50:可畏(かい)の不調
目が覚めると、葛葉は特務部の拠点となっている屋敷の寝床に横たわっていた。昨夕三河屋を訪れた時とおなじ隊服のままである。辺りの様子はまだ暗いが、じきに太陽があがってくる気配がした。
朝の凛とした空気。よく眠れたという爽快感もある。
寝床から起き上がると、葛葉はそっと衝立障子の向こう側をのぞく。
室内が暗いせいで気配を感じなかったが、のべられた布団に誰かが横たわっていた。葛葉は不意打ちにあったように驚いて声をあげそうになる。咄嗟に口を手で塞いだ。
暗がりではっきりしないが、この部屋で寝めるのは自分を除くと可畏だけである。
(御門様もお寝みだったんだ)
だんだんと暗さに目が慣れてくる。葛葉に背を向けているようで顔は見えない。目覚めている様子はなかった。
(でも、よかった)
彼と行動を共にするようになってから、一体いつ眠っているのかと案じていた。ただ布団に横たわっている姿を見られただけで、葛葉はほっと嬉しくなる。
眠気はないが可畏が寝んでいるなら寝直すべきだろうかと、葛葉がふたたび寝床にもぐりこもうとすると、背後でかすかに声がした。
振り絞るようなうめき声。空耳かと耳を済ませていると、ふたたび苦しげな声が聞こえた。
衝立障子の向こうで可畏が寝返りをうつ気配がした。
「御門様?」
葛葉は小声で呼びかけながら、立膝のままずりずりと衝立障子をこえて可畏の前へいく。
「う……」
薄明が訪れそうな頃合いだが、可畏の様子を確かめるには視界が暗い。葛葉は夜回り用の石油ランプを思い出して、素早く部屋を出てランプを手にすると部屋へ引き返した。明るさを控えめに調整してランプに火を入れる。
「あ!」
葛葉はぎょっとして、再び声を抑えるように両手で口を塞ぐ。
寝床に横たわる可畏はびっしりと額に汗を浮かべている。苦しげなうめきは絶え間なく、まるで痛みを堪えるような悲痛さが響く。
葛葉には具合が悪いのか、悪夢をみてうなされているのか判断がつかない。
「御門様」
もし目覚めなかったら人を呼びに行こうときめて、葛葉は彼の額の汗を隊服の袖で拭った。
「御門様。起きてください」
体を揺さぶるように力を込めてから、発熱していないかとそっと額に掌を添わせた。その瞬間、苦痛にこわばっていた彼の体からすうっと力が抜けるのを感じた。苦しげなうめきも止み、苦悶をにじませていた表情が穏やかになる。
(落ち着いた?)
葛葉もほっと肩の力が抜けた。もう一度額の汗を拭おうとすると、可畏が瞬きをして目覚める。彼はすぐに葛葉に気づいてこちらを見た。
「御門様、御気分は悪くありませんか?」
「葛葉……」
「とてもうなされておられたので心配しました」
可畏はゆっくりと上体を起こす。ふうっと大きな吐息をつくと、いつもの颯爽とした気配を取りもどした。
「おまえも寝んでいたのに、起こしてしまったな」
「いいえ。わたしは御門様に起こされたわけではありません。とても寝起きがいいです」
「そうか」
可畏は隊服ではなく白い寝間着だった。浴衣のような軽装が無防備すぎて、葛葉は目のやりどころに困る。あたふたしていると可畏が小さく笑った。葛葉の戸惑いを察したのか、すこし緩くなっていた着物のあわせを手早く整えながら続ける。
「葛葉、昨夜はありがとう」
「え?」
「おまえの能力については目処がついた」
「でも、わたしは……」
葛葉はしげしげと自分の両手を見る。何かが変わったわけでもなく、異能の使い方をつかんでいないままだった。不思議に思って彼の顔を見ると、可畏がうなずく。
「自在に使えるようになるには、まだ課題がありそうだが……」
「あの、昨夜はあれからどうなったんでしょうか? わたしが御門様の力に圧倒されて気を失ってしまったのは理解しています」
結局自分は何の役にも立たず、足手まといになっただけである。再確認すると落ち込みそうになるが、今はその後の顛末を知りたかった。
「あの術者の男や、三河屋のご主人はどうなりましたか? 結局妙さんはいなかったのですよね」
「おまえのおかげで、事件もほぼ解決したようなものだ」
「わたしは気を失って、御門様にご迷惑をおかけしただけなのでは?」
「いや、昨夜ミスをしたのは私の方だ」
可畏は立ち上がると、葛葉に微笑んでみせる。
「事件については、まだ答え合わせが必要だ。私は着替えてくる。おまえも身支度が整ったら主家の座敷に来い。話はそれからだ」
「はい」
葛葉がはりきって返事をすると、可畏が部屋を出ようと入り口の御簾へ向かう。
(――あ……)
彼の横顔を見たときに、葛葉は唐突に夢で見た鬼の姿を思い出した。
長い白髪と、血のように赤い瞳。そして、額からそそりたつ一角獣のような角。
(あれは御門様だった)
恐れはいっさいなかった。自分をかかえる力強さと爽やかな芳香に安堵した。
(でも、御門様が鬼のわけがない)
葛葉は寝ぼけていたか、夢を見ていただけだと思いなおす。
けれど、そう割り切る気持ちとは裏腹に彼をとりまく噂を思う。
妖のような美貌。人の子にあらず。
夢だったと飲み込もうとする葛葉にあらがうように、それは小さな引っかかりとなって胸の淵でわだかまった。




