【1-3】思春期の魔術師
ノアは声を出すことすらできなかった。なんと返事すれば良いのかわからなかった。固まっていると、横に仕えていた侍女がトントンを肩を叩く。
振り返ると侍女は相変わらず無表情だったが、以前より少し優しい目をしていた気がした。侍女は指を鳴らす真似をする。
ハッとして、手の中にある輝く花を見つめる彼女に目線を移す。ノアの返事を待つ様は、迷うような、期待するような、初めて見たときよりずっと弱々しく見えた。
だから、ごく自然に言葉が出た。
「上を見てください」
右手を掲げてパチンと音を立てた。次の瞬間、視界いっぱいにヒラヒラと青い花びらが雨のように舞っていた。
「返事はこれで」
彼女は何も言わずに落ちる花びらを眺めていた。そして、静かに頷くとノアに向かい合う。
「私は『薔薇の令嬢』と呼ばれる存在です。どうぞ好きなように呼んで下さい」
そういえば自分も名乗っていなかったということを思いだし、ノアも名乗ろうとした。が、令嬢が制止するように白く細い人差し指をノアの唇に当てた。
「名というものは簡単に教えてはいけませんよ」
とても真剣な声色で、思わずこくりと頷いてしまった。
令嬢は満足したように頷くと、スタスタと歩いてノアの横を通り、侍女を連れて屋敷へと戻っていった。 その背中を見送りながら、ノアは一人、庭に立ち尽くしていた。やがて、彼はその場に、崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
「うわぁぁぁ.…..」
しゃがみこんで悶えて苦しんでいる様は年相応の少年のような姿である。
「返事の仕方かっこつけすぎだろ、何やってんだ俺」
自己嫌悪で頭をかきむしる。それ以前に、と彼は思考を巡らせた。行き倒れの自分を拾った、得体のしれない相手との旅。しかも、自分の魔法はファンシーな花を出すだけの、全く頼りにならない代物に変質してしまった。
(こんな状態で、どうやって旅なんか.…..)
冷静に考えるほど、答えは絶対にNoである。大変なことに巻き込まれてしまった、と今更気がついたのだ。
「いつまでそうしているのですか」
上から降ってくる冷たい声。令嬢が後ろに立っていたが、ノアは顔をあげられずにいた。
「貴方ができるかどうかなど些細な問題なのですよ。私と契約したならば、行くしか無いのです」
子供に言い聞かせるような、有無を言わせぬ口調だった。現実的な絶望も、皮肉も彼女にとってはどうでも良いのだ。
「私の書庫で貴方のことを待っています」
顔を上げると、彼女は纏っている花を散らしながら去って行く。後ろに控えていた侍女が、じっとこちらを見つめていた。
「...…書庫に、案内してくれ」
「かしこまりした」
彼女はぺこりと頭を下げると後ろを向いて歩き出す。ノアは慌てて立ち上がって転けそうになりながらついて行った。
古風な給仕服を着た侍女に連れられて、来たときとは違う扉を開けて、廊下を進んでいく。どこを見ても扉があるこの屋敷は、一人が住むにはあまりにも広すぎるような気がした。
ふと、後ろを振り返ると先程通った扉は見えない。ゾワゾワと背中を駆け上がるような、底なし沼に入ったかのような恐怖を感じた。
「こちらです」
黒く古くなった扉。ほのかに香る薔薇の香りが、ここは令嬢の部屋だと示していた。
もう戻れない、後ろは見ない。だって契約不履行になってしまうから。
(『魔術師というのは約束は必ず守るものですよ』…だったっけ)
前を向き、息を吐く。決心して扉を開けるとカビ臭さとは違う、古くなった羊皮紙と皮の匂いが、少し湿った空気と共にノアの頬を撫でた。
上を見上げると高い天井まで本が詰まっていて、壁という壁が見えないほど続く無数の本棚。
「ようやく来ましたか、待っていましたよ」
彼女は本棚の奥にある窓辺で座って本をパラパラとめくっていた。
「あの、この書庫は一体」
「ここは人の世の国の歴史を記録したものです」
本をよく見ると、授業で習ったことのあるような古代帝国の名前から、遠い北の国、友人と旅行に行った国。数ページしかないような小さな国まで、全ての国々が揃ってるように見えた。
ただ、一つ一つの国の綴りや響きが少し違う。
指を滑らせ、自分の故郷を探す。
「Abentia......アーベントのことですか?」
その言葉に彼女はゆっくりと顔を上げた。ベールの奥に隠れた表情は読み取れない。肯定も否定もせず、ただ静かに問い返す。
「この本がこの書庫にある。このことの意味は分かりますか?」
ノアくんは実は17歳、まだまだ思春期なのです