25.無邪気な笑み
……その日は、朝っぱらから災難だった。
「……うーん、なんか痛いなあ」
朝ご飯のパンを食べている最中に、俺は左腕に違和感を覚えていた。
手首から肘までの前腕部分で、鈍い痛みを感じていた。それはまるで、ぎゅーっと透明な手に握られて圧迫されているような、そんな痛みだった。
「大丈夫ですか?先輩」
隣にいる長谷川が、心配そうに俺のことを見つめていた。
「いや、なんか腕に違和感あるんだよなあ」
「ほんとですか?ど、どうします?病院行きます?」
「いやいや、そこまでじゃないよ。なんかまあ、あれだろ。筋肉痛かなんかだろ」
「だといいんですけど……」
「おっと、もうそろそろ出ないとな。さてと、ごちそうさま」
朝食を終えた俺たちは、朝の仕度を済ませた後、二人で家を出て、学校へと向かうためバスに乗車した。
通学、通勤ラッシュのために、いつもこの時間は混んでいる。今日も車内はぎゅうぎゅうで、席はひとつも空いていなかった。
俺と長谷川はおしくらまんじゅうの状況になりながら、つり革に掴まっていた。
「今日も一段と混んでますね」
「ほんとだよ。辟易するよな」
「明日から、時間ずらしますか?」
「ああそうだな、朝早くのバスなら空いてるだろうし、その方がいいかもな」
長谷川と他愛のない話をしながら、学校に早くつかないかなと待ちわびる。
「………………」
バスはわりと、信号やバス亭で止まる時に、運転手のブレーキの踏み方次第で、そこそこ大きく揺れることがある。
この時も、赤信号を止まるために、バスが一時停止した。それに伴って、ガタガタッと車内が揺れた。
当然、その動きにつられて中にいる俺たちも揺られるので、つり革を持つ左腕が振り子のように揺さぶられた。
「うっ!?」
その時だった。
腕が揺さぶられた瞬間、朝から違和感のあった前腕部分が、激しく痛みだした。
筋肉そのものを引き裂かれるような、そんな痛み。
それに耐えられなくて、俺はつり革から手を離して、その場にうずくまってしまった。
「せ、先輩?どうしたんですか?」
「い、いつつつ!腕が!なんか……めっちゃ痛い……!」
「だ、大丈夫ですか!?先輩!先輩!」
「い、いててて!やばい!マ、マジで痛い!!」
長谷川の声がすぐ近くで聞こえるのに、あまりにも痛すぎるせいで、どこか遠くに感じていた。
目を開けていることもできなくて、視界がぼんやりし始めた。
(ど、どうする!?左腕まで失ったら、俺、俺……もうどうしたらいいか……!)
胸の中に巣くう不安が、津波のように押し寄せてきた。
(もしこれで……左腕が使えないほどの重症になったら……!)
パニックに陥ったせいで、俺の呼吸がだんだんと浅くなってきた。「はー!はー!」と肩で息をし出して、下顎ががくがくと震えた。
「無理だ!これ!無理!長谷川ごめん!助けて!」
「す、すみませーん!降ります!もう降りまーす!」
長谷川がそうして思い切り叫ぶと、気を利かせてくれた運転手が、停車場でないところでもバスを止めてくれた。
長谷川は俺の肩を担いで、ゆっくりと人混みを分けながら進んで行った。
「すみません、通ります!すみません!」
なんとかバスを降りられた俺たちは、すぐ近くにあったコンビニの駐車場に腰を下ろし、壁に背中をもたれた。
ひんやりとしたアスファルトの固い感触が、尻の下から感じられた。
「すぐに病院へ行きましょう!救急車呼びますから!」
「う、うん、ごめん、頼む……!」
「あ、もしもし!あのすみません、腕に……えっと、激しい、いた、痛みがあって、大変なので、あの、来てもらえますか!?あ、えっと、今いるのは、中田三丁目の、ロースンの駐車場で……」
長谷川も長谷川でパニックになっているらしく、電話口で何回も噛んでいた。
俺はなんとか痛みを和らげようと、手を握ったり開いたりしてみた。
「あがっ!ぐうっ!」
握った瞬間に、ズキンッ!と痛みが強くなったので、直ぐ様手を開いた。
力を抜いて腕をだらんと下げると、少し痛みが楽になった。よし、なるべくこの体勢でいよう……。
「先輩!救急車は5分後に来てくれるそうです!」
「あ、ありがとう、長谷川……。はあ、はあ……!ぐうっ!」
「ゆ、ゆず、コンビニでなんか買ってきます!冷えてるやつを腕に当てたら、たぶん痛みが和らぐと思いますから!」
そうして、長谷川はコンビニの中へ入ろうとした。俺はその背中に「待って!」と声をかけて、彼女を止めた。
「待ってくれ長谷川!待ってくれ!」
「せ、先輩!どうしました!?」
「お、お願いだ、そばにいて……」
「え!?」
「お願い、頼む……!そばにいてよ、長谷川……!」
「………………」
彼女はひどく驚いた顔をしていたけど、最後には「分かりました」と言って、俺の隣に腰を下ろしてくれた。
「すー!ふー!すー!ふー!すー!ふー!」
長谷川が隣に居てくれたお陰か、俺の頭は少しずつ冷静になっていった。
(大丈夫だ、落ち着け!呼吸を整えろ!)
