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20.1000のバイオリン




……キーンコーンカーンコーン



とある日の掃除時間。俺は箒を手に持って、教室の中を掃いていた。


昔に比べて、左腕が太くなった気がする。毎日毎日、左腕ばかりを使うようになったから、筋肉量が増えたのかも知れない。


(前は箒を使うのですら大変だったのに、今は片腕で楽々できるもんな~)


たくましくなった腕を見て、ちょっとだけ嬉しくなった。筋肉がついていくのを喜べるのは、男の性なんだろう。


「やあ、ナカムラくん」


ふとその時、俺は横から声をかけられた。そちらの方へ目を向けてみると、そこには牧平さんが立っていた。


彼女は右手を腰に置いて、左手でごみの入ったちり取りを持っていた。


「ナカムラくん、箒の具合はどうだい?難しくないかい?」


「ああ、もう結構慣れたから、全然できるよ」


「ははは、そうか。ボクが気を遣うまでもなかったわけだね」


「ありがとう、気持ちだけでも嬉しいよ」


牧平さんは「ふふふ」と笑いながら、俺のすぐ隣に立った。


「そう言えば、日曜日は楽しかったみたいだね」


「ああ、倉崎さんたちと行った映画ね。うん!めっちゃ楽しかったよ!」


「そうかい、それならよかった」


「牧平さんも、せっかくなら来たらよかったのに。俺、牧平さんが来てくれたら、もっと楽しかったよ」


「ふふふ、お誘いしてくれるのはありがたいけど、生憎だが、ボクは恋愛映画は嫌いでね。遠慮させてもらったよ」


「ああ、そっか。確かに倉崎さんもそう言ってたかも……」


牧平さんの歯に衣着せぬ言葉に、俺は思わず苦笑した。


「ところで、ナカムラくん。どうだろう?例の美術部の件は、考えてくれただろうか?」


「ああ、前に誘ってくれてた話だよね?」


「そうだ。前向きに検討してくれると、嬉しいんだが」


「うん。そのー、もしよかったら、一度見学させてもらえないかな?」


「おお!?それじゃあ、前向きに考えてくれるってことだね!?」


「うん、俺なんかでよければ」


「君なんかじゃない!君がいいのさ!いやあ嬉しいね!朗報を聴けたよ!」


「ははは、そんな大袈裟な」


牧平さんがあんまりにも喜ぶ様を見て、俺はついついにやけてしまった。 自分が来ると言ったら、こんなに喜んでもらえる。そんなの嬉しくないはずがない。


「そしたら、今日は空いているだろうか?それとも後日がいいだろうか?」


「じゃあ、早速今日行ってもいいかな」


「そっかそっか!いや、嬉しいね!」


牧平さんはもうとび跳ねるんじゃないかというほどに、テンションが上がっていた。


「なら、美術室で待っているから!ぜひ来てくれ!」


そう言って、牧平さんはゴミ箱へと歩いていき、ちり取りの中のゴミを捨てていた。


(そうだ、楽しそうだと思うなら、躊躇わない。大事大事)


俺は改めて箒を掃きながら、自分の志をもう一度復唱していた。


そうだ、長谷川にはちょっと帰るの遅くなるって伝えなきゃ。なんだったら、長谷川だけ先に帰ってもらってもいいし。


前のじいさんの時みたいになるかも知れないけど……それを怖がってばかりじゃ、生きていけないからな。


「中村くん」


今度は、背後から声をかけられた。振り返ってみると、そこには倉崎さんが立っていた。


「やあ、倉崎さん」


「この前の日曜日は、ありがとうね。一緒に遊べて楽しかった」


「うん、こっちこそありがとう」


「ふふふ」


倉崎さんはいつものように、目を細めて、柔らかい微笑みを見せてくれた。


「………………」


でも、その微笑みは、何故だか少しだけ曇った。口角は上がったまま、眉がひそめられていた。


「あと……その、ごめんね」


「え?」


彼女の謝罪の意図が、俺には分からなかった。ぽかんとした顔で突っ立っていると、倉崎さんは苦笑しながらさらに言葉を繋げた。


「あの日、私、拗ねちゃってたから」


「拗ねてた?」


「うん」


「……そう、だったっけ?」


俺はその言葉を口にし終わったところで、彼女の言う『拗ねた』場面が、朧気に頭に浮かんできた。



『中村くんは、私のこと嫌い?』


『嫌なのかな?私からいろいろ言われるの』



(……もしかして、あれのことかな?)


