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老人の介護 調律されたロボット

「お父さん、肘が痛い。痛いから手を引っ張らないで」

「どうして?」

 小学校六年生の時だと思う。学校の美術室で同級生の女の子が腰で机を弾き飛ばすようにして歩き去っていった時のその角が肘に激しくぶつかって、あまりに痛むから保健室に行き、ついで早退することになったので、有休を取って会社を休んでいた父が迎えに来た。

 ベッドに腰掛ける毬子の目の前で、父は養護教諭から懇切丁寧に説明を受けて、病院に連れて行くようにと指示され、「いやあ。申し訳ない。お世話になりました」と手をやりながら頭をへこへこ下げていた。

 にやあと笑って、「帰るぞ」と言われたので、毬子は肘を緩く曲げて反対側の手でかばいながらベッドから降りて、父と保健室を出ていった。

 学校の敷地を出て校門から二人とも足が出た途端に、父は毬子の痛めたほうの手をむんずとつかんで引っ張りつけるようにして早足で歩き出した。

「机の角でぶつけたから」

「どうして?」

「痛いから」

「どうして痛いの?」

 父は淀んだ純な目で真っすぐに毬子の顔を見つめた。

「さっき説明を受けたじゃない」

 父は左の手の先で毬子のこめかみを強く突いた。毬子の顔が横に振れた。父の何故か真ん中の指だけ切られていない長くて尖った爪が刺さった。

「痛い。爪が刺さった」

 毬子は流石に父親の目を睨み付けた。

「どうして?」

 父親は大人の悪意や作為を表情から沈ませてしまう芸当でも持っているのか? 恐ろしいほどの無垢で正当そうな奥目でこっちを見て瞬きをしていなかった。

 それともこれが本音なのだろうか?

 自分には「感覚」が無いと思われているらしい。

 イタイノイタイノ飛んでいけ。

 そのまま何事もなく家に帰った。父親は力を緩めて毬子の手を引いていたと思う。それでも少し痛いので手を放してほしかった。そう何度父親の斜め後ろから声を掛けても、毬子の訴える声は父親の背中の肉に鈍らされ散らされていった。

 団地の家に帰ると、父は母に、

「おうい。毬子が肘が痛くて帰ってきたぞお。病院行けってえ」

 と大きな声を出した。

 母は、毬子という機械の調整の為に、医者という専門的な整備士のもとに連れて行った。

 母の母、つまり毬子から見て母方の祖母は歩いて十五分の距離に住んでいた。

 その祖母は毬子が十歳の時に七十歳で、その頃とても元気だった。よく話す快活な人で、毬子らが訪ねた際にはいつも毬子に食べさせるためのお菓子がないか家中を探して回る人だった。

「お母さんには内緒やからね」

 母に隠れて毬子に小遣いをやった。

 毬子は祖母の、両親とは違う肉の気配の張り詰めていない穏やかでふるめいたゆるめいた雰囲気が好きで、祖母の姿を見渡すように見ていた。

 母はあまりそこには毬子を連れていかなかった。いつからか忘れたが、いつの間にか年に一回しか行かせてもらえなくなった。

 勝手に行くことを固く禁じ、行こうと考えた日には必ず遠いお使いや母に付き合って毬子の服の買い出し等に行かされた。

 無理に行った日には、妙に嫌がらせや意地悪をされた。

 今考えると、父や母が毬子の心に信じられないほど手を突っ込むその執念は、「頭がおかしい」としか形容がない。頭がおかしいのだと思う。

 その代わりに、母は電車で一駅の祖父母とも揃っている父方の家に月に一、二度毬子を連れていった。

 少しだけ身体が不自由な祖父が半寝たきりの祖母を介護しているような家だった。

 母は毬子にその祖母の世話をしきりにさせた。

「こんにちはー」

 出迎えた祖父に向かって、母はにこやかに素朴に素敵に笑って三和土から見上げる。

「お祖母ちゃん、今日お風呂入りました?」

「いや、まだやけど」

「毬子入れてきてあげて」

 逆らうことは許されない。逆らう想定は母の中にはなく、口にしたらその言葉は、鏡のように母から自然に跳ね返される。

 母の笑顔は最強だ。死ね。

 毬子は矢張り調律されたロボットだ。言われた通りに動線上を動く。

 死ね。死ね。死ね。死ね。

 毬子が祖母の入浴を終わらせて服を着せて祖母を横たえる頃に、母は祖母の寝室にやって来る。

「パジャマ、襟元がずれてるよ」

 毬子がそれを整えると、にっこり笑って、

「気を付けようね」

 毬子の顔を覗き込んだ。

 居間に行くと、母の食べかけのミカンと緑茶があった。

 祖父が困った干し柿みたいな顔をして手を膝に揃えてソファに座っていた。

 帰り道によく言われたことがある。

「毬子はどうしてそう四角四面なのかな? 笑っている人って強いと思わない?」

 中学生になった毬子に食事の席で、

「毬子は優しいから介護士になったらいいのに。人の役に立つこと仕事」

――「人の役に立つ仕事」。

 人の役に立たない仕事ってなんだ?


 母を見ていると女ってつくづくゴミだと思う。


 毬子は自分が正確な調律を加えられるほど、中心の調律がずれていった。中学校一年の中頃から母はでたらめで脈絡の合わない調律を毬子に加えて、わざとのように齟齬をきたした適応を強いた。

 親は子供の心配をしない。他人に対する方がよほど気を遣って責任を取る。


 殴られないと虐待とは言えないのだろうか? 罵詈雑言を吐かれないと毒親とは言えないのだろうか? 

 このまともそうな日々に溶かしこんで、深度の深い意思でもって、人生をかけて毬子の邪魔と支配に命を懸けるこいつらを日本一の「毒親」と思うのはおかしいと思いますか?


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