原精霊/3
《どうして私は声が出ないんだと思う?》
問いかけると、アンテルの表情にかすかな揺らぎが走った。
治療魔法に自信を持つ彼でも、この件だけは簡単に断言できないらしい。
長い睫毛が影を落とし、思案するように目を伏せる。
「……恐れながら、私には分かりかねます。しかし怪我では無いので、意図的に封じられているように思えました」
落ち着いた声はどこか慎重で、ほんの一拍置いてアンテルはさらに声を潜める。
「……もしかすると、魔王様なら何かご存じかもしれません」
《魔王様が……?》
「ええ。あの方はそういった類いには、私などより遥かに精通しておられます。……何か心当たりがあるのかもしれません」
それ以上言葉を重ねなくとも、アンテルの意図は分かった。
声を失った理由は、生まれ変わった瞬間から胸に刺さった棘のようにずっと気になっていた。
もしも魔王が何かを知っているなら行かないという選択はなかった。
《……じゃあ、魔王様のところへ行ってみようと思う》
アンテルは驚いたように瞬きし、すぐに深々と頭を下げる。
「では……お供いたします。王の間までお連れいたしましょう」
・
アンテルに導かれ、魔王城の奥へと進む。
外界から切り離されたように静まり返った廊下は、歩いても歩いても同じ景色が続き、窓からの光すら届かない。
壁に沿って並ぶ石像はひとつとして人の形をしておらず、異形の影を落としていた。
視線を向けるたび、背中にひりつく気配が張りつく。
《……王の間って、こんなに遠いの?》
「ええ。あの方の気配に耐えられる者は限られておりますので……むやみに近づけぬよう、層が分けられているのです」
魔王城は、ただ大きいだけではない。
近づくほどに空気が重く沈み、肌に感じる魔力の密度が変わっていく。
見えない何かが迷い込む者を拒むように、廊下全体が薄く震えている。
歩を進めるにつれ、胸の奥にひやりとした膜が貼りつき、呼吸が浅くなる。
この重さは、建物そのものに魔王の威圧が浸透しているためだと理解するまでにそう時間はかからなかった。
やがて、巨大な双扉が目の前に現れた。
淡い光を孕んで脈打つように見えるその扉は、まるで生きているようだ。
アンテルが手を触れると、低く響く音が床を震わせ、扉がゆっくりと開いていった。
・
___広い。大聖堂だと思った。
天井は遥か高く、そこには魔力の流れが川のように渦を巻いている。
壁には古い文字がびっしりと刻まれ、薄い光の粒が空中を漂っていた。
星の夜空をそのまま閉じ込めたような、幻想と圧が同居する空間。
その中心、黒い玉座に男が静かに座っていた。
銀髪は淡い魔力の光を含んで揺れ、その影が頬をまっすぐに切り取る。
伏せた睫毛に触れる光までが静止したかのように、彼は微動だにしなかった。
ただそこに存在するだけで空気を支配している。
レグナード・ヴァルグレイン。
この世界の半分を統べる魔王。
アンテルが片膝をつき、深く頭を垂れた。
「魔王様。原精霊様を、お連れいたしました」
魔王、レグナードはゆっくりと瞼を開いた。
まるで空気そのものが震え、温度が一瞬だけ下がったように錯覚する。
視線がこちらに触れた瞬間、背骨に冷たい何かが走った。
「……来るように言った覚えはないが」
使える様になったようにも見えないな、と彼は言う。
その淡々とした声は低く、鋭い刃のように空気を裂く。
「僭越ながら、私が通訳を——」
アンテルがこちらへ目配せした。
《お願いします》と頷くと、アンテルは静かに告げた。
「原精霊様は声が出せない状態にあります。魔王様なら何かご存じかと……私がお連れいたしました」
レグナードの視線がわずかに細くなる。
それは興味でも憐れみでもなく、無機物へ向けるようなそれだった。
「……生来のものではなく、封印だ」
その言葉が落ちた瞬間、室内の魔力が微かに震えた。
レグナードは玉座から立ち上がる。
階段を降りるたび、見えない圧が段階的に強まっていく。
その歩みは遅いのに、近づくごとに呼吸を奪われるようだった。
呼吸は浅くなり、喉がきゅっと縮む。
足は床に縫い付けられたように動かない。
レグナードの存在そのものが、意識を覆う影のように迫ってくる。
目の前に立ったレグナードが、喉元へ手を伸ばした___
その瞬間、アンテルが反射的に身を乗り出した。
「___魔王様ッ!それ以上の接触は、どうか……!」
だがレグナードはアンテルの声に応じる気配すら見せない。
その指先は迷いも焦りもなく、静かに喉元へ触れた。
触れた瞬間、針のような冷たさが体の奥へ滑り込んだ。
痛いわけではない。
ただ、息の仕方を忘れるほど体が固まる。
逃げようとしても、足が命令を拒む。
レグナードの指はまるで喉の奥まで直接掴んだように、声の根を揺らす。
レグナードはわずかに口元を緩めた。
それが微笑なのか冷笑なのか、判断できなかった。
そして、低く静かに言葉を落とす。
「……目覚めた事は不幸が幸せか」
優しい響きなのに、底がまったく見えない。
その声は支配そのものが形を取ったように、静かに降りかかった。
まるで慈しむようでいて、どこにも逃げ場のない声。
喉元を撫でていた指先に、わずかに力が込められていく。




