28.狂
……それは、真夜中の二時頃だった。
ボクはなかなか寝付けずに、ずっとダラダラと起きてしまっていた。
暑くもなければ、寒くもない。快適な状況であるはずなのに、妙に胸がそわそわして、落ち着かなかった。
(体調不良、というわけでもなさそうだが……)
原因が分からなかった。とにかく何か、胸の中を掻きむしりたい衝動にかられる。肋骨を割って、臓器を引き摺ってしまわないと治らないような、そんな感覚。
要するに、良い気分ではないと言うことだ。
(困ったな……。明日も美術部にナカムラくんが来てくれるんだから、風邪なんか引きたくないのに)
ボクはスマホを使って、眠りやすい穏やかな音楽を流したり、少し身体をストレッチでほぐして、リラックスできるよう努めた。
それでも、ボクが眠りについたのは、結局夜中の三時を過ぎてからだった。
「……ふー」
ボクはこめかみに鈍痛を覚えながら、学校へと向かっていた。
空はどんよりと曇っていて、まるでボクの心理状態を表しているかのようだった。
「………………」
ここ最近、ボクはなんだか変だ。自分で自分の身体が、よく分からない。
上手く言葉にできないけれど、嫌な焦燥感がずっとボクを蝕んでる。何に焦っているのか、これもよく分からないけど、とにかく焦っているのだ。
(作品の進捗が悪いから?でも、それでこんなに焦ったことないし……)
原因不明の焦燥感に頭を悩ませていたちょうどその時、ボクは背後から「おはよう、牧平さん」と声をかけられた。
それは、ナカムラくんだった。そしてその隣には、いつものようにハセガワさんもいた。
「おお、ナカムラくんにハセガワさん。おはよう」
「おはようございます、牧平先輩」
「今日は二人とも、ずいぶんと早いじゃないか」
「俺、今日は陸上部の朝練があるからさ。ちょっと早めに出たんだ。長谷川は、その付き添いで来てくれたんだよ」
「おお、朝練か。なかなかに熱心なことだね」
「ははは、ありがとう。あ、でも今日は俺、美術部の方に行くからさ。よろしくね」
「うん、もちろん分かっているよ。君が来るのを、楽しみにしてる」
「うん、ありがとう」
「先輩、そろそろ走らないと、間に合わないですよ」
「おっ、マジか。ごめん牧平さん、また教室で」
「牧平先輩、失礼します」
「ああ、またね」
そうして、二人はそのまま小走りで学校へと向かって行った。
いやはや、美術部の方もやりながら、陸上部の朝練まで出るとは。ナカムラくんは相変わらず努力家だな。
国語の先生から言われた小説の方もこなしているし、彼はずいぶんと多才なようだ。しかし、それに胡座をかくことなく、精進する姿には好感が持てる。彼のような人こそ、成功を掴む人生であって欲しいものだ。
「………………」
その時、ボクはふと、さっきまで抱えていた焦燥感がなくなっていたことを思い出した。
それどころか、晴れやかで気持ちがよく、胸のつっかえがすっかり取れたような心持ちだった。
「変な具合だ、突然よくなるなんて」
ボクは胸を抑えながら、首を傾げた。
そして、もうすっかり遠くなってしまった、ナカムラくんとハセガワさんの背中を見つめた。
「………………」
……もしかして、と思った。
もしかして、ボクは……ナカムラくんに会ったから、これが治ったのか?
このぞわぞわする感覚は、ナカムラくんに会えなくて……寂し、かったから?
彼に会いたくて、心が……落ち着かなかった、のか?
