16.不恰好でも生きようと
前書き
すみません、前話(15話)のオチを加筆していますので、そちらをご覧になってからが読みやすいかも知れません。
礼仁郎の境遇と立場を考えて、心理描写を変更しました。
……人生というのは、何がきっかけで大きく変わるか、分からない。
俺の場合は、突然の事故だった。間違いなく、俺の人生は大きく変わってしまった。
今は周りの人に支えられてなんとか生きているが、それでも……将来の不安はずっと拭えない。
芥川龍之介は、漠然とした将来の不安が原因で自殺したというけれど、今はその気持ちがよく分かる。
自分が、これから幸せになれるイメージが沸かない。
もちろん、毎日がずっと辛いわけじゃない。時には長谷川と笑えたり、親と冗談を言えたりする日だってある。クラスメイトたちと遊んだり、楽しかったと思えたりする日もある。
それでも、苦しいことに変わりはなかった。
もともと俺に夢なんてなかったし、ただただ漫然と生きていただけだったから……そんな半端な人生を歩んでた俺に、こんなハンデができてしまったら、いよいよ輝かしい未来なんて想像できない。
いつか途中で力尽きて、絶望に耐え切れなくて、この世からいなくなってしまいそうだと……そう思っていた。
……だけど、俺はこの春休みの間に……またひとつ、人生を変える出来事があった。
それは、事故のような大事じゃない。決してドラマチックな展開のものじゃない。
だけど、間違いなく俺という人間の人生に……影響を与えた出来事だった。
その出来事は、3月31日の月曜日……市立図書館の中で起きたのだった。
「……うーん、なんかこれも違うなあ」
一冊の本を流し読みしながら、俺は唇を尖らせていた。
この日は、長谷川とともに図書館へと来ていた。春休み中に出された宿題に読書感想文があって、何か本を読んでおく必要があったからだ。
館内は利用客が多いにも関わらず、しーんと静かだった。この図書館の静粛な空気は、個人的に結構好きだった。
「なあ長谷川、お前はなに借りる予定だ?」
二人で本棚を眺めながら、俺は隣にいる彼女へ耳打ちした。すると長谷川も、小さな声でぼそぼそと返事してきた。
「ゆず、まだ決められてなくて……。先輩の方はどうですか?」
「いや、実は俺も迷っててさ。何がいいかなあ……」
俺たちが見ている棚は、小説系の棚だった。そこにはずらりと、有名な小説たちが陳列されている。
夏目漱石の「それから」、芥川龍之介の「地獄変」、太宰治の「人間失格」、夢野久作の「ドグラマグラ」、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」……。
ただ、そのどれもを読む勇気がなかった。日頃からそこまで本を読む習慣のない俺たち二人にとって、小説は少しハードルが高かった。
かと言って、このまま何も借りなかったら意味がない。俺と長谷川は顔をしかめながら、棚にある小説を手に取っては戻し、手に取っては戻しを繰り返していた。
中身を見る時は、長谷川にお願いして本を開いてもらっていた。さすがに片手では、本を出すところまではできても、立ち読みすることはできなかったからだ。
(……はあ、宿題なあ……)
俺は正直、宿題をするモチベーションがかなり下がっていた。それは、単に面倒くさいからというわけではない。
俺という人間の人生すら上手く定まっていないのに、なんで宿題なんかしているんだろう……?という、そんな虚無感だった。
宿題というのは、すなわち三年生へ進級するための準備だ。自分の将来のために努力することだ。
その将来のために努力すること自体が、俺になんの意味があるというのだろうか。
こうして本を立ち読みすることすら、俺は満足にできない。自分のできないことが何回も何回も目の当たりにさせられて、心底辟易していた。
「……はあ」
その虚無感が胸の中に溜まってしまったので、それを吐き出すために俺はため息をついた。
「先輩、疲れてしまいましたか?少しお休みしますか?」
