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8/27

8.すれ違う想い


……3月18日、火曜日。朝の七時半。


「けほっ、けほっ」


俺は弱々しくベッドに横たわり、顔をしかめて咳き込んでいた。


長谷川はそのベッドの横に立ち、俺の頭に氷枕を置いた。


ピピピ、ピピピ


俺の左脇に入れていた体温計が鳴った。彼女は「失礼します」と言って、脇から体温計を抜き取り、温度を確認していた。


「けほけほ、な、何度だった……?」


俺がそう尋ねると、長谷川は苦々しい声で「8度4分です」と答えた。


「さ、さすがに……学校は休むかあ……」


「先輩、ゆずも休みます。休んで、1日看病します」


「い、いいよ、そこまでしなくても。さすがに長谷川まで学校を休ませるのは、気の毒だしさ……」


「いいえ、休みます。休ませてください……」


長谷川の濡れた瞳が、俺のことを真っ直ぐに見つめている。その瞳には、ぐったりと具合悪そうに眉をひそめている俺の顔が写りこんでいた。


確かに、本音を言うと長谷川には居てもらいたい。父さんは出張で二~三日家を開けて(空けて)るし、母さんも今日はパートがあるため、もう家を出てしまっていた。俺が風邪を引いたから帰ってきてくれとは、なかなか言いづらい状況だった。


(とは言え……俺のせいで長谷川を休ませるのも、心苦しいんだよな……)


季節の変わり目で風邪を引きやすい時期であるが、それでももう少し……体調管理には気を付けておきたかった。


こうして長谷川が俺を心配するのは、目に見えて分かっていたはずなのだから。


「先輩、お願いします。こういう時のために、ゆずがいるんですから」


「………………」


長谷川からの懇願を受けて、俺はゆっくりとこう答えた。


「……分かった。じゃあすまないけど、看病をお願いしてもいいか……?」


「はい、もちろんです」


「ごめんな長谷川、面倒なことさせちまって……」


「いいんです、気にしないでください」


長谷川は自分の鞄の中からスマホを取ると、「学校に休む連絡をしますね」と言って、学校へ電話をかけていた。


「あ、あのー先生、今日ちょっと、お休みさせてもらいたいんですけど……」


彼女が電話している姿をぼんやりと見つめながら、俺は額に置かれていた氷枕を左手で触った。


ああ、気持ち悪い。表面的には皮膚が熱く感じるのに、身体の中が驚くほど寒い。背中にもぞくぞくと悪寒が走るし、どんなに布団を被っても温かくならない。


「よし、連絡終わり。先輩、何か食べたいものとかないですか?」


「えーと……うーん、なんか、あったかいやつが欲しい……」


「あったかいやつ……じゃあ、お味噌汁とおかゆとか、どうですか?」


「ああ、うん……食べたいかも」


「それじゃあゆず、台所で作ってきますね」


長谷川はそう言って部屋を出ると、台所へと向かっていった。彼女の遠退いていく足音が、俺の耳に届いていた。


「………………」


カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。この光を浴びていると、「早く起きて学校へ行きなさい」「いつもどおりの朝を迎えなさい」と、そう叱られているように感じた。


