2【エリザ八歳】
太陽さえも目覚めていない朝。ミント村の端、湖のほとりにある家のその裏庭に建てられた訓練場には鋭い弓の音が響いていた。一矢一矢、精魂込めて放たれる弓はもう何本も的に突き刺さっている。そして、最後の矢が的のど真ん中を打ち抜いた頃、流れる汗を拭うためにエリザは一息ついた。そこに太陽の光が差す。
エリザは八歳となった。
身体能力が抜群に優れていたエリザは、ブライトから弓術を教わるようになっていた。本当は剣を扱いたかったが、そもそも武器を手にするにも渋い顔をしていたブライトが剣を持つことを許すはずもなく、長い話し合いの末、弓術に落ちついたのだ。
そして、アリアからはマナーと教養を。村の者達からは市政の暮らしを。
好奇心旺盛なエリザは自ら進んで多くのことを学んだ。
ミント村はレッドパール王国の端の端、隣国ブルーパール王国との境目の村。
そのため、人の往来が激しかった。
様々な国の商人や、旅芸人、時には夜逃げする貴族なんかも訪れ、彼らが落とす金で村は潤っていた。
そんなミント村に珍しい客がやって来た。
彼女はエリザの母、アリアの古い友人だと言う。
アリアは何日も前からこの日のために準備をしてきた。
掃除は念入りに、料理はここ最近採れた野菜の中でも一番のものを。
そうしてようやく迎えた今日、家族総出で家の門に立ち、客人を待った。
するといくばくもしないうちに馬車が一台村に入ってきた。
平民が乗るような見た目の馬車だが、中はとてもしっかりとしており、外見に反して居心地が良さそうである。
そして、降りてきた一人の女性は平民の格好をしてはいたが、彼女が高貴な人物であることは教養を得たエリザには一目で分かった。
完璧な所作に、手入れの行き届いた肌と髪、そして少し離れたところに護衛を何人も付けていたからだ。
「久しぶりね、アリア」
「お久しぶりでございます」
アリアとルイーゼは涙を流しながら再会を喜び合っていた。
エリザはブライトの手を握ったままその光景を不思議そうに見つめる。
茫然とその光景を見いているとルイーゼが突如こちらを見たので瞬間的に目が合ってしまい、驚いたエリザは手を離してブライトの後ろに隠れてしまった。
ブライトの背中から半身だけを出してルイーゼを観察する様子は子供らしくて可愛らしかった。
ルイーゼは涙を拭き、優しく美しく微笑んでみせる。
そしてエリザと同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。
「初めまして。私はルイーゼ。あなたのお名前は?」
ルイーゼのあまりの美しさに言葉を失い固まっていたエリザだったが、ブライトに背中を押されようやく彼女の前に姿を現す。
「エ、エリザです」
「ふふ。自分の名前が言えるなんて偉いわね」
ルイーゼに褒められたことがよほど嬉しかったのか、エリザは両の頬に手を当てると顔を赤くした。
その様子があまりにも可愛いので、その場にいた大人達からはどっと笑いが起こったのであった。
アリアが食事の準備をしている間、エリザはルイーゼと手を繋ぎ、その後ろには腰に剣を差したブライトがついて共にミント村を散歩することとなった。
エリザが村を歩くと子供から大人まで多くの者がエリザに笑顔で話し掛ける。
「エリザ。今日はまたどんなイタズラをしたんだ?」
「そんなことしないよ、リズおじさん!」
「エリザ。もうすぐパンが焼けるから後で取りにおいでね」
「わぁ!ミカおばさんのパン、私大好き!ありがとう」
「エリザ!森の方で美味そうな木苺があったぜ!早く行かねぇとお前の分まで食べちまうぞ〜!」
「全部食べてみなさい!あんたの明日のおやつは全部私が食べてやるんだから!!」