「あ、いや……。うん、そうだな、少し休んでもいいかい?」
「はい」
俺は身体的な疲労は感じていなかったけど、その虚無感が湧いたせいで本を探す気力が薄れてしまった。一旦休んだ方がいいと判断して、彼女にそう答えたのだった。
近くにあったテーブル席について、俺は椅子の背もたれにぐっと背中をあずけた。
「なんか、めぼしいのがないなあ……」
「そうですね……」
「あれだったら、スマホとかで検索してみようかな。読みやすい本は何かないかって」
「確かに、それがいいかも知れませんね」
そうして俺と長谷川は、しばらくの間、そのテーブル席について休んでいた。
「……ごめんな、長谷川」
「え?」
「いや、俺の宿題なのに、図書館まで付き合ってもらっちまって」
「いえ、大丈夫です。実際に来て思いましたけど、片腕しかないと……本を読むのも大変だと思いましたので。むしろ、こんな時のために、ゆずがいなくてどうするんだって……そんな風に思います」
「………………」
俺は、長谷川から耳舐めをしてもらった日以来、彼女に対しての罪悪感が増していた。
自分の欲望のために、彼女を利用してしまった。それがあまりにも恥ずかしかったし、先輩として情けないと思っていた。
(俺の身体は、俺の気持ちなんて無視して、ずっと生きようとしやがるんだよなあ……)
腕がなくなる前と変わらずに、腹は減るし、性欲も湧く。それが堪らなく嫌だった。
これがなければ、誰にも迷惑をかけずにいられるのに……。
「………………」
「……先輩?」
「うん?」
横を見てみると、長谷川が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「どうかしましたか?何か……困ったことがありましたか?」
「ん……いや、何でもないよ」
「………………」
「いつもごめんな、心配かけて」
「先輩……」
「………………」
俺はこの先、どうしたらいいのだろうか。
まるで、真っ暗なトンネルの中を歩かされていて、出口がどこにも見えないような……そんな絶望感。それが俺の胸に巣くっている。
他人に迷惑をかけ続ける俺が、生きてていいのか?
歪んだ人生しか歩めない俺が、生きてていいのか?
……腕のない人間が、生きてていいのか?
「………………」
テーブル席から見える本棚のコーナーは、「歴史・偉人」をまとめた棚だった。
遥か遠くの人たちであれば、アリストテレスやガリレオ、シェイクスピアなど。近代の人であれば、アインシュタインやナイチンゲール、そしてヘレン・ケラーなど。そんな様々な偉人たちの人生が書かれた書籍たちが並んでいた。
「……ん?」
その偉人たちの中に、ふと「中村 久子」という名前を見つけた。日本人の名前だから目立っていたのもあるが、自分と同じ「中村性」だったことも、目を引いた要因だった。
俺は席を立って、なんときなしに、その中村 久子についての本を手に取ってみた。
その瞬間、俺は雷に打たれたかのような衝撃が走った。
目を奪われたのは、本の表紙に書かれていたキャッチコピーだった。
『日本のヘレン・ケラー 中村久子』
『両手両足のない偉人伝説』
「………………」
両手両足がない……。その凄まじい単語が、俺の心を一発で撃ち抜いた。
「どうしたんですか?先輩」
気がつくと、長谷川が隣に立っていた。
「い、いや、ちょっと……気になる本があってさ」
長谷川にその本の表紙を見せると、彼女も眼を大きく見開いて、「これは……」と小さく呟いていた。
「……俺、さ。この本、借りてみようかな」
「………………」
「ちょっと家で、じっくり読んでみたい」
「……ですね。ゆずもこれ、気になります」
そうして俺たちは、この一冊の本を脇に抱えて、図書館を後にするのだった。
……家へと帰りついた俺たちは、俺の部屋に行き、二人で床に座って、図書館で借りた本を机の上に置いた。
長谷川に代わりに本を持ってもらい、ページを捲ってもらった。その時に、長谷川も一緒になって読むことにした。
