46:足止め
棚引くような雲に、すでに山の端に落ちた陽の光が反射している。紫のインクを馴染ませたような空の果てに、美しい茜雲が輝いていた。
葛葉は可畏と共にふたたび三河屋を訪れた。今朝の女将の話では、夕刻に主人が帰ってくるということだった。
秋も深まり、日が暮れるのも早い。太陽が沈み始めると身震いするほど肌寒くなる。
三河屋の紫の暖簾も、赫光をしりぞけた夕闇になじみはじめている。
「わざわざ再訪していただき申し訳ございません。妙を見舞いたいとのお話は伺っております」
店から出てくると、三河屋の主人は快く二人を迎えた。
主人は羽振りの良さをそのまま体現したようにふくよかな男だった。妻である女将とは年が離れているのか、すでに初老と言っても良い風体で髪にも白髪が目立つ。
「では参りましょう」
にこやかに笑う主人に、可畏が会釈した。
「お願いします」
朝に青年が案内してくれた道を、同じようにたどる。葛葉は三河屋の主人の表情を窺っていたが、他愛ない世間話をしながら歩く様子に、後ろめたさのようなものはなかった。
妙の不在には、主人なりに筋の通った理由があるのだろうか。
可畏も探りを入れるようなことはなく、主人の話に相槌を打っている。
(三河屋のご主人が何か隠していると思っていたけど、思い違いだったのかな)
不穏な気配は何もない。予想が外れたと肩を落としながら歩いていると、いつのまにか暗い夜道になっていた。足元が闇に沈んでいる。人の住んでいない長屋からは明かりが漏れてこないせいか、日没後の夕闇が深い。
葛葉は手に持っていた石油ランプに火を入れた。主人も足元がおぼつかないと思ったのか、手にしていた提灯に火を入れた。白地の火袋に書かれた「三河屋」という文字が浮かび上がる。提灯には傘もついており、人の多い通りなら持って歩いているだけで店の宣伝になりそうだった。
暗がりに沈む細い道に、主人の提灯がゆらゆらと揺れている。まるで鬼火のようだなと思い始めた頃、今朝も見た簡易な門の前についた。
同じ場所のはずなのに、夜に見ると印象が違う。葛葉が門の向こう側の長屋に目を向けると、家屋に明かりがあった。
誰かがいるのだ。
(え? でもここに妙さんはいないって……)
葛葉が可畏の横顔を見ると、視線に気づいた彼と目があった。浅く口元に笑みが浮かんでいる。動じていないところを見ると、想定していた光景なのだろうか。
主人が門の錠を開けて、大仰に手振りでうながす。
「妙の住まいはこちらの奥です。どうぞ入ってください」
三河屋の主人は朗らかに笑っている。葛葉は手招きに従って中へと進む。背後に可畏の気配を感じていたが、ふいにぱちりと何かが弾けるような音がした。
「御門様?」
葛葉が振り返ると、可畏が煩わしげに眉根を寄せている。彼が顔の周りを飛び回る蠅をはらうように手を動かすと、ふたたびぱちりと音がした。門の境目で立ち止まった可畏をみて、三河屋の主人が「おやおや」と笑った。
「なにか障りがございましたかな?」
「いや、問題ない」
可畏が門内へ進もうとすると、ばしりと稲妻のような閃光が走った。突風に弾かれたかのように彼の体が門外へ押し出されている。
「御門様、大丈夫ですか?」
葛葉が駆けつけようとすると、背後から腕をつかまれた。三河屋の主人が葛葉を引き止めて、門外で佇む可畏に笑顔を向けた。
「入れませんか?」
背後から三河屋の主人の朗らかな声がする。葛葉は腕を掴んでいる主人の手を振り払おうとしたが、思いのほか力が強い。
「隊員のお嬢さん、あなたはこちらにいて下さいよ」
にこやかな笑顔とは裏腹に主人は強引だった。ますます葛葉を門内へ引き込むように引き寄せた。
「離してください」
訴えても葛葉の声など聞こえないという素振りで、主人は可畏を見てにこやかに笑っている。
「妖はこの門を越えることができないのですが……」
声は朗らかだが、葛葉は三河屋の主人を振り返ってぎくりと身がこわばった。
笑顔なのに、まるで能面のように不気味だった。強烈な違和感がはしる。
「どうやら将軍閣下の噂は本当だったようですな」
可畏は無表情のまま、門の向こう側に立っていた。
主人の声音には揶揄するような色がある。笑みを讃える目元にも不遜さがにじみはじめていた。三河屋の主人への危機感を高めながら、葛葉は施された結界に式鬼がはじかれた光景を思いだす。
(御門様は強力な異能をお持ちだから、影響があるのかもしれない)
可畏にとっても罠になるのではないかと考えた時、いつも通りの彼の声が響いた。
「三河屋の主人、いったいさっきから何の話をしている?」
「将軍閣下はこちらにおいでになれないのでしょう?」
「大した結界だが、何のためだ? まさか私を締め出すためだとは言わないだろうな」
葛葉の腕を掴んだまま、背後で主人がくつくつと笑っている。
「そのまさかです」