だけど、俺は彼女へ「あの時のことかい?」とは聞けなかった。そこを深掘りするのは、なんとなく野暮な気がしたからだ。


「倉崎さんが気にしてるのがなんのことなのか、俺、全然わかんないや。だから、倉崎さんも気にしないでよ」


そして俺は、何も分からないバカのふりをして、彼女にそう言って気を遣った。


「いいの?中村くん」


「うん、もちろん」


「……そっか、ありがと」


「うん」


「やっぱり優しいね、中村くんは」


「ええ?そ、そうかな?」


「そうだよ」


「ねえ、中村くん」


「うん?」


「またいつか……誘ってもいい?」


「……!う、うん、もちろん!」


「ふふふ、よかった。私、嬉しい」


倉崎さんは満足そうに笑いながら、俺のことをじっと見つめていた。


その眼差しを真っ直ぐに受けると、なんだか胸がそわそわしてしまった。


「掃除、邪魔しちゃってごめん。それじゃまたね、中村くん」


「あ、う、うん」


そうして倉崎さんは、るんるんした様子で去っていった。


(……へ、へへへ、嬉しいなあ。もしかして俺、モテ期なんじゃないか?)


箒で地面のホコリを掃きながら、俺はだらしない笑顔を浮かべて、そんなことを考えていた。


方や、部活への勧誘。そして方や遊びの誘い。そのどっちからも喜ばれるとは、俺はなんて罪な男なんだ。


倉崎さんも牧平さんも、それぞれ方向性は違うけど、可愛くて綺麗な人たちだし、まさしく両手に花とはこのことじゃないか。 恋愛感情を抱かれているかはさておき、美人な人たちに必要とされるのは、どんな理由であれ気持ちよくて仕方ない。


(ふふふん♪なか~むら~♪モテ期ぞ~♪)


俺は目を閉じて、「竹や竿竹」のメロディーに合わせて脳内で歌を歌っていた。


へへ、こんなに明るい気持ちになれたのは、久しぶりだな。



ガンッ!!



その時、俺は壁に思い切り頭を打った。


「いっっっっ……たぁ!」


俺は頭を抑えて、その場にうずくまった。 目を閉じて箒を使っていたんだから、ぶつけるのは当たり前だ。


(ド、ドジなのはやっぱり、治ってねえなあ……)