中村 久子は、1897年~1968年までの激動の時代を生きた人物だった。
病気のため、3歳にして両手両足を切り落としてしまう。生活のすべてが口を頼るしかなく、口で筆を持って書き、口に針を咥えて縫った。
7歳の時に父親を病で亡くしたことにより、母親は別の男性と結婚する。だが、その新しい久子の父親は、久子に虐待を行っていた。
「こんな気味の悪い娘は外に出すな」と言われて、久子はずっと家にいることを余儀なくされた。
「………………」
まだ全然冒頭なのに、俺はすっかり、度肝を抜かれていた。
あまりにも、凄まじすぎる。こんな人生が本当に存在したというのか。
手のうちにかいた汗を、ぎゅっと握り込む。
自分の境遇すらぬるま湯だと思わされるほどに、中村 久子の人生は強烈だった。
「………………」
次のページへと早く移りたかったのだが、長谷川がまだ読んでいなかったらしく、ページを捲る手はまだ動かなかった。
彼女もごくりと息を飲んで、その内容に没頭していた。
ぺらっ
ページが捲られた時、俺は彼女に「ありがとう」と告げた。
それを聞いた長谷川は、「あ、すみません」と言って謝ってきた。
「ゆず、読むの遅かったですか?」
「ああ、いいよいいよ。大丈夫。一緒にゆっくり読もうぜ」
「……はい」
そうして俺たちは、また本へと眼を移し、一言一句をじっと読み込むのだった。
20歳になると、久子は「だるま娘」として見世物小屋の舞台に出ることになり、客の前で芸を披露するようになった。
芸というのは、口で筆を咥えて、文字を書いたりすることだった。
今の時代では考えられない厳しい環境の中を、久子は強い心で耐えていた。
だがこの見世物小屋で、久子はとある男性と出会い、結婚することができた。
しかもなんと、この時二人の間に、子どももできたらしい。
久子は子どもに両手両足があるのを見て、思わず泣いたんだそうだ。
これで久子にも幸せな日常が来る……と、そう思われていた矢先、旦那が急逝してしまう。
四肢のない久子は、愛する旦那を亡くし、幼い子どもを一人で育てなければならなくなった。
もう、これ以上ない逆境だ。神様が意地悪をしているとしか思えない人生だ。
旦那に死なれてしまう、子どもを一人で育てる、四肢がない……。そのどれかひとつでも重すぎるというのに、それが同時に襲いかかってくるのは、あまりにも酷だ。
それでも久子は、懸命に懸命に、毎日を生きた。四肢のない身体で、めげずに生きた。
途中で何度も心が折れかかったけれど、それでも必死に、岩にしがみつくように生きていた。強靭な精神力が彼女を生かしていた。
「………………」
そんな境遇を生きた中村 久子は、次第に日本中で有名になっていき、来日したヘレン・ケラーと顔を合わせることになった。
ヘレン・ケラーもまた、眼も耳も聞こえない中を生きた、驚異の偉人だ。そんな二人が出会った瞬間があった。
久子が口で作った日本人形をヘレン・ケラーへ贈ると、とてつもなく驚愕された。そりゃそうだ、口だけで人形を一体作るって、とんでもなさすぎる。凄まじい熱量がなかったら、こんなことはできない。
ヘレン・ケラーは久子に向かって、こう言ったと記されてた。
「私よりも不幸な人。そして、私よりも偉大な人」
「………………」
そして、本の最後には、中村 久子が残した言葉が書かれていた。
「人生に絶望なし。いかなる人生にも、絶望はない」
「私を育ててくれたのは、この両手両足のない身体だった」
「………………」
本の上に、ぽたりと雫が落ちた。
俺の涙だった。
唇を噛み締めて、目を何度も瞑った。ぽたぽたと本に涙が落ちてしまって、止まらなかった。
「先輩……」
隣にいた長谷川が、小さな声で俺の名を呼んだ。
俺は胸が熱くて熱くて、仕方なかった。何か言葉にしようと思うけれど、どんな言葉も野暮な気がしてならなかった。
ただただ、うち震えるほどの感動が、津波のように押し寄せていた。全身に鳥肌が立って、止めようがなかった。
「長谷、川……」