エリザとルイーゼの散歩は笑いが絶えず、ブライトもそんな二人を微笑ましく見守っていた。
家に帰って来る頃には、エリザはすっかりルイーゼに懐いていた。
得意の乗馬と弓術を見せたり、最近覚えた文字でルイーゼに手紙を書いたり、お気に入りの花畑を見せたり。
エリザのお喋りは止まらず、それをルイーゼはいつまでもいつまでも笑って聞いているのであった。
「ルイーゼさま。ルイーゼさまはどこから来たの?」
「ここから遠く離れた所よ」
「じゃあ、ルイーゼさまのお家からお城は見える?」
「ええ。見えるわ」
「すごい!お城がミント村よりも大きいって本当?」
「そうね、確かに大きいかも」
「じゃあクローバー山とどっちが大きい?!」
「さすがに山よりは大きくないわ」
家の庭でお茶を飲みながら声を上げて笑うルイーゼをアリアは窓から見つめていた。
そして夜になり、エリザが眠りにつくまでルイーゼがベッドの隣に座り子守唄を聴かせる。
エリザが完全に夢の中に入ったことを確認するとルイーゼはその額に優しくキスをした。
「おやすみ、エリザ。どうかいい夢を」
部屋の外にはアリアとブライトが待っていた。
「殿下。エリザ様は…」
「様だなんて言わないであげて。母にそんな呼び方をされてしまっては、エリザがきっと悲しむわ」
「本当の母親は殿下ではありませんか…」
「アリア。落ち着け」
ブライトがアリアの肩を抱きしめ、アリアは目に涙を溜める。それが溢れだした時には内に秘めた言葉も共に吐き出していた。
「私が、私があの子に母と呼ばれるのは本来であれば許されざること。それはあなた様にだけに許された事であったのに。それなのに私は…エリザが本当に可愛くて、この幸せに浸っておりました。あなたがこんなにも傷ついていらっしゃるにもかかわらず」
ルイーゼは微笑んでいた。
扉が閉まったエリザの部屋に目を向けて、ぽつりぽつりと話を始める。
「そうね。本当は、あの子が成長していく過程を一秒でも見逃したくない。毎朝髪を梳かしてあげたいし、一緒にお買い物にも行きたい。可愛いドレスをたくさん着せてあげたいわ。エリザは社交界に出ればきっとたくさんの紳士達に言い寄られてしまうでしょうけれど、イルがそれを許さないだろうから、エリザに恋の相談をされたら私が一番の味方になってあげるの。そして、デビュタントにはアルトと並んで入場するのを、私はこれ以上ない幸福な気持ちで見守るわ。そんなことを、もう何度も考えた」
アリアの目からは涙がとめどなく溢れ、手で口を押さえなければ大声で泣き叫んでしまいそうであった。
ブライトもそんなアリアに寄り添いながら目尻に涙を溜める。
そんな二人にルイーゼはそっと近付くとアリアの手を取った。
「ありがとう、アリア。エリザを愛してくれて」
アリアはもう声が抑えられなくなったのか一言断りを入れて家を出ていった。
取り残されたブライトは開きっぱなしの扉を閉めると、ルイーゼの方に向き直る。
「申し訳ございません。頭を冷やしたらすぐに戻ってくると思いますので」
「私はあなたにも感謝しているのよ、ブライト。ありがとう」
「とんでもございません」
「アリアが戻って来たら私はもう行くわ」
「もう遅い時間ですし、あいつを待たなくても構いませんよ」
「ちゃんと挨拶させてちょうだい。久しぶりの親友との再会なのよ。それに、エリザと少しでも長くいたい、ただの私のわがままよ」
「かしこまりました」
二人が束の間のティータイムを楽しんでいるとお茶を飲み干した頃にアリアは帰って来た。
最後の挨拶も済ませ、ルイーゼの馬車が迎えに来る。
昼間の活気が嘘のように静まった村。
月が真上に登る深い夜。
いよいよルイーゼが馬車に乗り込もうとした時、家の扉が勢いよく開いた。