何かいいことがあったりすると、俺はすぐ調子に乗ってしまう。そんな俺のことを、神様が咎めているのかも知れない。










……放課後の15時半。俺は長谷川とともに、美術室へと向かっていた。


「ごめんな長谷川、いきなり付き合わせてしまって」


「いえ、全然大丈夫です。前に誘われてたのは、ゆずも知ってますから」


人通りの少ない廊下に、俺と長谷川の会話が反響する。


「いやしかし、まさか俺が美術部に誘われるとは思わなかったな~」


「先輩って、中学の時は何か部活してたんですか?」


「いや、中学も帰宅部だったよ。陸上部に誘われたことあったけど、結局行かず仕舞いだったなあ」


「陸上部に、ですか?」


「そうそう。実は俺、そこそこ足速いんだよな。それで一回、入部しないかって誘われたんだけど、顧問の先生が苦手な人だったからさ、断っちゃったんだよな」


「へえ……先輩、何気に運動神経あるんですね」


「ははは、足だけはな。それで結局、どこの部活にも入らなかったよ。あ、でもその代わり、生徒会に入ってたけどな」


「それは、今と変わらないんですね」


「そうそう。したいことも特になかったし、とりあえず内申点上げられる生徒会に入っとくかっていう、そんな安直な考えだったよ」


「でも、ゆずもその気持ち分かります。ゆずも推薦入試の枠が欲しくて、生徒会に入りましたから」


「推薦を?」


「ああ、いや……。推薦だと、学費とかがちょっと安くなるので」


「おお、なるほどな。親孝行者だな~長谷川は」


「………………」


「そうだ、そろそろ生徒会の活動も復帰しようかな。だいぶ日常生活にも慣れてきたし」


俺と長谷川は生徒会に属していたのだが、今回の事故を受けて、「生活に慣れるまでは来なくてもいいよ」と会長から言われていたのだ。


「美術部に入るってなったら、生徒会の方も復帰するか。どうだ長谷川?」


「もちろん、ゆずは大丈夫です」


「よし、なら今度また、生徒会室に行こうか」


「はい」


そうこうしている内に、美術室がだんだんと見えてきた。廊下の突き当たりに、美術室の札が視界の中に入っていた。



……♪……♪♪



不思議なことに、美術室に近づくにつれて、微かに音楽が聞こえてきた。


結構激しめの、明るいロック調の曲だった。


「なんだこれ?どっから流れてるんだ?」


「美術室から……ですかね?」


「うーん、それっぽいな」


俺は恐る恐る、美術室の引き戸に手をかけて、カラカラと横にスライドして開けた。



……♪!……♪♪!!



扉を開けた途端、音楽が一気に鼓膜を震わせた。やっぱり、この美術室の中で曲をかけているようだった。


部屋の中央には、キャンパスを立てて絵を描いている牧平さんがいた。いつになく険しい顔をしていて、眉間にしわを寄せて筆を動かしていた。


彼女の服装は、実にラフだった。黒のタンクトップに、白いチノパンというスタイルだった。だがスレンダーでスタイルのいい彼女が着ていると、なんだかそれも妙に洒落ているように見えた。


そして彼女の隣の机にはCDプレイヤーが置いてあり、そこから爆音のロックが流れていた。


「……ん?おお、ナカムラくんにハセガワさんか。待ってたよ」


でもその険しい顔は、俺たちのことを見た瞬間に和らいだ。


口許をゆるめ、目を細めて笑っていた。 彼女は席を立って、「さ、どうぞどうぞ」と、こちらへ手招きをした。


俺と長谷川は「お邪魔します」と一言告げてから、美術室の中へと入っていった。



……♪!……♪♪!!



彼女へ近づくごとに、曲の音はどんどんと強くなっていった。


「めっちゃ大音量だね、牧平さん」


「ああ、“アガる”だろう?」


「これはなんて曲なの?」


「“1000のバイオリン”さ。ボクのお気にいりのパンクロックだよ。これを聴きながら“ミサイルほどのペン”を持つのが、最高に楽しい時間なんだ」


「1000のバイオリン……」


牧平さんはそのパンクロックを口ずさみながら、また筆を動かし始めた。


俺と長谷川は牧平さんが描いていた絵を観るために、彼女の背後へとまわった。


「……お、おお」


「すごーい……」


牧平さんの絵を目にした瞬間、俺と長谷川は感嘆の声を漏らしていた。


それは、人物の絵だった。


黒髪の、ゾッと背筋が凍るほどに美しい女の人が横向きで立っていて、両手で骸骨を持っていた。


そしてその女性は、なんとも言えない切なげな眼差しを浮かべながら、骸骨にキスをしていたのだ。


絵のタッチがあまりにもリアルで、手で触れるんじゃないかと錯覚するほどだった。絵全体から漂う異様な雰囲気と迫力があって、素人ながらにも「芸術的だ」と思わされる絵だった。


