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パキラ、パキパキ

智が五歳の時。家の庭で地べたに座って近所の女の子とままごと遊びをしていた。女の子が持ってきた、プラスチックの野菜やら寿司やらを、プラスチックの皿の上に置いて、食べる真似とか作る真似をしていた。女の子は手刀で野菜を切る真似をして、リボンを付けた小動物みたいに可愛い子だった。その女の子の髪の毛の細さと色素の薄さを今でも覚えている。半月形の目が笑うと三日月になる子だった。

 背後で誰かが門を蹴飛ばすような乱暴な音が響いた。智は振り返った。平日なのに何故か真昼に父が帰ってきていた。

 父は分厚い紫色をした唇を半開きにさせ、こっちに顔を捻った。

「……何やっとるんや?」

 父が何故そんなことをわざわざ聞いてくるのか分からずに「え?」と問い返してしまった。

「何やっとるんやと聞いとるんやあ! ぼけ!」

 父はこっちに大股で近づいてきて、しゃがんでいた僕を引き立たせた。

「お名前知らないけどごめんねえ。これ片づけて帰ってねえ」

 父は、にやにやした顔で女の子にそう言うと、また怒った顔になり、「こっちに来い」と智を引っ張って家の中に連れて入った。智は、二の腕を力いっぱい掴まれて皮膚がひきつれるように痛くて顔をしかめた。

 この家に一つしかない台所の手前の籐の椅子に父はどっしりと背中を預けて、僕を前に立たせて睥睨した。

「情けないと思わんか?」

「父親が仕事で汗水垂らして働いている時にごっこ遊び」

「情けないとは思わんか?」

 智は、

「じゃあ何をしていればいいの?」

 と尋ねた。

「なんだってある」

 父は白く濁った涙の膜の向こうからこっちの顔を見据えて覗き込むように睨んだ。

「お母さんの手伝いをしてもいいし、お父さんの部屋の百科事典を最初から最後までじっくり毎日かけて読むのだっていい。下らなくないことだけしなさい」

 お父さんは百科事典もやったことのない趣味の絵画の教材も揃えていたけれど、僕は本の一冊も買ってもらったことがないし、玩具も二年以上前からある積み木の知育玩具以外には一つもない。

 智は自分を「木」のように感じていた。ショッピングモールのエスカレーターの傍に鉢植えに植えられて、ただ伸びて何も要らないあげなくていいと思われている「木」。

 誰も大切にする必要を感じないのに、清潔な観葉植物。

 熱帯にいたはずなのに箱に入れられた「木」。

 七歳の時に父の百科事典でその観葉植物について調べた。「パキラ」という名の木らしい。

 パキラ。パキ、パキ。

「なんだってある」

 父は肩を広げるようにして、その椅子に落ち着いて、底の浅い印象の威厳のある顔付きで口角を下げて前を睨んだ。

 父の厚い唇の下には深い皴の筋が横に何本か並んでいる。

 智は、父親を「父」とは思っているが「人間」と思ったことがない。でも、「人間」でなくとも、父親はたくさんの実権を持っている。

 そのことに考えが至った中学生になったばかりのいつか、父親を殺したいと心に切れ目が入るようにそう思った。

 中学校の入学式の済んだ日。夕食後に部屋の机についてぼんやりしていると、父親がノックもせずに扉を勢いよく開けた。ぼうっという分厚い波のような風圧の音を出して開いたので、智はびくりと肩を震わせて振り向いた。

「入学したのか?」

 当たり前のことを聞く。智は頷いた。

「嬉しいか?」

 智は僅かに怯えた目で頷く。父は部屋に入ってきて、智の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「ご飯食べたか?」

 また頷く。

「中学校に入学できて良かったな。それもこれも全部お父さんのおかげだ。お父さんのおかげでお前は生まれた。ここまで生きられたのは全部お父さんのおかげだ。無事に生きられて良かったな。お母さんがご飯を作ってくれるおかげと、誰のおかげだと思う?」

