４４：不自然な住まい
「それが……」
座卓を挟んで向かいに座る女将は、ばつが悪そうに視線をさげた。
「お恥ずかしい話ですが、私は妙が裏手のどの辺りに住んでいるのかは知らないのです。すべて主人が手配したようで」
「ご主人が？」
「はい。ですが、店の者が知っているはずなので案内させましょう」
「――それは助かります」
抑揚のない調子で、可畏が謝辞を示している。言葉とは裏腹に表情が固い。葛葉はふたたび違和感を覚えたが、すぐに女将の呼び寄せた使用人がやってきた。
「ご案内いたします」
女将に変わって出てきたのは、玄関で出迎えてくれた青年だった。
「開店前の忙しい時に申し訳ない」
可畏が会釈すると、使用人の青年は戸惑いがちに頭をさげて歩きだす。葛葉にも青年の気持ちがすこし理解できた。可畏は特務部の大将という地位にありながら、どんな人間に対しても敬意をはらうことを忘れない。
肩書きや怜悧な雰囲気から、葛葉もはじめは横柄で酷薄な印象を持っていた。けれど、実際の人となりには想像以上に人情味があった。
「君は妙のことを知っているのか？」
前を歩く青年に、可畏は世間話をするような気やすさで声をかけた。青年は振り返って歩調をおとすと、「はい」とうなずく。可畏に萎縮して固くなっていた気配が、すこし柔らかくなった。
「妙とは同僚です。でも、彼女が長屋へ移ってからは顔を見たことがありません」
「見舞ったことがないと？」
「はい。ご主人が近づいてはいけないと。女将さんに言われたのでご案内はしますが、ご主人に了解がないと妙に会うのは難しいと思います」
「彼女の住まいには入れなくなっているのか？」
「はい。あまりにも厳重に隔離されているので、結核ではないかと噂するものもありますが……」
「何か気になることが？」
「あ、いえ、何も」
口を滑らせたと言いたげに、青年が狼狽えている。何か言いにくいことでもあるのだろうか。勘の鈍い葛葉にも伝わってくるのだ。可畏が気づかないはずもない。
「君が言いにくのなら、私が当てて見せようか」
どんなふうに探るのかと葛葉が二人を見比べていると、可畏が意外なことを告げた。
「用意された長屋の住まいに、妙はいなかった」
「え？」という青年と葛葉の声が重なる。葛葉はあわてて口元を手でおさえたが、青年は驚いたように可畏を見ていた。
「どうやら当たりのようだな」
可畏は不敵に笑っているが、青年の顔は目に見えて青くなっている。
「心配しなくても君に聞いたとは言わない。我々は君が不利になるようなことは口外しないし、そもそも私はすでに知っていた。そうだろう？」
「あ……、でも、どうして？ どうしてそれを？」
「我々は彼女の本当の居場所を把握している」
葛葉は再び驚きの声をあげそうになったが、幸い口元は手でふさいでいる。どういうことかと食い入るように可畏を見つめていると、葛葉の気迫が伝わったのかちらりと視線があった。
青年は好奇心で目を輝かせる葛葉とは裏腹に「そうだったのですか」と肩の力を抜く。
「妙の具合はどうなんでしょうか？」
「君は妙が本当に病を患っていたと思っているのか？」
「では、病気というのは嘘だったんですか？」
青年の表情にはあまり驚きの色がない。可畏が小さく笑った。
「君は妙の病を不自然に感じていたのか？」
「……いえ、決してそういうわけでは。ただ、その、――あまりにも突然店に顔を出さなくなったので」
「突然？」
「はい。前日までは変わらず働いていたのに、ご主人が急に病気で療養させていると……」
「そうか」
歩みをとめた青年に、可畏は道案内をうながす。青年が不思議そうに首を傾けた。
「妙がいないのに訪れるんですか？」
「確認したいことがあるんだ。ついでに君が知っていることも話してくれ」
「知っていることと言っても……」
妙の住まいには立ち入りが禁じられているが、青年は様子を探るために主人の目を盗んで見舞いに行ったらしい。訪れてみると長屋はもぬけの空で、周辺一帯には誰も住んでいないようだった。
「妙は読み書きのできない子どもに字を教えたりもしていたので。この辺りでは人気者で、彼女を心配して密かに見舞いへ行こうと思った者は、私以外にもいたと思います」
可畏と葛葉が知っている妙の人柄と一致する。葛葉はあらためて尊敬できる女性だったのだと、嬉しくなった。
「でもご主人は誰かが入ったことに気付いたのか、妙の住まいへ続く道へ門をつくって閉鎖しました。その門まではご案内できますが、今はそこから先には進めません」
「彼女がいないことを知られたくないんだろうな。まぁ当然だが……」
店をかまえている大通りとは違い、閑散とした様子の長屋が並んでいる。町屋で働く使用人の住まいとして生活感があったが、だんだんと空き家が目立つようになってきた。
老朽化が進み通り全体に補修が必要な時期に、ちょうど鉄道馬車で人の流れが変わってしまった。いずれあの廃屋と同じように、この裏手の通りも廃れてしまうのだろうか。
少し手入れをすれば活気のもどりそうな家屋である。葛葉にはもったいない気がした。
やがて青年が木材を組んで作られた門の前で歩みを止めた。忍び込もうと思えば忍び込めるような簡易的な作りに見える。葛葉は思わず本音を呟いた。
「入ろうと思えば、入れそうですね」