俺はそれに耐えきれなくて、ベッドに寝そべったまま、カーテンの隙間を閉じた。




「……お待たせしました。お味噌汁とおかゆです」


30分ほど待った頃、長谷川はお盆を持って俺の部屋へと帰ってきた。


「けほけほっ。お、おお、ありがと」


俺は咳き込みながら上半身を起こして、彼女に礼を言った。長谷川は持っていたお盆を、俺の太ももの上に置いた。


豆腐とわかめのお味噌汁と、卵入りのおかゆ。そのふたつの料理の香りが、俺の鼻をくすぐった。


「へ~、すげ~……!長谷川って、料理上手なんだな」


「自分の家にいた頃は、よく自分で作ってましたから。と言っても、レシピはスマホを見ながらじゃないとできないですけど」


「いやいや、それでもすごいよ。わあ~、ありがとなぁ長谷川」


そうして、俺がスプーンを手に取ろうとすると、彼女が先にそれを取った。そして、おかゆをひとすくいして、「ふー、ふー」と息を吹きかけた。


「どうぞ先輩、あーんしてください。ゆずが、食べさせてあげますから」


「あ、ああ、わかった。えーと、あーん……」


俺はされるがままに、彼女から食べさせてもらうことにした。こうしていると、俺がまだ入院していた頃を思い出す。


退院してからさして時間は経っていないのだけど、もう結構昔のことのように感じるな。


「ふー、ふー」


長谷川は俺の口へ運ぶ前に、必ず息を吹きかける。それを俺が食べるもんだから、なんだか微妙に間接キスをしているような気持ちになって、ちょっとドキドキしてしまった。


「はい、先輩。あーん」


「お、おう。あーん……」


「どうですか?熱くないですか?」


「うん、大丈夫。ちょうどいい温度で美味しいよ」


「よかったです。安心しました」


長谷川の顔が、少しだけ嬉しそうに緩んでいた。


「それにしても、長谷川が料理上手とは知らなかったなあ。俺、そういうの全然得意じゃないから、羨ましいよ」


「レシピ通りにさえ作れば、誰でも作れますよ」


「そのレシピ通りにっていうのが、ドジな俺にはできなくてなあ……」


「ふふふ、そうですね。先輩には無理かも知れません」


「あー?酷い後輩だなあ、先輩を笑いやがって」


「先輩がドジであることは、もう嫌というほど、ゆずも知ってますから」


「ちぇ、先輩に対する敬意がないねえ、全くもう」


俺と長谷川は、互いに微笑みを浮かべながら、穏やかに会話を弾ませていた。


あのショッピングモールに二人で出かけた日を境に、こうしてちょっとした冗談を言えるくらいには関係が回復した。


前までの長谷川はずっと張り詰めていて、笑うなんてもっての他という顔をしていたけど、今はそれも少し解けて、緩んだところを見せてくれる。


事故の前のように、長谷川が俺をからかってくれる時、俺は本当に嬉しくなって、ついつい綻んでしまう。


「あちっ」


その時、俺は口の端にスプーンが触れて、チクッと刺すような熱さを感じた。


長谷川は咄嗟にスプーンを引っ込めて、「だ、大丈夫ですか!?」と、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。


「ご、ごめんなさい……ゆず、ちゃんと冷ませてないのに、先輩の口に運んじゃって……」


「い、いや、大丈夫大丈夫……スプーンが口の端に当たっただけだから……」


俺がそう言っても、長谷川の顔は晴れなかった。彼女は本当に申し訳なさそうに眉をひそめて、口をへの字に曲げていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


「長谷川……」


「ちゃんと、気を付けなきゃいけないのに……」


「………………」


さっきまでの穏やかな空気は、もう消えてしまった。


言い様のない気まずさと重苦しさが、ずしりと肩に乗ってきた。


「長谷川、そんなに自分を責めないでくれよ」


俺は、スプーンのことだけでなく、いろんな意味を含めた言葉を彼女に投げかけた。


だが彼女は、それを受け取ってはくれなかった。首をぶんぶんと横に振って、「ゆずが調子乗っちゃいけませんでした」と、擦り切れるような声で言った。


「………………」


それからも彼女は、俺に作った料理を食べさせてくれた。


だが、時間が経過するごとにその料理の熱は冷めていき、先程まであった作りたてのあたたかさは、次第になくなっていった。






……それから俺は、しばらく眠っていた。風邪を引いた時は、とにかく寝て治すに限る。


家にあった風邪薬を飲んで、身体の求めるまま、泥のように寝た。


「……ん」


目が覚めた時には、もうとっくにお昼の三時を過ぎていた。


ようやく身体に熱が戻ってきたのか、全身がぽかぽかと温かった。背中にはぺたっと湿った感覚があって、汗を結構かいていることがすぐに分かった。


俺は寝ぼけ眼をごしごしと擦って、枕元に置いてある体温計を使って熱を測ると、もう6度9分の微熱にまで下がっていた。


(ほっ……よかった。これで長谷川にも、これ以上迷惑をかけずに済む)


そうして彼女のことを頭に浮かべて、ようやく俺は気がついた。部屋に長谷川がいなかったのだ。


(あれ?どこに行ったんだろう?)