口先を尖らせて、息を大きく吸い、ゆっくり吐くことを意識する。
(腕は切れたわけじゃない!まだなんとかなるはず!大丈夫、大丈夫、大丈夫……!)
「すー……ふー……。すー……ふー……」
次第に呼吸が落ち着いてきて、パニックになっていた頭がクリアーになり始めた。
まだ心臓はドンドンドン!と激しく鼓動しているけど、その鼓動を客観的に見れるくらいには平常心を取り戻していた。
「……先輩、大丈夫ですか?」
「あ、ああ、なんとかね」
「よ、よかった……」
「ごめんよ長谷川、朝からいろいろ迷惑かけたな」
「いえ、そんなこと……」
ピーポーピーポーピーポー
遠くの方から、救急車のサイレンが聞こえてきた。
それに安心した俺は、目を瞑って、大きなため息をつくのだった。
……病院で検査してみると、痛みの原因は腕をつっていたからだった。
病院の先生は、俺の腕のレントゲン写真をモニターで見せてくれた。
「ご覧の通り、骨には全く異常ありません。数日安静にしておけば、痛みもひいていくでしょう」
「あ、ありがとうございます……」
とりあえず骨折ではないと分かって、俺は胸を撫で下ろした。
今腕には、湿布のようなものが貼られていて、それのお陰で痛みが緩和されていた。
「その貼り薬を2週間分出しておきますね。もし2週間経っても痛みが続くようであれば、また来てください」
「あ、あの先生、腕をつった原因って、どういうことが考えられるんですか?」
「そうですね~、やっぱりそこは脚と同じで、酷使し過ぎたり、筋肉の筋を違えたりするとそうなりますね」
「酷使……」
「中村さんの場合は、仕方ないと思います。右腕がない分、その負荷が左腕に蓄積されてしまう。本来2本で担っていたものを1本だけで賄うのは大変なことですから」
「………………」
「とにかく、あまり無理しないでくださいね。困ったことがあったら、遠慮せず周りを頼ってください」
「……はい」
診察を終えた俺は、先生に頭を下げた後、ロビーへと向かった。
「先輩」
ロビーのソファに座っていた長谷川が、俺を見るなり立ち上がって、こちらへと小走りで向かってきた。
「ど、どうでした?」
「大丈夫、つっただけだってさ。安静にしておけば治るって」
「ほ、ほんとですか?よかった……」
「いやー、ほんとびっくりしたよ。腕をつるなんて初めての経験だったら、めっちゃパニクっちゃった。ははは」
「ですね……。脚をつることはよく聞きますけど、腕もつることがあるんですね」
「ありがとな長谷川、ずっと付き添ってくれて」
「いえ、そんな」
俺も長谷川も、ようやく固い表情が柔らかくなって、緊張の糸がほぐれていた。
ピリリリ、ピリリリ
その時、俺のポケットにいれてたスマホが着信を受けた。
「お?誰だろう?」
スマホを取るために左手をポケットに入れようとするが、腕を動かすとやはりまだ痛みがあって、思わず「いててっ」と口から漏れてしまった。
「ゆず、代わりに取ります」
長谷川は気を利かして、ポケットからスマホを取り、俺の耳に当てて電話ができるようにしてくれた。
「はい、もしもし」
『あ、もしもし?中村くん?』
「ああ、倉崎さん。どうしたの?」
『いや、あの……まだ学校来てなかったから、どうしたのかなって』
「え?」
その時、俺はロビーの壁にかけられている時計へ目を向けた。
時刻は既に、午前10時を超えていた。
「ああ!しまった!えーとね、実はかくかくしかじかで……」
『ええ!?う、腕をつった?大丈夫なの?』
「うん、今はなんとか痛みは和らいでて。でも、安静にしとけって言われたから、今日学校は休むよ」
『うん、そうだね、その方がいいかもね』
「ごめん倉崎さん、今日はその……お弁当、作ってくれてたのに」
『ううん、気にしないで。おうちでゆっくり休んでね』
「うん、ありがとう。あ、あと、先生にもこのこと話してもらえると助かる」
『分かった、伝えておくね』
そうして、俺は倉崎さんとの電話を終えた。
「今のは、倉崎先輩からですか?」
「ああ、俺が学校に来ないから、心配になって電話してくれたみたい」
「あ……ほ、ほんとですね。もうゆずたち、大遅刻だ」
「俺は今日は、1日休むことにしたよ」
「分かりました。なら、ゆずも一緒に休みます」
「……いいのかい?」
「はい。先輩のこと、心配ですから」
「助かるよ。今親がいないから、一人になるの不安だったんだ。ありがとうな、長谷川」
「いえ、いいんです。こんな時のために、ゆずがいますから」
そうして、俺は薬局で貼り薬を買い、長谷川とともに家へと帰るのだった。
「……ふう」
自室のベッドに横たわり、天井を見上げながら、俺は小さなため息をついた。
