62:平屋への帰宅
現場で滞在した大きな屋敷を後にして、葛葉が再び帝の用意した敷地に戻ったのは夕刻だった。
秋空を見上げると、茜雲が赤い光を照り返している。
帝都にありながら、人混みや喧騒とは無縁の瀟酒な平屋が見えてきた。
手入れの行き届いた庭先に、使用人である和歌の姿があった。彼女の姿を見るたびに、葛葉は母親がいたらと想像してしまう。木々の影が長く伸びて彼女に落ちかかっていた。
まだ葛葉にとっては親しみも馴染みもない家だったが、初めてここへ来た時とは心境が変わっている。
「おかえりなさいませ」
当たり前のように出迎えてくれる和歌に、葛葉は「戻りました」と会釈する。隣で可畏が手に持っていた風呂敷を和歌に差し出した。
「土産だ。葛葉がおまえのために選んだ」
旧街道沿いにあった店の銅鑼焼きだった。現場から引き上げることが決まった時、去り際に可畏が買い与えてくれたのだ。柄鏡の願いを叶えた褒美ということらしい。
甘いものに目がない葛葉である。食べ歩くまもなく平らげ、名残惜しそうに最後の一口を頬張っていると、可畏が笑いながら土産として持ち帰れるようにしてくれた。
「美味いらしい。二人で一緒に食べるといい」
「まぁ、ありがとうございます」
嬉しそうに顔を綻ばせて風呂敷を受け取ると、和歌が葛葉を見た。
「それなら、すぐにお茶をお淹れいたしましょう」
彼女の穏やかな声で、葛葉は気が緩むのを感じた。
「お疲れでしょう。夕餉の支度も整っておりますが、その前に一服されるといいですよ」
和歌にはあらかじめ帰宅が知らされていたのかと思いながら、葛葉は隣の可畏を仰いだ。彼はうなずいて平屋へ入るように促す。
「疲れただろう。ご苦労だった。こちらでゆっくりするといい」
「はい」
自分を送り届けるという役割を果たして、可畏がすぐに踵を返して立ち去りそうな気配を感じた。多忙な彼にはきっとこの後にも予定がある。理解はできるが、葛葉は心もとない気持ちになった。
「あの、御門様もすこし休憩されては?」
「私は――」
「もちろんですわ。こんな庭先で立ち話をせずに中へどうぞ」
可畏の声を遮る勢いで、和歌が会話に入ってくる。
「可畏様も夕餉を召し上がってください。お二人がお戻りになると聞いて、今夜ははりきってご用意いたしました」
有無を言わせない圧を感じたのか、可畏が小さく吐息をついて「わかった」と答えた。
うまく可畏を引き止めてくれた和歌に、葛葉は感謝したい気持ちで視線を送る。目が合うと彼女はにっこりと微笑んだ。
「葛葉様は、まっすぐ前を向かれるようになりましたね」
言われてみると、和歌としっかり視線が重なっている。以前なら慌てふためいて視線を逸らしていたのに、身に染みついた習慣が上書きされていた。彼女は葛葉の気持ちの変化を見抜いているのだ。
「初めてお会いした時とは、すっかり雰囲気が変わっておられます」
「そ、そうでしょうか」
「はい。とても綺麗になられました」
数日で変わるはずもないが、和歌の言葉には力強さがあった。葛葉はなんとなく気恥ずかしくなってしまう。
「可畏様もそう思われるでしょう?」
「――ああ、そうだな」
突然可畏にも首肯されて葛葉は戸惑う。うまく受け流すことができず、かぁっと顔面に熱がこもった。茹で蛸のようになっているのがわかって咄嗟に俯く。恥ずかしくて顔があげられない。
「あら?」
自分を襲った火照りをやりすごそうと奮闘する葛葉の前で、和歌の笑い声が響く。
「どうして可畏様まで照れていらっしゃるのですか?」
「え?」
どういうことだろうと葛葉が顔をあげると、可畏が二人の視線を避けるように平屋の縁側を見ている。
「和歌、余計なことを言うな」
可畏の顔は見えないが耳が真っ赤に染まっている。葛葉はぐっと胸が高鳴った。
はじめは意外な一面だったが、今となっては紛れもなくそれが彼の人となりなのだ。
横柄で傲慢だと思い込んでいたのが嘘のようだった。可畏の様子に葛葉もおかしくなる。
笑い声が漏れないように肩を震わせていると、再び和歌と目があった。
「お二人とも、中へ入ってお土産をいただきましょう」
「はい」
和歌が風呂敷を抱えて平屋へ続く道を行く。三人の長い影がゆっくりと邸宅へ向かって動きはじめた。