おそらくトイレにでも行っているのだろうけど、なんだか心細かった。


いつもそばにいてくれる人が、目覚めた時にいないというのは、思いの外辛かった。


「あ、先輩、起きたんですね」


だがそんな心細さも、すぐに失せた。彼女が手に氷枕を持って、部屋に帰ってきたのだった。


「ああ、長谷川。どこに行ってたんだ?」


「すみません、ちょっと氷枕がぬるくなってたので、新しいのと交換してきました」


「そっか、ありがとな」


俺は上半身を起こして、彼女から氷枕を受け取り、それを頭につけて冷やした。


「そうだ、長谷川。さっき熱を測ったら、もう6度9分に下がってたよ」


「ほんとですか?それはよかった」


「ほんとにごめんな。今日1日、迷惑かけちまって」


「ううん、気にしないでください。ゆずのできることを、精一杯させてください。そうだ、お腹空いてませんか?またおかゆとか作りますけど、どうですか?」


「うーんと、いや、まだ大丈夫だよ。まず、お風呂に入ろうかなと思って」


「お風呂?」


「ちょっと汗かいちゃってさ。それを流そうかなって思って」


「分かりました。じゃあ、お風呂掃除しますね」


「え?いやいやいいよ、自分でするから。もう熱も下がったし、それくらいならできるよ」


「先輩、今日は1日、じっとしておいてください。治りかけの時こそ、大事にしないといけないですから」


そうして彼女は、「それじゃあ掃除してきます」と行って、また部屋を出ていった。


結局俺はまたベッドに横になって、休ませてもらうことにした。


(なんだか、今日はずっと迷惑かけちまう日だなあ)


俺は真っ白な天井を見上げながら、声にならないため息をついた。


(……まあでも、そうだな。今日は確かに甘えさせてもらった方がいいかもな)


これで変に頑張ってぶり返して、また休むなんてことになったら、それこそ迷惑だ。今日1日で終われるように、しっかり休息しておこう。


「………………」


それにしても、ほんと長谷川には頭が上がらないな。


腕の償いとは言え、毎日毎日、俺のために尽くしてくれるのだから。


今日だって、料理を作ってくれるし、氷枕も準備してくれるし、今もお風呂掃除までしてもらっているし……。


ありがたい気持ちと、申し訳ない感情がいっぺんに来て、なんとも言葉にしがたい気持ちになる。


長谷川とは前から仲がよかったけど、ここまでしてもらえる仲だとは思ってなかったから、余計に驚きだった。


「………………」


ふと、思う。


長谷川は、俺のことをどう思っているんだろうか。


単なる先輩としてなのか、それとも……それ以上の感情があるのか。



『ゆずみたいなのを相手にしてくれるのは、後にも先にも、きっと先輩だけです』



長谷川が以前言っていた、この言葉……。これから考えると、少なくとも彼女の方も、俺とは仲良しだと思ってくれているんじゃなかろうか。


単純な先輩と後輩という立場だけの関係じゃなくて、もっと友人というか……もっと踏み込んだ関係になれているんじゃないだろうか。


……いや。


もしかしたら、そのさらに“先”まで、あったりするのでは?


恋愛対象として、見られているのでは?


だって、彼女はわざわざ俺の家に住んで、こうして四六時中世話をしてくれる。これは、そういう『恋愛的な好意』があるからこそ、してもらえることなのでは……?


「………………」



パシンッ!