俺は溢れる涙を拭うことなく、彼女の方へ眼を向けた。
そして、たった一言、一秒にも満たないたった一言を……長谷川へと告げた。
「俺……がんばるよ」
「………………」
それを聞いた長谷川も、ぶわっと涙を流して、俺をぎゅっと抱き締めた。
「先輩……」
「………………」
「先輩、ゆずも、ゆずも、一緒にがんばります……」
「………………」
「一緒に、一緒に……」
「………………」
俺もその時、彼女のことを抱き締めた。左腕しかないけれど、それでも長谷川を抱き締めたかった。
これが、俺の忘れられない……一冊の本を読んだ時の出来事だった。
……4月7日、月曜日。春休みが明けて、新学期が始まった。
窓の外を見ると、桜吹雪が舞っていた。青い空の中に点々と花びらが浮かんでいて、言葉にしがたい切なさがあった。
「いよいよ、お前たちも三年生だ」
教卓の前に立つ先生が、俺たち生徒全員の顔を見つめながらそう言った。
「今年はとうとう、受験の年だ。今一度、自分の人生を……どう生きたいか?を考えてくれ。今年がお前たちの人生にとって、大きな節目になるのだから」
先生から送られる新三年生への言葉は、いつになく真剣だった。
三年二組。これが今年の、俺が過ごすクラスだった。俺はこの教室の、窓際にある列の一番前の席に座っていた。
「それじゃあ、最初にみんな自己紹介をしよう。今年やりたいこと、そして進路についても話すように。それではまず、浅井からだ」
「はい」
そうして廊下側の列の席から順に先生から呼ばれて、俺たちは教卓の前に立ち、自己紹介をしていった。
「浅井 孝徳です。陸上部です。今年が最後の年なので、全国大会に行けるよう頑張ります。えー、進路についてはまだあんまり決めてないですが、陸上部の強い大学に行きたいって思ってます」
「こんにちは、清水 遥です。えーと、好きなものはK-POPとダンスです。今年は文化祭にダンスで出場したいです。それから、進路は進学じゃなくて就職する予定です。今年一年、よろしくお願いしまーす」
「ちーっす!丸岡 公平でーすっ!俺、今年は勉強ガチって、東大行って伝説作るんで、刮目してくれってハナシ!」
一人ひとり、個性的な自己紹介が進行されていった。
こうしてみると、本当にいろんな人がいるんだな。それぞれに好きなものがあって、それぞれのやりたいことがある。そんな彼らを観ていると、なんだか羨ましくなってくる。
「こんにちは、倉崎 桃香です」
倉崎さんも去年と同じく、一緒のクラスになった。彼女は綺麗に背筋を伸ばして、口許に薄く笑みを浮かべていた。
「今年は、来年の受験に向けて勉強を頑張りたいです。そして……」
倉崎さんは、一瞬だけ俺の方へと眼を向けた。そして、はっきりとした口調でこう言った。
「進路については……看護学校を目指したいと思います。福祉関係の仕事につきたいです」
「………………」
「今年一年、よろしくお願いいたします」
倉崎さんはそう言って、ぺこりと頭を下げた。
彼女と入れ替わりで次の自己紹介を行ったのは、あの美術部の部長である牧平さんだった。
(あ、あの人も……今年は同じクラスなのか)
そんな風に思いながら、彼女が教卓の方まで歩いていくのを眺めていた。
「………………」
牧平さんの方も俺の視線に気がついたらしく、こっちへと顔を向けた。
そして、ニッと笑って、俺へ手を振った。
「さて……と」
牧平さんは教卓の前に立って、教室を一回り見渡すと、実にあっさりとした自己紹介をした。
「ボクの名前は、牧平 林檎。今年やりたいことは、絵を描くこと。そして、今後やりたいことも、絵を描くこと。以上です。よろしく」
それだけを一息に言い終えると、彼女はまた自分の席に戻ろうとした。
さすがにそれだと短すぎだと思った先生は、牧平さんに「ちょっと待ってくれ」と言って呼び止めた。
「もう少し具体的に頼む。希望の進路についても、話してくれ」
「希望の進路?そんなものないです」
「なに?」
