73:可畏(かい)の正体
可畏の抱える過酷な事情を明かされたせいで、昨夜はよく眠れなかった。
葛葉はのろのろと身支度を整えて、枕元に置いてあった小芥子を手に取った。筆で細く描かれた目を見つめるが、小芥子は微動だにしない。
(御門様を助けるために、わたしはどうしたら良いのでしょうか)
縋るような気持ちで声に出さず語りかけるが、返事はない。昨夜から何度も同じことを繰り返している。
けれど、可畏の母親が現れることはなかった。玉藻も「可畏と顔を合わせて皮肉を聞くのは御免じゃ」と、さっさと御所へ戻ってしまった。葛葉に可畏の抱える事情を一通り暴露したあとも、飄々とした振る舞いは変わらない。あっさりとしたものである。
むしろ狼狽する葛葉を可笑しそうに眺めていた。
(このままでは御門様を失ってしまうなんて……)
玉藻から聞いた衝撃的な事実が胸を苛んでいる。
深刻なのは可畏に与えられた使命だけではない。そもそも彼の生い立ちが酷いのだ。
葛葉は小芥子を抱えて寝床となっている客間を出ると、雨戸が開け放されて朝焼けの見える縁側で立ち止まった。
朝焼けの幻想的な空の色に触れても心が動かない。大きくため息をついて縁側に腰掛ける。
玉藻が語ったことから、意識を逸らすことができない。ぐるぐると昨日の会話が脳裏を巡る。
「それが奴の使命じゃ」と明かされた後、即座に玉藻へ問い返した葛葉の声は裏返っていた。
「み、御門様は、そのことをご存じなのですか?」
羅刹封印のために自身が犠牲となること。そんな使命を知りながら、封印を叶える花嫁をそばに置くのはどんな気持ちだっただろう。
「可畏は全て心得ておる。そもそも、奴はそのために生かされておるのだからな」
さらに不穏さが増す。葛葉は息苦しさを感じながら、食い入るように玉藻を見つめた。
「どういうことでしょうか?」
「その使命をなくして、奴がここに留まることはできぬ」
不安をあおる言葉だけが重ねられる。葛葉がわからないと横に首をふると、束の間の沈黙のあとに玉藻が呟いた。
「妾がこれ以上を語るのは、可畏にとっては度を過ぎた暴露であるかもしれぬ」
葛葉はぐっと言葉に詰まった。誰にでも知られたくないことはある。可畏が打ち明けることを望まない事情なら、触れることにはためらいがよぎる。
「でも、玉藻様」
後ろめたさを振り払うように、葛葉は声をあげた。
「わたしはもう引き返せません!」
まなじりの鋭い美しい目で、玉藻が何も言わずこちらを見ている。
「たとえ御門様の意に添わぬことであっても、それがあの方の助けになるのであれば教えてください」
「……花嫁」
「玉藻様のせいにはしません。御門様のお叱りはわたしが受けます!」
「そうは言っても、奴の怒りの矛先は妾に向くであろうな」
玉藻はひらひらと袖を振って所在なげに羽織っている着物の柄を眺めていたが、ふたたび葛葉の顔を見ると、小さく笑う。
「まぁ、奴が怒ったところで妾に皮肉を言うくらいのことしかできぬが。それよりも、妾はむしろそなたの心持ちが変わるのではないかと心配なのじゃ」
「わたしの心持ちですか?」
「そうじゃ。ふたたび可畏を怖れるのではないかとな」
「御門様はお優しい方です! 恐ろしくなどありません!」
思ったままに訴えると、玉藻が吹き出した。葛葉はすぐに当初可畏に抱いていた印象を思い出して、もごもごと言い訳をする。
「はじめは、その、色々と驚いて、怖い方だと思ったりもしましたが……」
自分と可畏がどのような出会い方をしたのかも、玉藻にはお見通しなのだろう。
「それは誤解や思い込みがあって……」
「知っておる。しかし、そなたは期待以上に可畏に懐いておるのだな」
玉藻がふたたび声をたてて笑った。
「やはり綾子は慧眼じゃな。そなたに託すと決めていた。妾の杞憂でしかないということか」
「玉藻様?」
「秘めていても仕方がない。可畏の正体をそなたに明かしてやろう」
「御門様の正体?」
問い返しながら、葛葉には予感があった。
ふっと美しい鬼の姿が脳裏に浮かんだのだ。一角獣のような角と長く伸びた白髪。人間離れした艶やかな姿。変貌していても、見覚えのある端正な横顔。
(もしかして、あれは――)
夢か見間違いだろうと思っていた。
けれど、かすめるような記憶なのに鮮明に思い起こすことができる。
印象に残っているのだ。
「可畏は……」
葛葉の記憶を裏付けるように、玉藻の声が耳に響く。
「可畏は羅刹の角である三柱から、一柱を与えられた鬼じゃ」