「……お父さんのおかげです」

「おばあちゃんに入学祝もらったろ?」

「はい」

「おばあちゃん、お前に渡したけれど、お前自分の郵便局の口座に入れたのか?」

「はい」

「お前を育てたのは俺だから、明日口座から出してお父さんのところに持ってきなさい」

「……口座って、お金すぐに出せるの?」

「いつもどうしてる?」

「出したことない。母さんが出させてくれないから。入れろとは言うけれど」

「暗証番号は知ってるか?」

「知らない」

「お母さんが作った口座なのか?」

「うん」

「そうか」

 父は智の頭をパシッと軽い音を立てて叩いてから、智の座っている椅子の脚を蹴飛ばして、そして部屋から出ていった。

 父がテレビのチャンネルを替えたい時、父が食事を早く家族みんなで摂りたい時、父がどこかに家族を連れて自分の行きたい県外の競輪場などに旅行に行きたい時、父の機嫌が悪くて誰か(智)の頭を叩きたい時、

「おとーさんが言っている」

「おとーさんが」

 と言った。

 一度、母が「私たちのことを『お前』とか『お前ら』って呼ばないで!」と癇癪を起して父に腹を立てた時、

「目上だからだ! いい加減にしろ! 誰の飯を食ってるのか分かってるのか!」

 父は恫喝にも似た声音で怒った。

 父はいつも智から自分への「尊敬」を求めた。

 父が通りざまに智の頭を殴る時、「尊敬」が足りない、ない、お前が誰の所属か分かっているのか、口の利き方に気を付けろ、そういう類のことを意味しているのだと、智は小学生になった頃にははっきりと悟るようになっていた。

「教育」とは「教義」みたいなものだと悟った。「いい子」とは「従属」だと悟った。

 二年生の時、体育の時間に小学校の運動場で倒れて保健室に運ばれた際、

「食事を見ている時に僕がテレビを付けるとお父さんは僕を叩いてテレビを消すけれど、自分が見たい時はご飯を食べていても相撲とかを自由に見るんだ」

 と、ベッドから身を起して白衣を着て隣に立つ養護教諭に話したことがあった。智は、頭全体が深い黒目になったように澄んだ黒い気分だった。ちょうど自分が黒曜石になったような、そんなつるりとしていて受け身だけれど、明るくもない底が暗くて深い心地。夏場だったが、涼しい、風が冷たいくらいの日だった。その男性の養護教諭は、

「お父さんは君をお父さん自身より愛しているんだね」

 と話した。

 智は、ああ、愛情とは受ける側ではなくて与える側にならないと、何も自由にならないんだと思った。自分も「お父さん」になったら、人に正しくて不便なことを強要して、自分は正しくない自由なことをできるのだろうかと思った。

 この時は、「殺したい」ではなくて「お父さん死ねばいいのに」くらいに感じた。

 養護教諭の個性のない大きな顔を頭の中で切り裂いた。

 母親はよく父親の見ている前で、智を思い切り叩いた。頭や顔を力いっぱいに大袈裟に叩いた。何の理由も前触れもなしに、家の中の廊下やテーブルの傍で叩いた。

 その直後に必ず父親に媚びた。気持ちの悪い猫なで声を出した。

「チョコレート食べたくない? あなたの好きなのがあるのよ」

 父は甘いものが好きだった。智よりも子供のような嗜好で飴やアイスや駄菓子を好んだ。

 智は梅干しが好きだった。

 一時期、一週間くらい中学で智が不登校に陥ったことがあった。母は智を殴りまくってから、スタンド鏡をテーブルに置いて「きれいになりたい」と呟きながら、赤い口紅を濃く塗って、ファンデーションを濃く塗った。

