねぇ、このハンバーグどぉ?美味?」
「ん、まぁ、おれは好きかな」
「びみびみー」
「そう?よかったぁ」
父さんが見たら気絶しそうなぐらいに行儀の悪いあいりの食べ方にも、母さんは何も言わずに、初めて作った料理の評価に喜んだりなんかしている。
ゆるい。
このゆるさがあいりを育てたのか。
「あ、そうだお兄ちゃん」
「ん?」
「明日ね、なんか役員会あるらしくて。だから晩ごはん、あいりと二人だけだけど、お願いできる?」
「また?この前もじゃなかったっけ」
「そうなんだよねぇ。まぁあたしも一応委員の一人なわけだし、参加しないわけにもいかないから」
母さんもきっとおれと一緒で、推薦で面倒な役を押し付けられたのだろう。やっぱ親子だなぁ。
「そんなわけだから、よろしくね、お兄ちゃん」
「了解」
おれが言うと、母さんはあいりみたいににぱっと笑った。
そういや先週の役員会の日の晩ごはんも、弁当だったけどハンバーグだったな、と思った。
隣ではあいりが、ぼろぼろになったハンバーグを弄んでいる。