約束/2
森に行かないまま迎えた三日目の朝。
屋敷の中は静かだが、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
(……なんか、変だ)
セレーンと離れる為にも父に言われて仕方なく今日は領内を歩いた。
市場の空気が相変わらず活気がある。
エリーもここに来れたなら喜んでくれるのだろうか、と考えたのも束の間、聞こえてくるのは嫌な話だった。
「…見ろよ、イーダン坊ちゃんだ」
「てことはよ、あの森…やっぱり嘘なんじゃねぇか?」
「ああ、俺たちも行けるんじゃないか?」
「坊ちゃんは毎日帰ってきてるんだし」
きっと金目のものだってあるぜ、そう笑う男たちが目に入りイオルの眉がぴくりと動く。
(……嫌な話してんな)
今すぐ叩き切ってやりたい衝動を押えて足早にそこを通り過ぎる。
早々に切り上げて帰ろうと思い歩き始める。
(今なら森に行けるだろうか。
……いや、もし今行くとエリーが厄介事に巻き込まれるか)
あの母親の耳にでも入れば今なら森に火でも放ちかねない、とイオルはため息をこぼし、せめて明日なら行けるはずだ、イオルはピアスを撫でる。
昨日思い切って開けてみたが直後に治癒魔法をかけたからかすぐに安定してくれた。
(…ただこのピアス、目立つんだよな)
微かな光でも綺麗に反射させて煌めく。
あの森で降りそそぐ木漏れ日と、同じ優しい色をしていた。
イオルは遠い日々を思い出しながら帰路に着いた。
少し時間をかけて歩いて家に戻ると、今度は使用人の会話が耳に入る。
「坊ちゃんは魔族と通じてるんじゃないかって話が……」
「魔族領土に入り込むなんて……」
「…最近、森の魔力が濃くなりましたよね」
何かあるのかしら、いやね…、とコソコソと物陰で話す女中たちをイオルは無言で通り過ぎ、自室へ戻ったが心拍だけがひどく早くなる。
魔族領土、エリーのいる森…フュングラシルの森を挟んで向こう側には魔族の住まう土地があると言う。
イオルはまだ見た事もないが、そこにはそれらを束ねる魔王というものもまた存在しているらしい。
フュングラシルの森は、魔族側の領土ではある。
だが誰が制定したのか記録にはないが不可侵条約が交わされていて、どの国もそこへ攻め入ることは禁じられているというが、あくまでも正式な書面で交わされたものではないのだ。
魔族もまた自領土だと言うのにそこに入らない。
誰がそれを定め、なぜ魔族側もそれを律儀に守るのか。
それは未だ誰にもわかっていないが、ふとイオルは思った。
(もしかして、エリーの存在…?)
エリー以外のエルフは見た事がないが、実はあの森にはエルフの何かがあるんじゃないか?
(いや、エリーはそんなこと言っていなかった)
浮かぶ不安を押さえ付けるようにイオルは髪を掻き毟る。
(……やっぱり、おかしい)
ざわつきはもう誤魔化せなかった。
言いようの無い違和感で支配されそうになった。
そのとき__
ふいに、空気が震えた。
窓辺のカーテンが揺れ、蝋燭の炎がふっと細くなる。
まるで屋敷全体が息を潜めたような沈黙が落ちた。
「……なんだ、これ」
イオルが窓の外を見ると、
街の方から人々の悲鳴のような声が聞こえてくる。
何かがおかしい、そう思ったイオルは部屋からで出て、廊下を走って玄関を目指した。
それに慌てた使用人がイオルを止めようと腕を掴む。
「坊ちゃん、外には――!」
胸が痛い。
息がうまく入らない。
理由はわからない。
だが、確かに森の方で何かが起こったのだ。
「坊ちゃん、戻ってください!!」
両親から命令を受けていたらしい使用人が数人掛りで必死にイオルを引き留める。
だがその瞬間だった。
世界の色が一瞬だけ揺らいだように見えた。
使用人を振り払いながら家を出ると、何かがこちらに向かって歩いてきた。
それの背後にある街は黄金色の炎に包まれていた。
イオルの心臓が凍りつく。
理由もわからないのに、肺が勝手に震えた。
イオルを追いかけてきた使用人たちは恐怖のあまり腰を抜かす。
「な……んだ、あれは……!」
家から出てた父親や母親、使用人たちはそれぞれに声を上げる。
そこに立っていたのは傷だらけのエリーを抱きかかえた一人の男だった。
まるで絵画のような静寂の姿なのに、
周囲の空気を支配してしまうほどの圧倒的な存在感。
そしてその容姿はまるでエリーの色違いだった。
「……エリー!!!!…うそだろ」
イオルの声が震える。
男の抱きしめるエリーの体は、血と土に塗れ四肢は力なく垂れ下がっている。
そしてその男は真っ直ぐイオルを見て口を開いた。
「魔族領土に侵入したものが数名居た。
既にこちらで処分したが、貴様ら人間は無抵抗の我が民を痛めつけた」
故に、贖罪を求める。
「この土地を更地にすることで許す」
その男はそう一言で終わらせると興味が失せたとばかりにこちらに背中を向けた。
その瞬間、五感も全てがイオルの身体から抜け落ちていった。




