【2-5】ひとりぼっち
まずいことを言ったかもしれない。
「伯爵家、というのはこの領地を収めていた家のことでしょうか?」
ノアは老婆のただならぬ雰囲気に気圧されていた。老婆は下を向き、じっと動かない。背中ではダラダラと冷や汗が線を作り、伝っていくのを感じる。
(お婆さんの様子を見るに、とても良い話とは思えない、……絶対に発言を誤ってはいけないな)
この旧伯爵領がなぜ『旧』なのかノアは知らない。しかし、先ほどまであんなに優しかったのにこの変わり様だ。きっと何か大きな出来事が起きたのだろう。
そしてあの少年は、恐らくそれに関わっている。
老婆はハッとしたように顔を上げてノアを見る。ノアはビクリと体を揺らして固まってしまった。
「お客さんなのにお茶も出さずに立ち話なんて......ごめんなさいね、そこの椅子に座って待ってて頂戴な」
にこりと笑顔を浮かべると、思い出したように動き出した老婆は、パタパタと店の奥の方に戻っていった。
ノアもホッと息をついて、ようやく玄関の前から動くことができた。大人しく棚の横にある丸い椅子に座る。
緊張して周りが見れていなかったが、この店は雑貨や本を売っているようだ。天井はやや高く、上の柱から見たことの無い模様の布や、人形がぶら下がっている。
本棚に入っていた本も、異国の字で書かれたものが大半だ。
(あの令嬢の本も、ここにあるのだろうか)
ノアは本棚に指を滑らせながら一つ一つ背表紙を見ていく。静かな店内でノアの足音がコツコツとゆっくり響いた。
そのうち、一冊の本にノアの目が吸い付いた。
「綺麗だな」
歴史書のような本が集まった棚に一つ明らかに新しい本がある。金色に輝く金具て留められ、青い美しい宝石の飾りまでついている。明らかに上等なものだ。
沢山読まれたのか痛んでいる部位があるが、状態から見ても丁寧に扱われていたようだ。
ノアは唯一読めるその文字に視線を移す。
「『コンコルディア領史書』、どこのことだろう」
「その本について知りたいかい?」
音も無く、静かにやってきた老婆は、お盆に紅茶を乗せていた。こちらを見ること無く中央にあった丸い机にコトコトとティーカップを置いていく。辺りに爽やかな香りが漂った。
月明かりの差し込む窓辺には猫がのんびりと寝ている。
「いらっしゃい、紅茶でも飲みながら少し昔話をしましょう。あぁ心配しないで、薬なら後でちゃんとあげるわよ」
ノアが椅子を引いて席に座ると、老婆は紅茶を一口飲み、ふぅ、と息をつきながら肩の力を抜いた。ノアも恐る恐る紅茶に口を付ける。
「まずはその少年、貴方の連れについて話さないといけないわね」
老婆は顔を上げ、目隠しで見えない目がノアをじっと見つめていた。
「かつて、ここには治めていた伯爵様がいたの。当主としては若くて、領民からは良く思われていなかったけれど、優しい方だったわ」
老婆は昔を懐かしむように声を和らげると、膝に乗ってきた猫をゆっくりと撫で始めた。
「そのうち......確か、北方の戦争から逃げてきた三人の孤児が街にやってきたのよ。仕方が無いけれど、薄汚くて、誰も相手にしなかったわ。でもね、あの方は慈悲深く孤児を保護したのよ」
***
「僕ら戦争でお母様達が死んじゃって、あの、なんでもします!誰か助けてくれませんか!」
エドガーは弟と妹を連れて、必死に街中のドアを叩いた。北の故郷は滅び、親戚がいるというコンコルディアに来てみたが誰も三人を見ることは無い。
しかし諦めるわけにはいかないのだ。エドガーには二人の小さな弟と妹がいる。血のつながりの無い二人だが、本当に兄弟だと思っていた。それくらい大切にしていた。
だから、あの子達が死んでしまうようなことになってはいけない。