「さすが牧平さん、めちゃくちゃ上手いな……」


「ふふふ、ありがとうナカムラくん」


牧平さんはしばらくキャンパスとにらめっこした後、ある程度キリのいいところまで描けたら、筆を置いて、「ふー」とお腹に溜まっていた息を吐いていた。


「さて、ナカムラくんにハセガワさん。自由に座ってくれたまえよ」


牧平さんの言葉を受けて、俺と長谷川はそれぞれ近くにあった席に座った。牧平さんはすくっと立ち上がり、右手を腰に当てて、ニッと笑った。


「ナカムラくん、美術部の見学に来てくれてありがとう。部長として、心より歓迎するよ」


「あ、ああ、うん」


「まあ、歓迎すると言っても、部員は今、ボクしかいないんだけどね」


「え?牧平さん一人だけ?」


「ああ。前は四人ほどいたんだけど、ボクが美術部に入ってから、みんな辞めていったよ」


「そ、それはなんで……」


「ボクの才能に打ちのめされて、筆を折ったのさ。ボクばっかりが賞を受賞するもんだから、もう嫌だって言われてね」


「………………」


俺はなんと言えばいいか分からずに、隣にいる長谷川へ目を向けた。彼女の方も俺と同じ気持ちだったらしく、困惑した眼差しで俺の方を見ていた。


「ははは、困らせてしまってすまないね。なに、天才に孤独はつきものさ。仕方のないことなんだ」


「は、はあ……」


「さてさて、ナカムラくん。せっかく来てもらったんだ、まずは絵を描くことが楽しいと感じてもらいたい」


「絵を描くことが楽しい?」


「そうだ」


牧平さんはCDプレイヤーをいじくって、曲を変えていた。


そして、さっきとは別の……でも同じパンクロック調の曲を流し始めた。


「これは、なんて歌なの?」


「1000のバイオリンと同じバンドが創った、“TRAIN-TRAIN”という曲さ」


「TRAIN-TRAIN?」


「たぶん、これが一番イメージしやすいんじゃないかと思ってね」


「………………」



……♪!……♪♪!!



CDプレイヤーから、またもやパンクロックが流れ出す。


その曲をぼんやりと聴いていた俺の前に、牧平さんは1冊のスケッチブックと1本の鉛筆を置いた。


「ここに、曲の感想を描いてみてくれ」


「曲の感想?」


「そうだ、この“TRAIN-TRAIN”を聴きながら、どんな気持ちが沸き上がったか?どんなイメージが浮かんできたか?それを形にしてみてくれ」


「……な、なんか、難しい注文だ。できるかな?俺に」


「できるさ、君ならね」


「………………」


俺は戸惑いながらも、鉛筆を手に取った。



……♪!……♪♪!!



軽快で、明るくて、そして……妙な悲しみを孕んだパンクロックが、鼓膜と心臓を揺らす。


(……ああ、なんて、いい歌詞なんだ)


俺は思わず、鉛筆をぎゅっと握り締めてしまった。


今の俺に、ストレートに響く歌詞だった。厳しい現実を表現しながらも、生きることへの希望を見せてくれる……そんな歌詞。



……ガリ



スケッチブックに、鉛筆を突き立てる。そして、牧平さんに言われたとおり、この曲から感じたものを、とにかく描いてみる。



ガリガリ、ガリガリガリ



絵にしているのは、大草原を走る少年の絵。


走る人物を描くのは物凄く難しいので、なかなか苦戦してしまった。でも、この曲から産まれるイメージは……この絵が一番ぴったりだと思った。


今日、1日だけでいいから、幸せに生きたい。そう願った俺の心へ、カチッとパズルがハマるように……この曲はヒットしていた。


世界中のあらゆる記念日より、今を生きている今日こそが、何よりも素晴らしい日なんだと……この曲は、そう教えてくれる。



たん、たん、たん、たん



いつの間にか、右足がリズムを刻んでいた。貧乏揺すりのように、膝が一定の間隔で揺れていた。


「長谷川、ごめん」


「はい?」


「ちょっと、モデルになってくれないか?」


「え、ええ……。どうすればいいですか?」


「えーとね、目一杯走ってる時みたいな、そういうポーズ。分かるかな?」


「こうですか?」


「そう!ごめん、そのままちょっと……」


そうして俺は、夢中になって絵を描き続けた。



……♪!……♪♪!!



