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青い空、白い雲。
うふふ。
うふふふふ。
「そんじゃ、いってきます母さん!」
「行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
母さんに手を振って、おれはさわやかに家を出た。
うふふ。
うふふふふ。
「よぉ、桜ん坊」
おれがにやけながら行こうとすると、不意に背後から声をかけられた。
さくらんぼ。
チェリー。
違う、違うよそれは。
おれはもうチェリーじゃないんだよ。っていうか、チェリーなんて呼ばせねぇ。
と、そこまで考えて、いや実際はそこまでどころではなく、一発お見舞いしておれがただのチェリーではなくなったということを力の限りアピってやるぜ、まで考えたのだが、あれっ、皆は通常おれを、チェリー、と呼ぶのであって、桜ん坊、なんて漢字で呼ぶのは、絶対に、クラスメートではなく、というか、学校の誰かではないんじゃないの。ということにおれは気付いた。
で、考えられる可能性、今思いつく限りの可能性は3つ。
1,おれはパッと見さくらんぼ
2,後ろの誰かは英語と日本語を間違えるような日本人失格
3,そもそも桜ん坊というのはおれのことではない
振り返った先にいたのは、4,お隣の家に一人で住む、お兄さんだった。
そういえば一人だけ、このお兄さんだけは、おれのことを、桜ん坊、と呼ぶのだ。理由は多分、おれの名前から取って桜ん坊、であり、決して、チェリーボーイのチェリー、とかいう軽く下ネタっぽい理由ではないはずである。
「おはようございます、ええと、ジュンさん?」
「あーおしい、リョウさんだ」
「あれ……すみません、いっつも間違っちゃって」
「いいさ、名前ぐらい。それよりお前、何かいいことあったの?」
リョウさんに言われて、おれはつい、うふっ、と笑ってしまった。
いや、しょうがないよ、これは。いいことがあったってのは、事実なのだから。
「わっ、わかりますぅ?」
「何、すげぇ嬉しそうじゃん。何があった?」
いつのまにかリョウさんは、おれと一緒に歩き始めていた。
リョウさんはまだ20代だというのに、無精髭のせいで10歳くらい老けて見える。いい人なんだから、ヒゲさえ剃ればモテるだろうに。もったいない。
「ふっふっふっ、聞きたいですか?」
「ん、いや、それほどじゃねぇけど、言いたいなら聞くぜ」
「じゃあ言います」
「おう」
おれは目一杯、体感的にはみのもんたなんて比じゃないくらいにためて、隣を歩くリョウさんに言った。
「チェリーを脱出しました」
「え」
うふふ。
驚いている。
リョウさんは驚いている。
「ってことはお前、まさか、童貞卒業?」
「あ、いえ、童貞はまだ卒業してませんけど」
否定すると、リョウさんは安心するでもがっかりするでもなく、あっ、そうなの、と相づちを打った。
「ってことは、何?チェリー脱出ってのは」
「あのね、恋をね。したんですよ」
「ほーぉ」
「で、昨日、キス、しちゃいましたっ」
「ほーぉ」
きゃあ、恥ずかしい、とおれが手で顔を覆うと、リョウさんはぐしゃぐしゃとおれの頭をなでくりまわし、そりゃよかったなぁ、と祝福してくれた。いい人である、ホント。
「ほーかほーか、よかったなぁ桜ん坊」
「はいっ」
おれが返事をすると、んじゃ俺ぁここで、とリョウさんは片手を挙げた。それじゃあまた、とおれが返すと、ニカッとリョウさんは笑った。
「おう、またな、桜ん坊」
リョウさんが見えなくなるまで、おれは手を振り続けた。
「いーひとっ」
ぽつりと呟いて、おれはきびすをかえした。
宇垣がいた。
「うおっ、びっくりしたぁ」
「な、なんだよ、その反応は。まじで気付いてなかったの?」
「気付くわけないだろぉ」
「どんだけ手ェ振るのに集中してんだよッ」
言いながら宇垣は歩き出した。おれが追いつけるように、歩調をゆるめている。
「宇垣ぃ」
「ん?」
「どうかしたの?」
「何が?」
何が?
その受け答えが、だよ。
「なんか、テンション低いなぁと思って」
「そぉか?いつもどおりだけど」
宇垣は苦笑した。
いつもどおり、なんて、日野が見ても、そんなわけが無い、と思うに決まっている。
けれど。
確かに、宇垣のテンションがものすごく高くなったのは、高校に入ってからのような気もする。中学のころはもっと普通の、むしろ落ち着いた雰囲気を持っていたような。
「なぁチェリー」
「何?」
「お前さ、本っ当に、初恋、まだなの?」
う?
いや、いやいやいや、まだじゃないよ。もう、おれの初恋は、うふ、あいりに、うふふふ、やだもーどーしよ。
「ど……どうしたチェリー?」
「えっ?」
「超にやけてる」
「うひっ」
あっなんか変な声出ちゃった。
ん?
あれ?
そういえばおれと宇垣は、中学のころからの付き合いであり、おれは宇垣に、中学のころから、チェリー、と呼ばれていた。
でもチェリーって、あれ?チェリーボーイのチェリーだとしたら、あれ?中学生でチェリーって、あれ?
「ねぇ宇垣」
「んー?」
「なんでおれはチェリーなの?」
「はぁ?」
何を今更、と宇垣は言った。
「まぁ、今さらっちゃ今さらだけどさ、いいじゃん別に」
「悪いなんて一言も言ってないだろ」
「そっか」
「そうだよ」
うーむ……なんかやっぱり変だ。
宇垣はなんかこう、ひゃっほう、みたいな。んで、お前病院行けよ、っていう。そういうキャラが定着していたはずなのである。にもかかわらずのこのテンションの低さは、一体何なわけ?
いやでも中学のころはこんくらいが普通だったわけで、それを考えると、やはり今の学校での宇垣のテンションは、誰だよお前、というかんじなのだよな。
「へーんなのっ!!」
「はぁ?お前が変だよッ!」
「いやぁ宇垣のほうが変だって!」
「いんや、チェリーのほうが俺の2.5倍は変だぞ」
「でも宇垣のほうが変だもん」
「ってか何だよこの会話は」
宇垣が笑うので、おれもつられて笑った。
「もういやだお前、なんか、チェリーと話してると、会話が逸れすぎるんだもんなぁ」
「えぇ?なんだっけぇ?」
「お前本当に初恋まだなの?」
「その前に宇垣のテンションだよ」
「だから、これがデフォルトだって」
「じゃあなんで学校ではあんなにテンション高いのさ」
「え?そりゃあ」
宇垣は言葉に詰まって、
「チェリー!!………と、宇垣くんっ」
前方からの声に顔を上げ、ものすごく嬉しそうな顔をした。
「あッ、彩香さぁぁぁぁん!!」
気が付けば学校の前まで来ていた宇垣は、昇降口前で手を振る日野に、おお、いつものテンションで絶叫した。
「おはよぉ、二人とも!珍しいね、二人が一緒に登校なんて」
「おはようございます彩香さん!!今日もお美しゅうございますねッ」
「おはよー日野」
いつものあいさつを交わして、おれたちは仲良く教室に向かった。
そういえば、おれがチェリーになった理由、聞いてないや。
どうして話が逸れたのだろう。
忘れちゃった。