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母親への拷問

両手の中指と人差し指を折って、全て手の甲まで捻じ曲げた。

 嘲笑というよりも道端の花を見た時のような微笑みが毬子の口元にごく自然に浮かんでいる。

 そのままにしておいて、スマホで音楽を流して聴いた。空気に音符が浮いているように軽くて快い。丸めた手の指先だけで指揮を取った。

 そうしているうちに、職員が戻ってきたチャイムが鳴り響いた。玄関に駆けていってドアを開けると、大きめのレジ袋を提げた職員が少し小首を傾げて、微笑みながら立っていた。

「材料も買ってきたから」

 何故かすり足でリビングに入ってきた職員は、テーブルに置いたレジ袋から二リットルペットボトルの飲料を三本出した。

「これでいいかな?」

「はい。ありがとうございます」

 毬子は愛想よく笑って礼を言った。サイダーとカルピスと玄米茶の飲料だった。職員が勝手に炊飯器を開けて、毬子に米の場所を聞いて米を炊き始めた。

 台所の足元にさっきのレジ袋を置いて、何やらまな板で玉ねぎを切り始めた。

 どこか無関心をまとった歌いだしそうな機嫌のいい背中を横目に、毬子はカルピスを二杯飲んでから、ゲームを再開した。

 しかしリモコンを手に取ってもしばらく何もしなかった。見つめるでもなく画面を眺めて時間をやり過ごしていた。

 画面右手に鉄棒が台に立てかけられている。ゲームの中の右手でそれを握り、鉄棒の先を陰茎の中の鉄球に押し当てて、そのまま胴の奥へと押し込んだ。ずぶずぶと音を泡立てて鉄球は奥に沈み、鉄棒は刺し込まれていった。父の顔の側部に、口から血が吐き出され流れて滴っていった。血で窒息しそうに液体が泡を吹く音が聞こえた。鉄棒の五分の二ほどを差し込むと、父の身体は震えを無くし、微動だにせず、死んだことが分かった。

 画面をスライドして母がいる部屋を映した。ベッドしかない粗末なオフィスとか会議室みたいな部屋だ。白いプラスチックのような壁。絨毯に見えなくもない薄紫の床。縛り付けられている母を見つめながら湯呑に入れた冷たい玄米茶を飲んで、一旦リモコンを置いた。

 九時半前だった。

「何時までに終わらせればいいですか?」

 背中を向けたままの職員が答える。

「何時でもいいよ。夜の零時まででも」

「後から友達が遊びに来てもいいですか?」

「え? 今日来るの?」

 職員が肩から振り返った。

「ゲームは他人に見せるものではないですよね?」

「友達が来てる時は、画面消してもらえるかな。一応」

「じゃあ、午後に友達来るんで、気分転換してからもう一人をや(殺)ります。すいませんけど、自分の部屋にいていいですか? 十二時にこっちの部屋に戻るんで。お昼ご飯作らせちゃってすみません」

 そう口にしたら天使が薄いベールで頭を撫でるような、健康的で気持ちの良い睡魔がふわりと襲ってきた。自分の息が温かい。

「ああ。はい。どうぞ」

 腕を下げたまま肩を柔らかく動かしながら、毬子は襖を開けて自分の部屋に入った。閉めてから電気を点けて、本格的に眠ってしまわないように明るい状態で、折り畳みベッドに横になって幼子のような眠りに落ちた。

 十二時に、襖がノックされ毬子は飛び起きた。夢も見ないまま時間は飛んだ。すっきりとした目覚めにしこりのない気分だった。

「はい」

 毬子はベッドから立ち上がって襖を開けた。

「すいません。起こさせてしまって」

「うん。いいよ。顔洗ってきたら? ご飯食べる?」

「はい。ありがとうございます!」

 毬子は快活に洗面所へ向かい、顔に水道水を叩いてフェイスタオルで拭いた。急に猛烈な空腹に気が付いた。

 溌溂とした健康さを身に感じてリビングに戻った。洒落たビーフシチューのようなビーフストロガノフがテーブルに二皿、向かい同士の席に置かれていた。

「いっしょに食べてもいいかな?」

 職員が聞くので、「はい。ありがとうございます。いただきます」

 席に着いて、なるべく上品に食べようと思うのに、かきこむような猛烈な勢いでスプーンが進んだ。汚い食べ方ではないが、皿から食べ物が吸い込まれるようにして消えていく。

 いつの間にか自分が泣いていたことに気が付いた。汚物を蒸留したような涙がたっぷり目じりに溜まって流れ落ちていた。

 澄み切っていく自分の治癒を完成させたいと思った。

「ごちそうさまです」

「缶コーヒーあるけど、飲む?」

「いただきます」

 職員は、冷蔵庫を開けて缶コーヒーを出してきた。「はい」。プルタブを開けて、甘くて慰撫してくれる苦い刺激を取り込んで味わった。

「死ね」の文句が喉の底に落ちて飲み下されていく。

 もう一度顔を洗いにいった。鏡に映る自分自身を不敵な目つきで見ると、すっかり寝ぼけた気配から覚醒していた。

 職員さんが食器を洗ってくれていた。毬子はゲームを操作して、さっきから暴れていたのが観念したらしい、薄汚れた情緒がついに凍り付いたかのような空気感を画面内に晒す自分の母の鼻の両方の穴の間の仕切りを、画面内で動かせるペンチで砕いて穴を一つにした。

 際どい悲鳴が上がって止んだ。左脇から腰にかけてをナイフでおそらく深さ2.5センチほどで切り裂いてから、一旦テレビ画面を落として暗くした。

 冷蔵庫からサイダーを出して、三杯続けて飲み干した。酒をがぶがぶと喰らう鬼みたいだなと自分で思った。

「散歩に出てきます」

 毬子は黒い羽織り用のシャツをTシャツの上から着て、黒い手提げ鞄を持って外に出た。外側から玄関扉を施錠した。

 階段を下りて団地から出て、アスファルトの坂を下った。見晴らす遠くの方の空に豆粒程度の黒々と泡立つ雲があった。小さな稲妻がぴりりとその部分だけ空を割ったような光をそこから発した。発したのだろうが、稲妻が走る様は見えず、ただ一瞬厳しくそれが光っただけだった。

 そこの下には雨が降っているのだろうか? 幸いここには届いておらず、傘も持っていない。

 肩に掛かる空気が重くなったり軽くなったりする。五月のぬるんだ空気を吸って口の中で温めて熱に固めて吐いた。

 図書館で時間を潰した。ペーパーバックの小学生でも読めそうな簡単な原文の海外小説を読んだ。今は感情移入の少ない母語じゃない文法がよくはかどるように一番よく読める。

 唇が何かを口ずさんだ。

 何かの最近流行りの新しい歌だった。古い歌は嫌いだ。負け犬音頭にしか聞こえない。それは父の好みだったと思う。本当に古い歌が負け犬音頭なのかどうか知らない。でもいやしんぼの父はそういうものとしての慰みを無意識に得ていたと思う。

 両親の最後の自己肯定の道具が毬子だったのだろう。

 家族というものが欲と腹いせの回収だということを知らずにいられるマイルドな情緒で収めてもらえなかったのが、悲しいを通り越して、虚しいを通り越して、たがが違ってしまいそうな痛みがある。その痛みこそが自分の正気であり狂気なのだ。

 この正気が霧散した子供はどうなるのだろうと、考えた。考え過ぎる前に、それ以上非現実の思考を開くのを止めた。


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