「あーあ、朝から大変だった……」
「本当ですね。でも、骨折とかでなくてよかったです」
「そうだな、もうこれで左腕も使えなくなったらどうしようって、めちゃくちゃ焦っちまったよ」
「そうですよね……。ゆずもずっと、気が気じゃなかったです」
長谷川は床に膝をついて、俺のことをじっと見つめた。
「まだ……痛みますか?」
「うん、だいぶマシにはなったけど、動かすと痛いや」
「無理しないでくださいね」
「うん」
「もうそろそろお昼になりますけど、ご飯何食べたいですか?」
「うーんと、そうだなあ……」
「今日はゆずが食べさせてあげた方がいいですか?」
「あ……うーん、そ、そうだな。よかったらそうして貰えるとありがたい」
「分かりました。なら、シチューにしましょう。これならスプーンで食べれますし、ゆずも食べさせやすいですから」
「おーシチューか、美味しそう。ならごめん、作るのお願いしてもいいか?」
「はい、もちろんです」
「………………」
俺は、彼女へ向けていた視線を天井に戻した。そして、眉間にしわを寄せて、下唇を軽く噛んだ。
「先輩?どうしたんですか?」
「……俺さ、これからも、上手くやっていけるかな」
「………………」
「左腕がなくなったら、いよいよ俺、どうしようもなくなる。今日それが怖くて怖くて……。久しぶりに、辛かった」
「………………」
「中村久子さんのようになりたいと思って、頑張って生きようとしてるけど、その気持ちも簡単にへし折られてしまうような気がして、それが怖くて……」
「……大丈夫ですよ、先輩」
彼女は腰を上げて、天井を見上げていた俺の視界の中に入ってきた。
「先輩は、強くて優しい人です。それはゆずが、一番よく知っています」
「長谷川……」
「ゆずね、先輩と一緒に暮らしてて……先輩のお陰で、明るくなることができたんです。生きててもいいかなって、そう思えたんです」
「………………」
「それに先輩、言ってくれたじゃないですか。一緒に、幸せになろうって」
「………………」
「ゆずは、それを信じています。きっと先輩なら、どんなに転んでも、何度でも立ち上がれます。だから先輩、これからも……きっと、大丈夫です」
「……そっか」
「………………」
「……ありがとな、長谷川」
「いいえ、それはこっちの台詞です。いつもありがとうございます、先輩」
長谷川はそう言って、薄く微笑んでいた。俺もそれにつられて、口角を少しだけ上げた。
なんだか俺も、長谷川へ頼るのが上手くなってきたな。こうやって長谷川の前では、弱音を吐くことも抵抗がなくなってきた。
前まではめちゃくちゃ遠慮してしまって、お互いに緊張してたけど、最近はそれもなくなった。
長谷川がいてくれることが、俺にとってもだいぶ心の支えになっている。この数ヶ月一緒に暮らしてみて、日を重ねるごとにそれを実感する。
『理由がないと、ダメ……なの?』
『材料が余ってるとか、そういう理由がないと……中村くんにお弁当、作っちゃいけないの?』
「………………」
俺の脳裏には、倉崎さんの顔が浮かんでいた。
彼女には申し訳ないことしちゃったな……。やっぱり、あのお弁当は断るべきだったんじゃないだろうか。結果論だけど、お弁当も食べることができなかったし。
ピンポーン
その時、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「うん?誰だろう?」
「ゆず、ちょっと行ってきますね」
長谷川は小走りで部屋を出ていき、直ぐ様玄関へと向かった。
「~~~。~~~~」
「~~、~~~」
遠くの方で、長谷川が誰かと話している声がする。俺はそれをぼんやりと聞きながら、彼女のことを待っていた。
玄関に向かってから1分ほどして、長谷川は部屋に帰ってきた。
「おお、お帰り。誰だったんだ?宅配か何かか?」
「あ……えーと、それが……」
長谷川は口ごもりながら、俺のすぐそばへとやって来た。
……そしてそれに続いて、倉崎さんが部屋に入ってきた。
「え!?く、倉崎さん!?」
びっくりした俺は、上半身を飛び起きさせた。
彼女は頬を赤らめて、もじもじしながら、俺のことをじっと見つめていた。
「ほ、ほら、前に中村くん、今家にご両親がいないって言ってたから、お昼とか大丈夫かなって」
「………………」
「それに、左腕をつったら、生活も大変だろうから、私が……その、何か介護できたらなって思って」
「が、学校は?学校はどうしたの?」
「あ……え、えへへ、仮病使っちゃった」
「………………」
「私、仮病なんて使うの、初めてだった。意外とバレないものだね」
彼女はどこかいたずらっ子のような、無邪気な笑みを浮かべていた。




