65:和歌と小芥子(こけし)
和歌と屋敷の土間まで戻ったとき、葛葉はハッと炊事場にあった小芥子のことを思い出した。可畏から譲ってもらった香水に気を取られて、彼を見送るときは意識から放り出されていたのだ。
(小芥子があってもなくても怖いかも……)
飾っていない物があるのもおかしいが、見たはずの物がないのも怖い。炊事場の台の上を確かめるか懊悩していると、和歌が聞いてきた。
「葛葉さんは、どの辺りで小芥子を見つけたんですか?」
「あの、そちらの釜戸の奥の台で……」
言いながら、葛葉はおそるおそる視線を向ける。
(暗くてよく見えない)
戻ってきたときは夕日が差していたが、今はすっかり夜の闇の中に沈んでいる。和歌が炊事場を照らす電燈をつけた。炊事場に設けられているのは裸電球だったが、辺りを照らすのには十分だった。暗がりでしかなかった場所が光の中に戻ってくる。
葛葉は小芥子を見た奥の台へ視線を移す。
(何もない)
予想していても目の当たりにすると、ぞっと背筋に冷たいものが走る。
辺りにそれらしき物を探してみても、小芥子の影も形もない。
葛葉が固まっていると、和歌が「大丈夫です」と笑う。
「可畏様の前ではお伝えできませんでしたが、実はその小芥子に心当たりがあります」
「え!?」
葛葉はすぐに辺りを探っていた視線を傍らの和歌へ戻す。
「じゃあ、やっぱり炊事場に小芥子を飾っていたんですか?」
「あ、いえ。炊事場には置いておりません」
まったく救いにならない返答だったが、葛葉は挫けずに聞く。
「では、このお屋敷には動く小芥子が?」
和歌は葛葉を土間から板の間へ上がるように促し、脱いだ履き物を揃えながら答えてくれる。
「葛葉さんの見たものと同じなのかはわかりませんが。お二人がここを出た後に届けられた小芥子がございます。帝からの言いつけで届けられたものだったので、何か意味があるのだろうとは思っておりました」
「帝からの言いつけで小芥子を?」
「使者の式鬼が参りました。客間までその小芥子をお持ちしますので、ゆっくりなさっていてください」
「はい。ありがとうございます」
屋敷の中は電燈で明るく保たれている。暗がりにひそむ怪異に怯えるような印象はないが、可畏の気配がないと広く感じた。縁側はすでに雨戸で閉ざされ外は見えない。闇に沈む庭先が遮断されているのは、今の葛葉にとっては幸いだった。
囲炉裏のある居間から客間へ入り、葛葉は食事をしていた背の低い卓を見て「ひっ!」とその場で腰を抜かす。
夕餉の食器は和歌が下げていたが、卓の上にはまだ食事の名残で三人分の湯呑みが並んでいた。
その湯呑みとともに、さっきまではなかった小芥子があった。
小芥子は運良く横を向いていて、葛葉と目が合うようなことはない。
艶々と磨き抜かれた木彫りには細い目と小さな口が描かれ、曲線に引かれた眉毛には愛嬌がある。
赤い髪飾りで結われた黒髪は繊細な筆致で、衣装を着ているように胴体にも複雑な模様が施されていた。
畳の上で腰を抜かしたまま、葛葉は小芥子から目を逸らすことができない。
仔細に眺めていると、ずずずっと小芥子が葛葉に向き直るように動く。
ぎゃーっと悲鳴をあげそうになって、葛葉は特務部の一員であるという誇りを思い出す。
(しっかりしろ!)
ふうっと大きく吐息をつく。
(害のない怪異に驚いている場合じゃない!)
意地になって、なんとか叫ぶのをこらえ気を持ち直した。小芥子を手に取るため卓へ近づくと、背後から「葛葉さん」と和歌の呼ぶ声がする。
「申し訳ありません。今、奥の書院の部屋を確かめていたのですが、小芥子がなくなって……」
客間へやって来て、和歌も一眼で状況を察したようだった。
「あら? もうこちらにあったのですか」
さして驚いた様子もなく、むしろ声には見つかって良かったという安堵が漏れている。
葛葉は小芥子へ伸ばしていた手を引っ込めて、食事をしていた時と同じように席へついて和歌を見た。
「これが届けられた小芥子なんですか?」
和歌も葛葉の向かい側に座ると、しげしげと卓上の小芥子を眺めてからうなずく。
「帝の使者に届けられたものと同じです」
「天子様から届けられたとなると、何か曰くがあるのでしょうか? 付喪神がついているとか?」
可畏は葛葉が怪異のもたらす標に反応しやすいと言っていた。小芥子が自分の周りに現れるのも、そういうことだろうか。妙の柄鏡のことを思い出しながら、葛葉はふとあることが引っかかった。
「和歌さんはどうして帝の使者が小芥子を届けたことを、御門様に話さなかったのですか?」
「それは帝の――陛下のご意向だからです」
「天子様が、御門様には秘密にするようにと?」
「はい」
余計に意図がわからなくなってしまう。それ以上聞いてもいいのか迷ったが、素直に好奇心に任せた。
「どうしてですか?」
「お話しても良いのですが……」
和歌は葛葉から小芥子に視線をうつした。
「話すと長くなりますので」
ふたたび真っ直ぐ葛葉を見つめて、彼女は柔らかく微笑む。
「このお話は明日にしましょう。今夜はゆっくりお休みになるようにと可畏様も仰っておられました」
気になりすぎるが、たしかに和歌のいう通り今夜は休んだ方がいい。可畏がこの屋敷を訪れるのは明後日であり、明日はまるごと時間が空いているのだ。和歌から話を聞く時間はたくさんある。
そう自分を宥めるが、神出鬼没な小芥子への恐れが拭えない。一晩耐え切れるだろうかと不安に苛まれていると、葛葉の気持ちを察したのか、和歌が「ひとつだけはお伝えしておきましょう」と付け加えた。
「葛葉さん。この小芥子は悪いものではありません」
「はい。それは何となく理解していますが……」
「こちらは可畏様のお母様が大切にしていたものです。だから安心してください」
「御門様の?」
「はい。お守りのようなものだと考えてくだされば。とりあえず今夜はもうゆっくりお休みになってください。すぐ用意いたしますので」
和歌がそっと小芥子を手に取った。卓上に残されていた三客の湯呑みと一緒に、傍らに用意されていた盆へ乗せる。
「小芥子は奥の書院の間にある床の間へ戻しておきますので」
「あ、はい」
てきぱきと和歌が休む支度を整えてくれる。葛葉も休む準備を始めながら、小芥子と湯呑みを携えて客間を出ていく和歌の後ろ姿を見ていた。
(御門様のお母様の小芥子)
出どころが明らかになっただけで、恐れが少し和らいでいた。可畏に関わる物なら自分を脅かすようなものではないはずだ。お守りのようなものだと例えた和歌の言葉は正しいだろう。
(でも、どうしてここに?)
答えは明日までお預けである。和歌はここに小芥子を届けた帝の意向を正しく汲み取っているようだ。
(和歌さんは何者なんだろう)
明日になれば、きっとこの疑問も晴れる。葛葉は隊服の胸にしまっていた香水を取り出した。鼻先に寄せると爽やかな香りが触れる。馴染んだ芳香をかいで、ふうっと深呼吸した。
(きっと今夜はよく眠れる)
自分に暗示をかけながら、葛葉は可畏に命じられたとおり休むことへ専念した。