俺は左手で、自分の頬を叩いた。


全く、自惚れるなよ、中村 礼仁郎。


彼女はあくまで、俺への償いをするために、こうして世話をしてくれてるんだ。そこに恋愛感情を期待するのはよくない。


だいたい、俺みたいなドジなやつのことを、好きになってくれる女の子がいるわけないさ。世の中には、もっとカッコいい人たちがいる。わざわざ俺のことを選ぶことなんて、あり得ない。


「………………」


……それに。


それに俺の方も、絶対に……恋をしちゃいけない。長谷川には、後輩以上の気持ちを持っちゃいけない。


だって俺は、隻腕なんだから。


生きているだけで、人の力を頼らないといけない人間なんだ。そんなめんどくさいハンデを背負った俺じゃなくて、もっと長谷川を幸せにしてくれる人がそばにいるべきだ。


恋愛は、諦める。そう誓ったはずじゃないか。


しっかりしろよ、中村 礼仁郎。



「……先輩、掃除終わりました。今お湯溜めてます」


しばらくしてから、長谷川が部屋へと戻ってきた。俺は彼女に「ありがとな」と礼を言って、ベッドから起き上がった。


「じゃあ俺、そろそろ着替えを持ってお風呂場へ行こうかな」


「分かりました、ならゆずも行きます」


「え?」




「ゆずも一緒に、お風呂に入ります」









……ざぱあっ


「先輩、寒くないですか?」


背中越しに聞こえる彼女の言葉に、俺は「あ、ああ」と吃り気味に答えた。


湯気が立ち上る風呂場の中で、俺は椅子に座り、彼女にお湯をかけてもらっていた。


俺は腰にタオルを、長谷川はスクール水着を着ており、お互いに大事な部分が見えないようにしていた。


だが、女の子と一緒に風呂場にいるという事実は変わらない。そんな状況に耐えられそうにない俺の心臓は、今にも肋骨を折って外に飛び出しそうだった。


「は、長谷川……。やっぱり俺、一人で入るよ」


「今日1日は、ゆずにお世話を任せてくださいって言ったでしょう?それに、もし湯船に浸かってる時に、万が一先輩がまた具合悪くしちゃったら……助けられるの、ゆずしかいないんですよ?」


「い、いやあ、それでもさあ……」


「今おうちには、ゆずたちしかいないんですし、もし何か先輩に異変があったら、ゆずは……悔やんでも悔やみきれません」


「………………」


「それじゃあ、まず頭から洗いますね」


彼女からそう言われて、俺は頭を下げて目を閉じた。すると、シャワーから出されたお湯が頭にかけられた。


「よし、ならシャンプーで泡立てますね」


「う、うん」


かしゅ、かしゅっと容器からシャンプーを取る音が聞こえてから、頭にくちゅ……と、シャンプーがつけられた。


くしゃ、くしゃくしゃ、くしゅ


時間が経つにつれて、泡立った音になっていった。


彼女の指先は、髪の毛や頭皮を優しく揉んでいた。細く繊細な女の子の手……。目を閉じていても、それが分かる。


(や、やべえ……。なんか、これ、すごくやらしい気がする)


俺は長谷川に気がつかれないように、生唾をごくりと飲んだ。


「今から、頭流しますね」


シャーーーー


頭についていた泡が、お湯によって流されていく。汗ばんでいた頭がすっきりしていく感覚があって、気持ちがいい。


「……よし、頭はできました。次は身体を洗いますね」


「え?か、身体も?」


「はい」


長谷川はボディータオルとボディーソープを使って、俺の背中を洗い始めた。


「先輩、痛くないですか?」


「あ、ああ、大丈夫だよ」


「よかった。力が強すぎたりしたら、教えてくださいね」


「うん……」


「………………」


「………………」


「よし、じゃあ次は前を洗うので、こっち向いてくれますか?」


「あ、う、うん……」


俺は座ったまま、身体の向きを変えて、彼女と対面した。


その時、俺は長谷川と目が合った。


「………………」


「………………」


お互いに照れ臭かったのか、顔を赤くして、すぐに目を逸らしてしまった。


「え、えっと、じゃあ……いきますね」


「お、おお」


長谷川がボディータオルを、俺の胸へと当てて、ごしごしと洗っていく。


この間、俺はずっと、長谷川の身体に目が行ってしまっていた。


スクール水着は、あまりにも狂暴だった。彼女の抜群のスタイルがばっちりと見て取れる。ぴちっとした水着の質感が、逆に裸であるよりも妖艶であるように感じられた。


(ば、馬鹿馬鹿。何まじまじと見てるんだ)