エドガーは空腹を訴えて鳴り続ける腹を無視して、必死に駆け回っていた。
「君が北方の孤児なのか」
身なりの良い中年の男が、にこやかな笑みを浮かべて声をかけてきた。恐らく貴族階級の人間だろう。
誰でも良いから助けて欲しかった、気まぐれでも良いから拾って欲しかった。
差し出された美しい光沢の布を纏う手を、エドガーは躊躇いなくとった。
「僕達を助けてくれて、本当に、あ、ありがとうございます」
「僕達……?」
「妹と弟が死んじゃうかもって、僕本当に怖くて」
エドガーは男と手を繋いでいない方の左手で涙でにじむ目を擦った。
男は見定めるような視線でエドガーを見つめると、後ろに隠れる二人を上から下まで舐めるように見ていた。そして作ったような笑顔を浮かべた。
「うん、駄目だよ。僕が引き取るのは君一人だ」
「え」
「三人も育てる財力もやる気も私には無いのだよ。さぁ、おいで」
嫌だ、嫌だと暴れ、叫ぶエドガーを、男は無理矢理連れて行った。絶対に二人を守るのだと握っていた手は、大人の力であっさりと外れてしまう。
妹をぎゅっと抱きしめる弟が、泣きそうな顔をしているのが見えて、エドガーは胸が張り裂けそうな気持になった。
「いやぁ、よかったよ。うちには跡継ぎがいなくてね、北方の彼奴らは可哀想だが、君と私に血縁があれば何でもいいさ」
この男こそが、エドガーが探していた親戚であった。
それからの日々は、まさに地獄と言っても過言ではなかった。ただの貧しい地方貴族の子どもだったエドガーにとって、マナーや言葉遣いを覚え、必死に勉強し、男の機嫌を取り続けるのは苦痛でしかなかった。
そして、何よりも残された二人が心配でならなかった。
(生きているだろうか、この街から出たのだろうか)
自分だけがこんな良い暮らしをしている、という現実はエドガーに突き刺さった。
大きなシャンデリアのついた牢獄から出ることが許されたのは、ここに来てから半年が経った頃だった。
エドガーは雪の降るレンガ道を駆けまわる、故郷を思い出して懐かしい気分になった。
目の前に手を振りながら近づいてくる少年がいた。
ふわふわとした上着。分厚い皮のズボン。サラサラとした黒髪。あんな子供をエドガーは知らない。
「エドガー兄さん!」
無邪気な笑顔でエドガーに抱きつく。少年は、半年前に見捨てることになった弟だった。小さくて自分の後ろに隠れていた弟は、自分より良い服を着て立っている。
「兄さんも無事で良かった!あの後、僕とリリーは一緒に伯爵様が拾ってくれてね、丘の上の屋敷に住んでいるんだ!」
この街に伯爵なんて身分の人は一人しかいない。コンコルディア領の領主、クラレンス家の伯爵だ。あの男がクラレンス伯爵を嫌って愚痴を零すので、エドガーもよく知っている存在。
幸せそうな笑顔を浮かべる弟を見て、エドガーは視界がぐちゃぐちゃに歪んだ気がした。
(僕のこの血のにじむような努力も、苦痛も、こいつには分からない。それどころか呑気に幸せに暮らしている)
エドガーは、その暖かい子供体温を引き剥がした。思わず尻もちをついた少年を、上から見下ろし、少し気分が良くなった。
「何も分からないお前が、血のつながりのない平民が、弟面すんなよ」
エドガーは後ろを見ること無く走り続けた。段差に足が引っかかったが、故郷より薄い雪はエドガーを受け止めてはくれない。
(あの屋敷に帰ってしまおう。男が憎む相手だ、きっとロクな奴じゃ無いさ)
そう自分に言い聞かせながら、エドガーは屋敷の重たい扉を閉め、鍵をかけた。
老婆
白髪で腰は曲がっていて、かなり歳を召しているが優しい雑貨屋の店主。近所にいた猫を沢山引き取っており、収益のほとんどは猫に溶けている。