ああ、いい。この曲はいい。


素晴らしい。


本当の意味で、元気になれる曲だ。何かをやりたくなる曲だ。


気を抜くと、目頭が熱くなってしまう。底知れないパワーを持つ曲だ。



ガリガリガリガリガリ



俺はもう、夢中になって描き続けた。


自分が美術室にいることも忘れた。右手がないことも忘れた。


ただただ、今俺は……見えない自由を追い求めて、草原を駆け回る少年になっていたのだ。










「……ああ、やっぱり素晴らしいよ。ナカムラくん」


牧平さんにそう言われてから、俺はようやくハッと我に返った。


気がつくと、夜の19時をとっくに過ぎていた。窓の外はもう暗くなっていて、美術室の中もだんだんと見えなくなっていった。


「………………」


スケッチブックには、壮大な草原が誕生していた。


どこまでも広く、果てのない草原。その真ん中に、こちらに背中を向けた少年が力いっぱい走っている。


「ああ……なんか、自分で言うのもなんだけど、良い絵が描けた気がする」


「ふふふ、そうだね。ボクも本当に、素晴らしい絵だと思う」


「うん。ゆずもその絵、好きです」


「ははは、ありがとう。牧平さん、長谷川」


牧平さんは腰に手を当てて、「楽しかったかい?」と俺に問うた。


俺はなんの躊躇いもなく、「うん」と答えた。


「なんか、とにかくイメージが沸いてきた。ずーっとそれが止まらなくて、手がそれに追い付こうと必死だった」


「そう、それこそがまさに、絵を描く醍醐味なんだよ」


「醍醐味?」


「そうさ。自分の心に燻ってる、あらゆる感情……。それを形にする快感は、味わってみないと分からない」


「………………」


「今回、この音楽を聴いて貰ったのは、そのイメージを浮かびやすくするためだったのさ」


「なるほど、確かに描きやすかったかも」


「ボクも絵を描く時は、常に音楽を傍らに置いている。そうすることで、より自分の描きたいものが鮮明になるんだ」


「おお……!なるほどな、面白い!」


「ふふふ、楽しんで貰えて何よりだよ。さて、もうこんな時間だね。そ ろそろ今日は終わりにしよう」


「うん。ありがとう牧平さん、今日は楽しかったよ」


「ああ、よかった。そう言ってもらえると、ボクも嬉しいよ」


そう言って、彼女は優しく笑っていた。


「………………」


スケッチブックを片付ける最中に、また牧平さんの絵を観てみた。


いや、やっぱり凄いなこの人。今日ちゃんと絵を描いたからこそ、牧平さんの凄さがより実感できる。


「うーん、凄いや牧平さん。こんなにリアルに描けるなんて。俺も今日のは自信作だけど、牧平さんから観たらまだまだ全然なんだろうなあ」


「ははは、そんなの気にしなくていいよ。技術というのは、魂を表現するためのツールに過ぎない。写実的に描ける腕があっても、魂が無ければいい絵にはならない。魂があってこそ、絵は絵足り得るのさ」