「ボクがやりたいことは、絵を描くこと。それ以上でもそれ以下でもありません。一応芸大に入る予定ですが、それさえもどうでもいい。ボクには絵が描ければどこでもいい。だから、希望の進路なんていう曖昧なものを話す必要はないと、そう思った次第です」
「む、むーん……そうか、わかった」
先生は苦笑しながら、牧平さんの言葉を受け取った。
牧平さん、なかなか癖の強い人だな。この前会った時もそう思ったけど、芸術肌らしく、かなり拘りの強そうなタイプだ。
「………………」
それから何人かの自己紹介が終わっていき、とうとう俺の番となった。
「次は、中村だな」
「はい」
先生から呼ばれて、俺は席を立った。教卓の前まで歩いていき、クラスメイト全員の前に立った。
「あれって、もしかして噂の……」
「ああ、事故って腕なくなった奴だな」
「やば……ウチ、初めて見たんだけど」
「私も。なんか、見るだけで痛々しいね……」
今まで同じクラスになったことのない人たちは、そうやってひそひそと声を潜め、俺について話していた。
「ちょっとみんな、静かにしよう?中村くんが喋れないよ」
そんなざわつくクラスメイトたちを、倉崎さんがたしなめた。それによって、みんなは喋るのを止めて、教室の中はしーんと静まり返った。
「……俺は、中村 礼仁郎っていいます」
クラスメイトみんなの顔を見つめながら、俺はぽつりぽつりと、自己紹介を始めた。
「恥ずかしい話なんですけど、俺にはまだ……みんなみたいに、やりたいことって決まってなくて」
「………………」
「もともと大して、何か志があったわけでもないし、腕も……こんな風になっちゃったし、なんていうか、こう……」
「………………」
「……生き続ける勇気が、なかったんです」
「………………」
クラスメイトたちの反応は、様々だった。
悲しそうに眉をしかめる者もいれば、そんな気持ちだったのかと驚く者、苦々しい顔でそっぽを向く者と、いろいろあった。
倉崎さんは、じっと真剣な眼差しで、俺の話をうんうんと頷きながら聴いていた。
そして牧平さんの方は、手を口に当てて、俺の話を前のめりになって聴いていた。
「こういうハンデを背負って生きる勇気が、自信が、俺にはなかった。将来には不安しかなくて、絶望的で、どうしようもないと思ってた」
───人生に絶望なし。
「………………」
いかなる人生にも、絶望はない。
「………………」
俺の目から、透明な涙が流れていた。冷たくもなく、かと言って熱くもない。あたたかな涙だった。
……俺、幸せになりたい。
たくさん友達を作りたい。たくさんいろんな人と繋がりを持ちたい。
たくさんいろんな場所に旅行したい。たくさん美味しいものを食べたい。
……そして、素晴らしい恋をしてみたい。
中村 久子さんだって、結婚して子どもまで産んでたんだ。俺だって……そういう幸せを求めても、いいかも知れない。
諦めなくて、いいかも知れない。
『先輩、ゆずも、ゆずも、一緒にがんばります……』
『一緒に、一緒に……』
その時、俺の脳裏には、なぜか長谷川の顔が浮かんでいた。
「将来のことを話せるほど、俺はまだ覚悟ができていないです。だけど……」
「今日、今日1日だけでも、がんばって生きようと思います」
「今年やりたいことも、進路先も、まだ何も決まっていません。でも、それでも今日をなんとか生きていたい。そして、その今日生きたいを積み重ねていければ……もしかしたら、俺も幸せになれる時が来るのかなと、そう思います」
俺は一度息を吐いて、涙を左手で拭った。そして、みんなに向かって頭を下げて、「長くて重い話をしてすみません。今年一年、よろしくお願いいたします」と、そう告げた。
パチパチパチパチパチパチ!
その時、激しい音が教室に鳴り響いた。
顔を上げてみると、クラスメイトたちがみんな、俺に対して拍手をしてくれていた。
「………………」
俺はお礼の意味を込めて、もう一度みんなに、頭を下げた。
これが、俺の三年生の始まりの日。
不恰好ながらも生きようと思った、最初の日だった。