「………………」
ボクは、その場に足を止めた。
そして、ナカムラくんたちが豆粒のようになって消えていくまで、そこに佇んでいた。
……ガヤガヤガヤ
午前八時半頃。ボクのいる教室は、ホームルームを終えて一時間目の授業が始まるまでの休み時間を迎えていた。
「は~、今日マジねみ~」
「ねえねえ聞いて。四組のサキちゃんね、もう彼氏とキスしたらしいよ」
「なあなあ、今日早弁競争やろうや!先生にバレたらアウトな!」
活気よくざわつく教室の中で、ボクは左手で頬杖をつきながら、スケッチブックにクラスメイトたちのスケッチを描いていた。
スケッチが難しいのは、デッサンのように対象が止まっておらず、常に動き続けているところだ。そのため、人の特徴や仕草を瞬時に掴まえて、それを素早く絵に落とし込む技術が問われる。今のボクだと、一人につきおおよそ30秒~1分で描くスピード感だ。
これをこなすことで、躍動感のある形を習得することができ、より生き生きとした絵が描けるようになるのだ。デッサンと同じくらい、絵画技術の向上には必要な要素となる。
ちなみにプロは、一人につき10秒程度で描き上げてしまう。まだまだボクも、精進しないとな。
「!」
そうして教室を見渡していると、ボクはナカムラくんの姿に目がいった。
彼は黙々とノートに何かを書き込んでおり、とても真剣な眼差しをしていた。
(いいね、いい表情だ)
ボクは嬉しくなって、彼の姿をスケッチし始めた。
なんだか、他の人以上に筆が乗るぞ。1分と言わず、5分くらいかけてしまおう。
(よし、できた)
スケッチにしてはしっかりと描き込んだ絵ができた。自分でも、なかなか気に入った絵になったぞ。
(ふふふ、彼に見せたら、どんな反応するかな?)
『え、えー!?いつの間に描いてたの!?』
『うわー!俺って他の人からはこんな感じで見えてるんだ!面白いな~!』
『てか、やっぱ牧平さん上手いね!すごいや!』
彼の声が、頭の中でイメージできる。それがボクの胸をワクワクさせた。
そうだ、きっと彼は優しいから、ボクの絵を、褒めてくれるはずだ。
お母さんみたいに、ボクのこと、すごいって言ってくれるはずだ。
彼に、褒めて欲しいな。
すごいって、言って欲しいな。
ガタッ
席を立ち、スケッチブックを持って、彼の元へと行こうとした。
「ナカムラく……」
だが、ボクの言葉はそこで、ぶつりと打ち切られてしまった。
「中村くん、おはよう」
……先客が、来た。
クラサキさんだった。
「やあ、おはよう倉崎さん」
「中村くん、それ何書いてるの?」
「ああ、えーとね……ちょ、ちょっと小説を」
「小説!?え、そ、それって、オリジナルってこと?」
「うん、オリジナルだね」
「えー!?なになに!?凄いねそれ!」
「短編小説のコンテストが今度あってさ。国語の先生から、それに出してみないかって」
「へ~!私、読んでみたいな!」
「え?」
「ね、完成したら見せてくれる?私、気になるな!」
「わ、わかった!じゃあ……完成したら言うよ!」
「うん!楽しみにしてる!」
「いやあ、緊張するな~!面白くできたらいいけど!」
「ふふふ、中村くんなら大丈夫だよ!」
二人は、朗らかに笑っていた。
その間には、誰も入れなかった。
まるで二人の間に、透明なバリアがあって、その向こう側にいるような感覚だった。
「………………」
ボクは、手に持っていたスケッチブックを、胸にぎゅっと抱いた。
朝に感じていた焦燥感が、またふつふつと沸いていた。
「……ふ~~~!いやあ、今日も描いたなあ~!」
ナカムラくんは両腕を上げて、背中を伸ばしていた。
放課後の、四時過ぎ。ボクとナカムラくんは二人で美術室にいた。
もう既に、太陽が沈みかけていた。夕暮れの光が窓の外から差し込んでいて、美術室全体を橙色に染めていた。