「むーん、すげえや……。なんかプロみたいな言葉」


「ははは、大袈裟だよ」


「牧平さんって、いつ頃から絵を描いてるの?」


「うーんと、5歳くらいから……かな?」


「へー!そんな前から!何がきっかけだったの?」


「きっかけ?」


「そうそう。何かに影響されたとか、そういう感じ?」


「………………」


牧平さんは腕を組んで、少し悲しそうな目をしながら微笑んだ。


「ふふふ、そうだね。ボクのきっかけ……か」


「……?」


「実はボクの母親がね、イラストレーターだったんだよ」


「え?」


「小説の挿し絵とか、絵本に絵をつけたりとか、そういう仕事はよくしてた。だからその母親の背中を観て育っているというのは、ひとつ大きな要因だね」


「へ~!すげー!めっちゃ羨ましい!親がイラストレーターなんて!」


「……でもそれは、要因のひとつに過ぎないんだ」


「え?」


牧平さんは顔をしかめて、絞り出すようにぽつりぽつりと話し始めた。


「ボクはね、中学生の頃、不登校だったんだよ」


「不登校?」


「ああ、当時ボクは、クラスメイトからいじめられててね。なかなか散々な目に遭ったよ。トイレに顔を突っ込まれたり、机の中に生ゴミをぶちこまれたりね」


「………………」


「昔のボクは、口下手で陰キャな人間で、いつも小動物みたいにビクビクしてた。それがいじわるな人間からしたら、格好の獲物だったわけさ。先生に相談しても、誰も相手にしてくれなくて、毎日毎日、泣くのを我慢して学校へ通ってたよ」


「………………」


「でも、そんなボクのことを支えてくれてたのは、他でもない両親だった。特に母親は親身になって話を聴いてくれて、『自由に生きていいのよ』『無理して学校行かなくていいよ』って言ってもらえてた」


「………………」


「それからボクは不登校になった。幸せだったよ。家でずっと母親と一緒に、絵を描き続けた。毎日毎日、好きなことを好きなだけしていて、本当に楽しかった」


牧平さんは、キャンパスにある自分の絵に手を触れた。そして、すっと目を閉じて、眉間にしわを寄せた。


俺と長谷川は、黙って牧平さんの話を聴いていた。


「でも、その母親は、ある日突然いなくなった」


「え?」


「朝起きて、いつものように食卓へ行って、母に挨拶しようとした。でも、どこにも母の姿はなかった。眠っていた父を起こして、二人で母のことを探した」


「………………」


「『おかしいな、でかけたのかな?』って、そんな風に首を傾げながら家中を探した。そして、リビングにあるテーブルの上に、書置きが残されているのを発見した」


「書置き?」


「そう。そこには母の字で、こう書いてあった」



『もう、母親でいることに疲れました。私は自由に、女として生きます』



「………………」


「後から聞いた話なんだけど、母はね、実は不倫をしてたんだ。それで、その相手と一緒になるために、ボクと父を捨てたんだ」


「………………」


「あの時ほど、誰かを憎んだことはなかった。自分が死ぬか、母親を殺すかの二択でずっと悩んでいた。毎日のように枕が濡れていて、渇く暇もなかった」


牧平さんから溢れる激しい言葉の数々に、俺と長谷川は互いに顔を見合わせた。


「言葉にできないんだよ、本当にこの気持ちは。母のことは殺したいほど憎んでいる。でも、それと同時に……泣きたくなるほど愛してもいるんだ」


「愛してもいる……?」


「母の絵はね、やっぱりすごいんだよ。今観ても美しいって思う。作家としては、本当に尊敬しているんだ。憎くて憎くて、母の残した絵を何度も破ろうとしたけど、結局、一枚も破れなかった」