俺は顔を上にあげて、ぼんやりと虚空を見つめていた。目の端に彼女の姿が写り込むけど、そっちの方へは視線を写さないように気を付けた。


「………………」


……すると、あるタイミングで俺を洗う長谷川の手が止まった。風呂場の中は、シーンと静まり返っていた。


「……?長谷川?」


俺は顔を下ろして、長谷川に目をやった。


彼女はじっと、俺の右腕を見ていた。肩から先のない、俺の右腕を。


苦しそうな顔だった。下唇をぎゅっと噛んで、眉間にしわを寄せていた。


「………………」


俺は、何も言えなかった。なんと言葉をかけるのが正解なのか、今の俺には何も分からなかったから。


だから俺は、長谷川の頭を静かに撫でた。これも慰めになるのか分からないけれど、とにかく何もせずにはいられなかった。


「先、輩……?」


「………………」


「……ごめんなさい。めんどくさい後輩で……」


「……いや」


「………………」


「………………」


「……どうして」


「うん?」


「どうして先輩は、そんなに優しいんですか?」


「どうしてって……」


「ゆずのことを、笑わそうとしてくれたり、こうして慰めてくれたり……」


「………………」


「なんでそんなに、ゆずのことを許そうとしてくれるんですか?ゆずのこと、憎くないんですか?」


「……憎くなんて」


「………………」


「……憎くなんてないよ。だって俺はお前のこと……」


その時、俺たちはまた、目が合った。


長谷川の潤んだ瞳が、俺のことを真っ直ぐに見つめている。


今度はその瞳から、離れられなかった。俺たちの時間はぴたりと止まってしまって、動かなかった。


「お前の、こと……」


俺の前髪からぽたぽたと落ちる雫が、目の前を通っていく。


「………………」


俺は、彼女の頭に乗せていた手を動かして、彼女の右の頬へと移した。その時長谷川は、少しだけぴくりと反応した。


彼女の呼吸が、荒くなっていた。唇を尖らせて、浅く息を吐く音が、俺の耳に微かに聞こえていた。


「……なんですか?先輩」


「………………」


「ゆずのこと、なんですか?」


「………………」


長谷川の顔は、耳まで真っ赤だった。左手に伝わってくる頬の体温はとても熱く、火傷をするんじゃないかとすら思えた。


「………………」


「………………」


長谷川は、俺の左手の上に、そっと手を乗せた。


その瞬間、俺はハッとして、すぐに彼女の頬から手を引いた。


「先輩……?」


「……お前は、な。長谷川」


そして、彼女の肩の上に手を置いて、ぽんぽんと軽く叩いた。


「お前は俺の、大事な後輩だよ」


「………………」


「だから、憎まない」


「………………」


長谷川は、切なげに目を伏せた。そして、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、「そうですよね」と呟いた。








……シャーーーー


ゆずは、お風呂場で一人だった。


着ていたスクール水着を脱いで、全身にシャワーのお湯を浴びていた。


身体を洗い終えた先輩は、先に部屋に戻って貰った。



『お前は俺の、大事な後輩だよ』


『だから、憎まない』



「………………」


先輩の触れてくれた右の頬に、自分の右手を重ねてみた。


じんわりと、手の平が熱くなるような、そんな感覚に襲われた。


……あの時、ゆずは本当に危なかった。あともう少しで、先輩に告白しそうになっていた。


あんなに間近で、先輩と見つめあっていたことなんて、なかったから。


先輩がゆずのことを後輩だって言ってくれなかったら、戻れなくなってた。


(……そう、ゆずは先輩にとって、一生後輩なんだから。恋人には、なっちゃいけないんだから……)


先輩のことを傷つけたゆずが、そんな関係を望んでいいはずがない。だからこの気持ちも、きちんと隠さなきゃいけない。



『うわー!よかった!よかった!久しぶりに笑ってくれたね!』


『へ~、すげ~……!長谷川って、料理上手なんだな』


『いやいや、それでもすごいよ。わあ~、ありがとなぁ長谷川』



「………………」


きゅっ


蛇口を閉めて、シャワーを止めた。


ゆずの顎先から、雫が垂れた。


それは、あたたかいシャワーのお湯だったかも知れないし、ゆずの冷たい涙だったかも知れない。



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