「俺、ちょっとずつ上達してきて、だんだん楽しくなってきたよ!やっぱり何事も、継続は力なりだね!」
「………………」
「俺さ、最近腕のない画家の絵とかを検索するんだよね。そしたら、凄いね!足で書いてる人とかもいて、びっくりしたよ!」
「……ふーん」
ボクは、黙々とキャンパスに向かいながら、敢えて素っ気ない返事をしていた。
あの朝の光景を見た時から、なんだかずっと、イライラしていた。
ナカムラくんがクラサキさんと楽しそうにしているのが、悔しくて仕方なかった。
「そういう人の絵を観るとさ、俺も元気付けられるよ。俺もまだまだやれるなって、そう思えてさ」
「……そう」
「………………」
さすがにナカムラくんもボクの態度を察したのか、恐る恐る「どうしたの?牧平さん」と訊いてきた。
「どうしたのって、なにが?」
「いや……なんか、牧平さん、ちょっと怒ってるみたいだから」
「………………」
「何かあったの?よかったら、俺に話してよ」
「……別に、何もない」
「………………」
横目でちらりと見ると、ナカムラくんは悲しそうにしょんぼりと頭を垂れていた。
(うっ……)
胸の奥がズキッと痛んだ。激しい罪悪感にかられてしまった。
(……なにをやってるんだ、ボクは。彼に当たったってしょうがないじゃないか)
ていうか、そもそもなんでボクはこんなにイライラしてるんだ。いいいじゃないか、別に。ナカムラくんがクラサキさんと楽しそうにしてたって。
「………………」
謝ろう、さすがに。
こんな八つ当たり、間違ってる。
ナカムラくんを傷つけたいわけじゃないんだ。
ただ……。
「………………」
……ただ。
……ナカムラくん、が。クラサキさんと話している時。
ボクとの時より、楽しそうだったんだ。
それが。
それが、気にくわないんだ。
「………………」
「あ、あの、牧平さん」
気がつくと、彼はボクの右隣に立っていた。
突然近くに彼が来たもんだから、ボクは思わずドキッとしてしまった。
「な、なんだい?ナカムラくん」
「あ、あのさ……」
「………………」
「も、もしかして、俺、なんか悪いこと……したかな?」
「………………」
「ごめん、ほんと今、全然自覚なくて。よかったら、教えて欲しい。牧平さんが怒ってる理由」
「……ナカムラくん」
彼の眼は、真っ直ぐだった。隠し事なく、素直で、ボクの心を射貫くような瞳だった。
「俺、牧平さんとは仲良くいたいんだ。絵のことも尊敬してるし、何より……一人の大事な友だちだと、思っているんだ」
「………………」
「察しが悪くてごめん。でも、言ってくれると嬉しい!ちゃんと俺、反省するから!」
そうして、彼は深々と、ボクへ頭を下げた。
「………………」
こんなにストレートな感情をぶつけられたら、ボクが訳の分からない八つ当たりをしていたことが、とても恥ずかしくなってしまった。
「……ごめん、ナカムラくん」
「え?」
「その、君の……せいじゃ、ないんだ」
「ど、どういうこと?」
「……絵、がさ。ちょっとその、上手く進まなくて。それで、イライラしてたんだ」
「………………」
「ごめん、八つ当たりだったね。反省するよ」
「いやいや!そんな……俺の方こそごめんよ、話しかけ過ぎて、集中できなかったよね」
「いや、いいんだ。話しかけて欲しい。君の話……ボク、聞きたいよ」
「そ、そう?それならいいけど」
「うん。ありがとう、ナカムラくん」
「え?」
「ボクに……」
「………………」
「ボクに、優しく、してくれて」
「???ええ?そうかな?普通のことだと思うけど」
「ふふふ」
普通じゃないさ。
本来、君は怒っていいはずなんだ。
ボクが勝手に八つ当たりして、「なんか感じ悪くない?」って、そう怒っていいんだ。
でも君は、ボクに歩み寄ってくれた。ボクのことを、大事な友だちだって……そう、臆せず言ってくれた。