「………………」


「だからね、ナカムラくん。ボクはこの気持ちを、絵にするしかないんだ。そうでないと……」


「ボクは、自分を殺してしまう」と、彼女は俺のことを真っ直ぐに見つめながら、そう告げた。


……なんという境遇だろうか。


いじめで心が追い詰められて、その支えになってくれていると思ってた人に、裏切られる。 自分の想像を遥かに超えた痛みに、俺は思わず息が苦しくなった。


「……あの、牧平先輩」


その時、長谷川が牧平さんへと声をかけた。


「牧平先輩の描いてる……骸骨にキスしてたその絵も、その悲しみを描いているんですか?」


「ああ、そうだよ。あれはボクの……恋愛への決別を描いた絵さ」


「恋愛への決別?」


「ああ。まだまだ表現仕切れてないけどね」


牧平さんはそう言って、キャンパスの前まで歩いていった。そして、自分がボツにした絵をじっと見つめていた。


「ボクの母は、不倫をした。不倫のせいで、ボクは一生治らない傷を負った。だから、恋愛に対して非常に嫌悪感があるんだよ」


「………………」


「女であることを優先して、母親はボクを捨てた。だからボクは、女であることを捨ててやるんだ。母親のようにはなりたくない!って、そう思っているから」


「………………」


「だから、ボクはこの人生では、一度たりとも恋はしない。もし万が一、恋なんてしたら……」




──ボクは、自殺する。




「……え?」


「このくらい覚悟しなきゃダメなんだ。恋をするということは、今までのボクを否定すること。そうなったら、もう生きてる意味なんてないからね」


「………………」


牧平さんの青い火を吐くような言葉の数々に、俺と長谷川はごくりと息を飲んだ。


……ああ、そうか。


だから彼女は、自分を「ボク」と呼んでいるんだ。


珍しい一人称だなと思っていたけど、あれは自分から女の子であることを否定していたんだ。 立ち振舞いや言葉遣いが中性的なのも、それが理由だったんだ。


そして、恋愛映画が嫌いだったのも、この経験が影響しているんだ。だから日曜日の映画は……断ったんだ。


「…………ふふふ」


牧平さんは苦しそうに微笑むと、俺と長谷川の方へ目をやった。


「すまないね、二人とも。話が長くなってしまった」


「い、いや、そんな……」


「やっぱりボクは、言葉にするのは苦手だな。絵にする方がずっといいよ。言葉にし難い苦しみも、全部筆が語ってくれるから」


「………………」


言葉にし難い苦しみ……。それを聴いて、俺も自分の境遇を思い返していた。



『他人に迷惑をかけ続ける俺が、生きてていいのか? 』


『歪んだ人生しか歩めない俺が、生きてていいのか?』


『……腕のない人間が、生きてていいのか?』



今でこそ、俺も前向きに生きようと志したけど、それでも将来に対する不安や、腕のない苦しみが消えたわけじゃない。


牧平さんは、苦しみを描くことで生きようとしている。俺もひょっとしたら、牧平さんのように生きれば……苦しみを抱えながらも、生きられるかも知れない。


……美術部、か。


「………………」


俺がじっと、口を閉ざして考え込んでいた時、牧平さんは「あっ、そうだ」と前置きしてから、俺と長谷川にこう言った。


「もちろんボクは、他人の恋愛には何も口を出す気はないからね?」


「うん?」


「ナカムラくんとハセガワさんの感情を否定する気は全然ないってことだよ。ボクの中には、絶対に恋愛感情を産まないようにしようってだけでね」


「……?えっと、どういう意味?」


「いや、つまりさ、その~」


牧平さんは苦笑しつつ、俺たちへ言った。


「君たちの仲を、ボクはどうこう言うつもりはないってことさ」


「「……え?」」


ここまで言われて、ようやく俺と長谷川は、牧平さんが何を言いたいのか理解できた。


俺も長谷川も顔を赤らめて、必死に否定の言葉を述べた。


「い、いやいや牧平さん!俺と長谷川は、別にそういう仲じゃ……!」


「そ、そうです!ゆ、ゆずは先輩の……えっと、あくまで後輩であって、そういう関係では……!」


そんな慌てふためく俺たちのことを見て、牧平さんは大きな声で「ははは!」と笑っていた。




……これが、初めて美術室を訪れた日の出来事。


俺が牧平さんから殺害予告をされる、1ヶ月前のことだった。








後書き

牧平 林檎 イメージイラスト

https://www.pixiv.net/artworks/129995965


1000のバイオリン

https://youtu.be/egNok6oeMA0?si=WB-NcnfVyNJF0Ul1


TRAIN-TRAIN

https://youtu.be/BSkLe-EOq5U?si=GNiQPGqpljkayZ8c

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