64:香水の意味
土産の銅鑼焼きを平らげ、続いて出てきた和歌が腕によりをかけた夕餉も食べ終わった。すっかり日も暮れたが、屋敷の中は電燈が灯っていて明るい。可畏と出会った時は想像もしなかったが、葛葉は彼との食事の時間が終わることが名残惜しい。
「和歌、ごちそうさま。私はそろそろ御暇しよう」
使用人だと紹介されたが、和歌に対する可畏の態度は丁寧だった。彼女が良家の生まれであることは、その立ち居振る舞いからも伝わってくる。
(もしかして、和歌さんも御門家の方なのかな)
葛葉とは親子ほどの年の差がありそうだが、可畏や自分をたてる印象が良妻賢母にも通じる気がした。
「では、庭先までお送りいたしましょう」
和歌の声に頷いて可畏が立ち上がると、ふわりといつもの良い香りが漂う。ほのかに触れる香りは、いつでも葛葉の気持ちに寄り添ってくれた。後ろ髪引かれる気持ちを切り替えて、葛葉も立ち上がる。
「わたしもそこまでご一緒します」
明るく振る舞いながら、ふと思い立って葛葉は彼に聞いてみる。
「あの、御門様」
「なんだ」
客間を出て、居間から土間へと向かう廊下で、彼が立ち止まって葛葉を振り返った。
「いつも御門様から良い香りがするのですが、それは香水でしょうか?」
彼のまとう香りが香水であるなら、いつか葛葉も手に入れることができるかもしれない。贅沢品へのためらいはあるが、すでに自分を勇気づけてくれる香りになりつつあった。手元にあれば独りで落ち込んだ時に、この香りに慰めてもらえる。
「もし差し支えなければ、どのような香水なのか教えていただきたいと思いまして」
可畏は意外なことを聞かれたという顔をしたが、すぐに温かみのある笑みに変わる。
「良い香りか。それなら良かった……」
「香水ではないのですか?」
「いや、香水だが。まさかそんなふうに感じていたとは思わなかった」
この香りを嫌悪する人もいるのだろうか。匂いに好き嫌いがあるという話は聞いたことがあるが、葛葉にはよくわからない。
「私の匂いに嫌悪感がないのなら良かった」
「はい。とても良い香りです」
「ではこの香水が優秀なんだろう」
可畏が隊服の懐から小さな瓶を取りだした。きれいな形をしていて異国のものであることが一目でわかる。葛葉は忘れないように脳裏に刻みつけようと、食い入るように見つめた。
「気に入ったのなら、おまえにやろう」
「そ、そんな高価なものいただけません! 頑張って働いていつか自分で買います!」
「大げさだな。使ってあるもので悪いが、今度会う時には新しいものを持ってくる」
「ですから、そんな高価なものはいただけません!」
遠慮する葛葉の腕をとって、可畏が小瓶を掌に置いた。
「おまえが死臭を感じていないのなら、それに越したことはない。だが、いずれ気づく。気休めにしかならないだろうが持っておけ」
「死臭というのは?」
葛葉の問いには答えず、可畏は自嘲的に笑った。
「香水をまとうのは、私にとって洒落た意味はない。人を不快にしない最低限の身だしなみだ」
葛葉の手に香水を握らせて、可畏は再び土間へ出るために廊下を進む。葛葉に背を向けた彼から、呟くような声が聞こえた。
「葛葉。私は業が深い人間だ。覚えておくといい」
どういうことか聞き返そうと思ったとき、葛葉は傍らの和歌と視線が合った。彼女はそれ以上聞かない方がいいと横に首を振った。柔和な目に宿った暗い翳りを感じて言葉をのみこむと、和歌は話を変えるように明るい声をだした。
「さぁ、お見送りいたしましょう」
葛葉は香水瓶を握りしめて、前を歩いていく可畏に慌てて声をかけた。
「あ、あの、御門様。ありがとうございます」
手の中にある瓶からも、爽やかな匂いがほのかに香っている。死臭や悪臭とは程遠い心地よい香り。そして葛葉にとっては、自分の心を安定させてくれる可畏の香りそのものだった。
すでに土間から屋外へ出ていた可畏が、小道を追いかけてきた葛葉を振り返った。
「見送りはここまででいい」
「いえ、庭先までは……」
「おまえは疲れているはずだ。今夜はもうゆっくり休め」
「――はい」
これ以上見送りについて食い下がるのも不自然だと思い、葛葉が渋々うなずく。可畏がふっと吐息のような笑みを漏らした。
「心配せずともすぐに働いてもらうことになる。おまえの異能は特別だからな。おそらく休む暇もなくなるぞ」
「お役に立てるなら喜んで!」
前のめりに意気込むと、可畏が呆れたように葛葉の額を指で弾いた。
「喜ぶな」
「でも、わたしは一人前になることが目標ですので!」
さらに前のめりになると、傍らで様子を見ていた和歌が笑った。可畏が彼女へ視線を移す。
「和歌、あとは頼む」
「はい。お任せください」
和歌に頷いて見せて、可畏がふたたび葛葉を見た。
「葛葉、私は明後日にまた来る。今後の方針もその時に伝える」
「はい」
「明日は休め。それが今のおまえの任務だ」
「はい!」
任務という言葉を聞くとはりきってしまう。葛葉がおもわず敬礼すると、可畏と和歌が同時に笑った。
月明かりが夜道を照らしている。彼の背を見送る葛葉の耳に、忙しなく鳴く虫の声が聞こえた。
秋の夜。
りーりーと涼やかな声が響いている。少し肌寒い空気が新鮮で、葛葉は大きく深呼吸をした。
この数日の体験は、まちがいなく自身の糧となっている。
閉じ込めていた記憶が暴かれ、異能が明らかになった。
(――羅刹の花嫁)
わだかまりを拭う、白い炎。
(わたしにもできることがある)
柄鏡に宿った付喪神の願いを叶えることができた。
思い出すと切なくなる顛末だったが、空へと舞い上がっていった光は美しかった。
(特務部の一員として、これからも御門様のお役に立てる)
その幸運を葛葉は改めて噛みしめていた。