 智はそれを怖いと思った。そして自分は愛されているわけではないのだと改めて悟った。

 母にとって母自身は本当は「母」ではないのだ。いつまでも「女」に付随する「母」という皮なのだ。

 母も父も、智にとっては気持ち悪いが、何をしても自然だった。妥当だった。

 彼らは本当に当たり前のことをしているつもりで、しかも特に世間の親の態度からずれているとも見せないし、智にも思えないのだった。

 その様子は自然だけれど、その本質が歪で、智はその矛盾に苦しんだ。

 中学校の同級生の仲の良い友人に、物凄く典型的なヤンキーがいたのだけれど、智は彼には何でも話せた。そのヤンキーは智の近況や悪口を平気で吹聴する人間だったが、智は彼の素直さをほんのりと愛していた。

 父も母も彼らの親、つまり智の祖父母たちに逆らったことがあるという「皮膚の跡」というのが無かった。

 妥当で普通で非難されないいい子だったと思う。

 智はまともな自分の両親、そしてあまり反抗を見せない自分自身より、そのヤンキーを心のきれいな人だと思った。ふんわりと立派な気さえした。あんまり考えない雰囲気を「馬鹿だなあ」と思う反面、「適応した社会人」として上だと思った。

 適応することが出来なかった。骨が軋むようにぎこちなく動くようになった。心が部品の欠けたつぎはぎのブリキのようだった。

 ひどく軋んで不自由だった。

 成績があまり良くなかった。だから大学に行く必要がなかった。

母には本を予約するために図書館に電話を掛けることも「もったいない」と言われた。何かにつけ「必要ない」と言われた。

そのうち、母親は死ぬべき人間だと考えるようになった。

 高校では、あだ名は「ロボット」だった。「ロボット」というふうに智のことを呼ぶ人間は別に友達ではなかった。友達もいないけれど問題も起こさないので、教師も別に何も言わなかった。何か言ってやって導いてやるほどの成績も才能も無かった。

 高校を卒業する手前、「無敵の人」という言葉を知った。金も地位も幸福も何もないから、失うものがないから犯罪も殺人も死刑すら怖くない人たち。

 ああ、そりゃあそうだよな。僕だって殺人ができる根性があれば「無敵の人」になっても後悔しない。

「悪いこと」をしないだけの理由が無ければ、「悪いこと」した方がよっぽど気が晴れる。花が咲く。

 何が倫理だ。道徳だ。そんなもの立場が上の人間が下の人間に守らせて気持ちよくなるための言い訳でしかないだろ。この世も家庭も「道徳」で動いてない。「現実」で動くだけだろ。

 いじめりゃいじめる。言いくるめりゃ言いくるめる。どこに「道徳」があるんだ。

 俺が「道徳」を守ってりゃ、俺が飲み込めば「平和」なんだろうなあああ!!!

 俺は「無敵の人」に同情するよ。心から。

 妥当な社会や家庭には必ず割を食うやつがいる。食わされたら割の悪い生活や人生になる。そしてそれが妥当だと言われる。で、ホントに「妥当」に見える。

 きっと俺は確かに「ゴミ」としてあるし、周りがそれを決めている。ほとんど法律みたいに。親が俺の生き方の幅をキュルキュル狭めてくるのを、先生たちは「心配」と呼ぶ。ほとんど法律みたいに。

 反抗したら角を立たせたのは「親」ではなくて「俺」なんだ。

 従っても反抗しても目立つのは「俺」なんだ。

「無敵の人」の気持ちが分かる。他者の「人生」を実際好きにするのが普通のことならば、「人生」と等価値の「命」なんて大して重くない。

 それは、「倫理」じゃなくて「現実」的に。

 現実的に「命」は重くない。論理的に「命」は重くない。

 僕はとても自然に考えている。僕に正しいことを説く人間が、祖父が、近所の子の家庭教師の医大生がいたけれど、彼らは僕をこの世のペットだと思っている。保護して管理して守らなくていい生き物だと思っている。

 それが自然な世の中なのだろう。

「無敵の人」も自然だ。何もかも欲の排泄物で、全部回転しているだけ。

「善悪」とは「妥当」を回転させているだけなのだから、「誰がより『ペット』か」だけの問題だ。

 戦争だろうが、ミサイルだろうが、無敵の人だろうが、当たり前じゃないか。

 回るだけ。

 ああ、回るだけだ。


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