63:小芥子(こけし)
土間へ入り、板の間へ上がるために履き物を脱いでいると、葛葉はふと炊事場の片隅にある小芥子に気づいた。ちょうど板の間を見るように置かれており、細く描かれた目と視線があう。
なぜ炊事場にあるのかと思ったが、台の奥に立っていて作業の邪魔にはならない配置だった。おそらく和歌が飾ったのだろう。珍しいと感じたが不審には思うほどでもない。
すぐに奥の座敷へと意識を向けて、葛葉は板張りの廊下へあがる。以前と同じように縁側をたどるように進み、居間へ入った。囲炉裏を見ると心が緩む。
葛葉は祖母と暮らした小さな家にあった囲炉裏を思い出した。火災の記憶を恐れて、祖母と囲んだ囲炉裏の火さえ、目隠しされたように意識の底に沈められていた。
けれど、今は思い出せる。祖母と囲炉裏を囲んで過ごした日々。他愛ないけれど平穏だった。
囲炉裏の火はいつも穏やかで温かった。
葛葉は改めて過去に向き合って、自身が変わりつつあることを自覚する。
囲炉裏から目をあげると、和歌の笑みがあった。
「どうぞ、奥へ。すぐにお茶を淹れます。さっそくお土産をいただきましょうね」
「ありがとうございます」
彼女は奥の客間へ可畏と葛葉を促すと、風呂敷をかかえて炊事場の方へ姿を消した。
可畏と客間へ入ると、葛葉の気を引くものが視界の端をよぎった。
(ん?)
客間から見える中庭。水盤へ流れ込む水の流れを再確認して、葛葉はこの家屋が中庭を囲むように作られていたことを思い出した。濡れ縁から中庭を挟んで向こう側にも部屋がある。以前は障子で遮られていたが、今は開放されて室内が見えた。
斜めに傾いた夕刻の赤い日差しが、中庭に影と光の境界を描いている。平屋の家屋にも、くっきりとした影との境界が生まれていたが、まだ夕闇は訪れていない。
(また小芥子?)
夕焼けのような赤みを帯びた光景の中で、一目散に葛葉の視界がとらえたのは、違い棚に飾られた小さな小芥子だった。床の間に生けられた花や掛け軸よりも、なぜか葛葉は圧倒的な存在感を覚えた。
(さっき小芥子を見たばかりだから、気がついたのかな)
中庭を挟んで見える室内は遠く、小さな小芥子が目立って見えるわけでもない。炊事場にあったものと同じ形だろうかと目を凝らしていると、細く描かれた小芥子の目とふっと視線が重なった。ぞくりと背筋が寒くなる。
「葛葉?」
「ぎゃ!」
可畏の呼びかけに過剰に反応して、葛葉はその場で飛び上がってしまう。
「どうしたんだ?」
「も、申し訳ありません。すこし驚いただけです」
不思議そうに可畏も中庭の向こう側にある部屋へ目を向けた。
「何か変わったものでも見えたのか?」
「いえ、変わったものというか。向こう側の部屋にある違い棚の上に、小芥子を見つけたので……」
「小芥子?」
「はい。さっき炊事場にもあったので、同じ形のものかと思って」
可畏が向こう側の部屋を眺めたまま目をすがめた。
「違い棚には何もないようだが?」
「え? そんなはずは……」
葛葉もふたたび中庭ごしに見える部屋の違い棚に目を向ける。小芥子の場所を示そうとしたが、見当たらない。
「あれ?」
中庭へ続く濡れ縁まで出て目を凝らしていると、背後で可畏の声がした。
「中庭の木の梢がそう見えたんじゃないか?」
「いえ、そんなことは」
強い印象をもって視界に飛び込んできたのだ。見間違えたとは思えないが、違い棚には何も置かれていなかった。
「でも、なくなっています」
あったはずの小芥子がなくなる。葛葉がひやりとした戦慄を感じていると、可畏がさらに恐ろしいことを告げた。
「それに、炊事場に小芥子などあったか?」
「――わたしは、見ましたが……」
葛葉はにわかに小芥子があったと自信をもって言えなくなる。自分よりも周りの変化に気づき、何事もよく見ている可畏が、あの小芥子に気づかないことなどあるだろうか。
もし炊事場の小芥子もなくなっていたら――。
完全に怪異である。
葛葉がぞっと顔色を失っていると、それに気づいた可畏が慰めるように続けた。
「もしおまえの見た小芥子が何らかの怪異だったとしても、問題はない」
葛葉がどういう意味かと目を向けると、可畏はきっぱりと断定した。
「ここは帝の用意した住処だぞ。悪いモノが紛れ込めるわけもない」
言われてみればそうだった。帝が葛葉を守るために用意した住処なのだ。葛葉は肩に入っていた力が抜けた。けれど神出鬼没な小芥子の不気味さまでは払拭できない。
「でも、もし小芥子が怪異だとして、いったい何のために出るのでしょうか?」
「――さぁな」
可畏の返答に一呼吸の戸惑いがあったように思えて、葛葉は引っ掛かった。可畏はすぐに大丈夫だと念を押す。
「帝のことだ。おまえを守るための仕掛けだろう。何も心配はいらない」
「はい」
悪いモノでなくとも神出鬼没な小芥子は怖い。怖いが、葛葉は特務部の一員として怪異になれるべきだと思い直した。
「お茶が入りましたよ」
可畏と濡れ縁から客間へ戻ると、和歌がいそいそとした様子で再び姿を現す。手に抱える盆には、茶器と土産の銅鑼焼きがあった。
三人で座卓につくと、可畏が何気なく彼女に尋ねる。
「和歌、炊事場に小芥子を飾っているのか?」
「小芥子ですか?」
和歌は可畏の顔を見てから葛葉に視線を向ける。表情から何かを感じたのか再び可畏を見た。
「可畏様。それはどう答えるのが正解でしょうか」
どうやら葛葉の表情から小芥子に怯えていることを察したらしい。彼女は葛葉に負担のない答えを模索しているようだった。可畏は和歌の聡明さに小さく笑う。
「ここは特別な場所だ。べつに取り繕う必要はない」
「そうですか。炊事場に小芥子を飾ったことはございませんが――」
「ええ!?」
予想していても慄いてしまう。こんな怪異に怯えるのが情けないと意気込んでみても、葛葉はぞっと全身に鳥肌がたった。
「その様子では、葛葉さんは炊事場で小芥子を見たと?」
「は、はい。奥の台にありました」
和歌が可畏と顔を見合わせている。二人の間で暗黙のやりとりがあったのか、彼女は慰めるように葛葉に微笑んだ。
「大丈夫ですよ、葛葉さん。私があとで屋敷の中を見回っておきましょう」
「ありがとうございます」
不気味な小芥子の存在を恐れることもなく、和歌は柔和に笑っている。ここで葛葉の世話を担うということは、帝と可畏からの信頼が厚い女性なのだろう。怪異にも慣れている気配がした。
動じることのない和歌の笑顔に心強さを感じて、葛葉は大丈夫だと自分に言い聞かせる。
「とりあえず、銅鑼焼きをいただきましょう。とても美味しそうです」
「はい」