「ルイーゼさま!」
「エリザ?」
エリザは裸足のまま走り出し、アリアとブライトの間を抜け、ルイーゼに抱きつく。
ルイーゼが優しく呼びかけてもなかなか顔を上げないエリザ。
どうやら声を殺して泣いているらしかった。
「エリザ。私の可愛いプリンセス」
ルイーゼがエリザの頭を撫でる。
「最後にお顔を見せて」
エリザは涙と鼻水で汚れた顔をゆっくりとあげた。
「これで、最後なの?」
「ええ」
「エリザのこと嫌い?」
「そんな訳ない。愛しているわ」
「じゃあどうして会えないの?」
声を上げて泣くエリザの後ろでアリアもまた涙を流す。
馬車の周りに集まっていた護衛騎士も馬車の御者も、そしてブライトまでもが悲しい表情で二人を見守っていた。
「ごめんね、エリザ。私の可愛いエリー。会えなくても私はあなたを愛しているわ。本当よ、だから…」
ルイーゼの目には涙が溜まっており、これが娘との永遠の別れであることを噛みしめる。泣いてはいけない、本当に辛いのはエリザだと言い聞かせ、この国の王妃のプライドにかけて、溢れそうになる涙をせき止めた。そして次の言葉を放とうとした瞬間、先に口を開いたのはエリザの方だった。
「だったら、エリザがルイーゼさまに会いに行くわ」
エリザは間髪入れずに言葉を続ける。ルイーゼが割り込む余地もない。
「お城が見えるお家なんでしょ?お城が見えるお家を全部回るわ」
「一体そんな家が何軒あると思っているの?」
「何軒だって構わない。必ず会いに行くわ!」
エリザの美しいルビーの瞳が、強く燃えているように見えた。
ルイーゼはブライトとアリアに心から感謝した。そしてエリザの逞しい姿に胸を打たれる。その表情は息子・アルトにそっくりだったからだ。
「エリザ。あなたは本当に、素敵な女の子ね」
ルイーゼは笑った。目には涙を浮かべながら。しかしそれが流れる前にふき取ると、もう一度エリザを抱き締める。
「エリザが待ちかねてたくさんのお家を訪ねてしまう前に、また来るわ。今度は息子と夫も連れて」
「ルイーゼさま、息子がいるの?」
「ええ。きっとあなたと仲良くなれると思うわ」
「約束だよ。ミント村では約束を破ったらおやつ抜きになるんだよ」
「まぁ怖い」
ルイーゼが馬車に乗り込む。エリザとアリアは馬車が見えなくなるまで見送り、ブライトは馬に乗って森を抜けるまでルイーゼを護衛することとなった。
ルイーゼについてきた護衛騎士たちは、ブライトの元部下達だった。積るも話もあり、道中での楽しいひと時はあっという間であった。森を抜けた頃、ブライトがルイーゼの馬車をノックする。お互いに簡単な挨拶を交わしルイーゼが馬車に戻ろうとした時、ブライトが「そうだ」と言った。
「エリザにはまだ恋人はいないから安心しろとイルの奴に伝えておいてください」
「乳兄弟のブライトには全てお見通しね。分かった。伝えておくわ」
「それと、エリザのことなんですが」
「何かあったの?」
「実は自分のことを『私』と呼び出したのはここ一、二年のことなのです。しかし、私とアリアの前でだけはまだ『エリザ』や『エリー』と名前で呼ぶのです。今日一日お二人の会話を聞いておりましたが、エリザはあなたの前で一度たりとも自分のことを『私』と言いませんでした」
「それは…」
「きっと、何かに気付いていたのではないでしょうか?子供の勘というのは恐ろしいものですから」
ブライトと別れ、ルイーゼは先程の言葉を馬車の中で反芻していた。
そして今まで堪えていた涙がどっと一気に流れ出す。
ルイーゼにとって、例え母と呼ばれることがなくとも、娘と呼ぶことができなくても、どこかで繋がっているのだと、そう希望を持てた一日であった。