それだけで、ボクはあったかい気持ちになれたよ。
ごめんね、ナカムラくん。ボク、嫌な奴で。
こんなボクのことを友だちだと言ってくれて……光栄だよ。
「………………」
時計を見ると、もう既に五時を過ぎていた。
「ナカムラくん、そろそろ帰らなくていいかい?ハセガワさんも待っているだろう?」
「ああ、ほんとだね。じゃあごめん、そろそろお暇させてもらうよ」
「うん」
「牧平さんは、まだ続けるの?」
「そうだね、キリのいいところまで描いたら、ボクも帰るとしよう」
「分かった」
ナカムラくんは帰り支度を済ませた後、ボクへ手を振ってから、「また明日」と告げて、美術室から出ていった。
「………………」
途端に、部屋の中がしーんと静まり返った。
自分の微かな呼吸音が聞こえてくるほどに、静粛が部屋を包んでいた。
「………………」
ボクは机の上にスケッチブックを置いて、それを開けた。
そこには、ナカムラくんの絵が描いてあった。朝方に描いた、彼の真剣な姿。
それを観ていると、なんだか切ない気持ちになって……そっと、その絵の上に右手の指先を置いた。
ああ、ドキドキする。なんだか、本当に彼に触れているみたいだ。
体温は感じないけれど、彼のことを近くに感じられて……。
嬉し……。
「………………」
ボクは、ハッと我に返った。
そして、直ぐ様手を引っ込めた。
「………………」
心臓を、手で鷲掴みされたような激痛が走る。
ギリギリと締め上げられて、ボクの息の根を止めようとしてくる。
「ボ、ボク、は……」
認めたくない。
認めたくない。
認めたくない。
だって、ずっと、拒絶してたんだ。
こんな感情になりたくないって。
お母さんと同じ轍を踏みたくないって。
お母さんのようにはなりたくないって、ずっと、ずっと、思っていたのに……。
「ボク、は……ナカムラくん、が」
「好き、だ」
美術室に、ボクの呟き声が木霊した。
それはとても小さなものだったけど、ボクの人生を揺るがす衝撃を持った言葉だった。
「………………」
彼のことが、好きだ。
好きなんだ。
いつも一緒にいて欲しいくらい、好きだ。
愛してる。
彼を、愛してる。
彼のことを考えるだけで、心があたたかくなる。
会えない時は、寂しくて苦しくなる。
彼に、ボクのことだけを観て欲しくなる。
他の女の子と、話して欲しくない。
ボクとだけ、話して欲しい。
ボクだけ。
ボクだけ。
ボクだけ。
「なんだそれ?」
ふざけるな。
牧平 林檎、お前は誓ったはずじゃないのか?
忘れたというのか?
お母さんは、不倫をした。性欲のために、ボクを捨てた。
許さない。
許さない。
一生かけても許さないと誓った。
今度会ったら、絶対に殺してやると思ってた。
あんな奴のようには絶対にならないと、そう固く固く、決心したんだ。
ボクは自分の恋や性欲のために、他人を傷つけるようなことはしないと……。
そう、心に。
その気持ちを軸にして、生きていたのに。
「………………」
なのに、なのに。
なのにボクは、恋をした。
ナカムラくんに恋をした。
好きになってしまった。
彼とキスをしたくなってしまった。
そしてあまつさえ、他の女の子と話して欲しくないなどと。
最悪だ。
最低だ。
クソッタレだ。
ああ、ちくしょう。
言葉にできない。
この胸くそ悪い気持ちを、言語化できない。
やっぱりボクは、絵描きなのか。
絵でしか心を表現できないのか。
ああ。
ああ、ああああああ。
身体中に、毒虫が這う。
ざわざわと皮膚の下を蠢いて、肉を食い荒らす。
ボクの心が蝕まれる。
犯される。
レイプされる。
切り刻まれる。
げえっ、ぎい。
があっ、かあ。
死ね、ボク。
挿絵
https://www.pixiv.net/artworks/141122564




