【1-1】干物の魔術師
魔術の炎が、湿った枝を無理やり燃やす。その火で炙られるのは、今日唯一の食料である、痩せた兎だ。
かつて宮殿で貴族を唸らせた炎の魔術が、今や日々の糧を得るための野火に成り果てている。
「...…本当、力の無駄遣いにも程があるな」
ノア・ヴァレンティンは、自嘲気味に呟いた。
彼の故郷、アーベント王国では、貴族同士の魔術師を巡る争いが起こっていた。数か月前まで、彼は引く手あまたの天才魔術師だった。貴族たちは競って彼を雇い、その力を自らの権威の象徴とした。「あの有名なヴァレンティンを"持っている”」……そんな俗な言葉が飛び交う愚かな権力争い。
その果てに待っていたのは、王による魔術の規制と、全ての魔術師の国外追放だった。
そして今、元魔術師はただの旅人に成り果て、誰にも助けを乞えないまま、こうして一人で痩せた兎を焼いている。
「腹減った....」
日に日に減っていく食べ物。三食食べれる日なんてなく、大抵二食、一食と数えて良いのか分からないような食事もあった。
ノアの体力は削られていく。歪む視界、ふらついた足取りで歩いたが、目の前がくらくなっていく。
(あぁ、ここで死ぬのか)
森の中で、トサッと枯れ葉のように軽くなった体だ倒れる音がした。
「何をしているのですか。干物の男」
遠くから声がする。返事すれば助かるかも知れないが、もはや顔を上げる体力すら無くなり、そのまま意識は途絶えた。ぼやけた視界の端に、血のように赤い花片が見えた。
***
花の甘い香りがする。
(ここが天国か、流石に死んだよな、俺)
ぼんやりと目を開けると、視界いっぱいに広がっていたのは、天井を埋め尽くす真っ赤な薔薇だった。
「あぁ目が覚めたのですか、流石に死んだかと思いましたよ」
声がした方へ視線を向けると、そこに"彼女”は立っていた。ふわりと白い髪を揺らし、体の至る所から赤い薔薇とを生やしている。純白のドレスを身に纏ったその姿は、昔読んだ本の女神か、あるいは花嫁のようでもあった。
顔はべールで隠されているが、それがかえって人ならざる異質さを際立たせている。
「...…生きてるのか?」
自分のものとは思えない掠れた声が出た。ぽかんとしたまま辺りを見回せば、どうやらここは屋敷の一室で、傍には侍女らしき人も控えている。
彼女は心底面倒そうにため息をつくと、ノアに向かって一本のを伸ばした。それはスルスルと彼の腕に巻き付く。
「森で干からびた貴方を侍女が見つけたのですよ。運が良かったですね、見つけたのが私でなければ放置されていましたから」
不思議な雰囲気を纏う彼女は、情なんて一つも無さそうな声色でそう言った。話の合間に、とげとげとしたツタはノアの両腕に絡みついていった。
「スープを用意してありますから、飲めるならどうぞ」
とげとげとしているのに、不思議と棘は刺さらない。だが、ここから逃がさないという強い力で、キュッと締め付けられる。
(ツタに魔力は籠もっていないようだが、やはり何者なのだろうか)
じっとツタを観察していと、侍女が香ばしい匂いを立てる食事を台車で運んでくる。その匂いに、ノアの理性が焼き切れた。ベッドから飛び出そうとし、床を這う別の蔦に足を取られて、盛大に顔から転んだ。
幸い、顔に棘が刺さることはなかったが、貧相になった体にはかなり響いた。
薔薇を生やした女は手を差し伸べることも、何か声をかけることもなく上からただ見つめている。急いで台車を置いて歩いてきた侍女に助け起こされた。
お礼を言うことも忘れ、目の前の台車にあるスープにかぶりつくように飲み始めた。食べ物の形をしたものが久しぶりに胃袋に入る。体に染み渡る温かさで、思わず涙が出てくる。
にじむ視界でスープを飲み干すと、そのまま安心して、またもや気を失った。
***
最初の数日は、ただ与えられる食事を貪り、泥のように眠るだけの繰り返しだった。飢餓感で麻痺していた思考が、胃が満たされるにつれて、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。
体力が回復するにつれ、彼は自分が置かれた状況を改めて認識した。
腕に巻き付いたままの蔦。時間通りに食事を運んでくる、表情の読めない侍女。そして、時折、部屋のどこかから感じる、あの人ならざる彼女の静かな視線。
ここは、命の保証はされていても、決して自由のない鳥籠の中だ。
魔術で焼き切ってこっそり出ていくか迷ったが、軟禁されているのにも関わらず、案外心地の良い生活に逃げ出す気はそこまで起きなかった。
ある夜のことだった侍女が食事の用意をしてくれていた。この日は雨で、ジメジメとした空気と外の雨音が響いて、薄暗い部屋はより暗さを増した。
燭台に火をつけるため、カスッカスッとマッチをこする音がする。天気もあってか、火は中々つかない。
少し机に目を向けると、いつもはあまり表情を変えない侍女が焦り、眉をひそめていた。
(あれくらい、簡単にできるのに)
かつての自分は指を鳴らすだけで、宮廷の大燭台に一斉に 火をつけるようなパフォーマンスもしていた。昔を懐かしむ感傷と、頼ってくれたらいいのにという魔術師としてのプライド。
そんな感情は混ざり合い、ほとんど無意識のうちに蝋燭に向かって手を伸ばした。軽く右手の指を鳴らす。
パチン、という軽い音が部屋に響くと蝋燭に灯ったのは揺らめく炎でなかった。
暗く思い雰囲気の部屋の中心に、小さな光を放つ白い花が咲いている。
侍女がひゅっと息をのむ、またノアも指を鳴らした形のまま固まってしまった。
今行ったのは小さな火を出す魔法だったはずなのに…自分の魔術の理論と常識がカラカラと崩れる音がする。
静まりかえった部屋の扉からあの声がした。
「……面白いものを見せてくれますね」
コト、コト、とゆっくり歩きながら部屋に入る彼女は、花に向かって手を伸ばした。花をつまみ上げたは彼女は肩をピクリと揺らし、明らかに動揺しているのが伝わってきた。
「貴方、この花をどうやって作りましたか」
主人公
ノア・ヴァレンティン (17)
追放されちゃった火の天才魔術師
国を出て旅をしている