甲斐拳人と池本純也……其の4
佐伯の挑戦……
佐伯が甲斐との試合を決めた翌日より、佐伯の挑戦が始まった。佐伯が練習に選んだ場所は川上ジムである。徳井は川上会長と石谷トレーナーに事情を説明し、練習の許可を貰った。
「池本も、大変な事を依頼した物だな?」
「しかし、佐伯じゃなくちゃ出来ない事です」
「徳井もそれが分かるなら、成長した証だ」
「何よりも、池の残した男をこのままには出来ないしな?」
「会長の仰る通りですよ」
川上会長と石谷トレーナーを交え、徳井は現況を話していた。
佐伯の練習は現役の時の様に、兎に角走る事を中心に行っていく。どうしても、強打の甲斐が相手である。打たれた時にスタミナを持っていかれる。スタミナ強化を第一に掲げている様である。その他にも、練習終わりのボディ踏みからボディ打ちまではこれまでよりも厳しい。佐伯もヘロヘロである。
しかし、練習はこれだけではない。試合勘を取り戻さなくてはいけない。その為に、走り込みの量が増え基本練習がハードになった上で、徳井とのスパーリングが待っている。誰の目から見ても、オーバーワークである。
「佐伯、やり過ぎだ」
そんな徳井の言葉を佐伯は無視する。
「辞めろって」
「必要なんですよ!」
「試合の前に潰れるぞ」
「だったら……それまでの男だったという事です!」
佐伯の鋭い眼差しが徳井を睨む。徳井はその目力に負け、視線をそらした。佐伯はそのまま練習に戻る。徳井は佐伯から少し離れた。
「お前の負けだな?」
石谷トレーナーが徳井の肩を軽く叩いた。
「頑固だよな~……ねぇ、会長?」
「池を思い出すな?最後の試合前の池を」
「本当に……言葉もそのままだ」
「……池本さんもホプキンスとやる時、こんな覚悟だったんですかね?」
「さあな……しかし、佐伯の覚悟は本物だ」
「池の弟子か~……確かにその言葉通りだな……徳井、腹決めろよ」
「決まってますよ。佐伯でダメなら、俺が何とかします。佐伯の想いも背負ってですけどね」
どうやら、徳井は最後まで佐伯に付き合うつもりの様である。それに対する川上会長と石谷トレーナーは、無言で背中を押している様である。
一方の甲斐の練習だが、こちらはそれ程変わりはない。ロードワークから始まりいつものジムワークへと流れ、スパーリングはパートナーをKOしてしまう為になかなか居ない。それでも甲斐はサンドバッグを黙々と打ちながら、ただただ練習に打ち込んでいた。
遂にその日が来た。佐伯と甲斐が約束し、それから3カ月が経ったのである。それぞれが川上ジムに向かった。
何故川上ジムかというと、
「池が見守る所がいいだろ?」
との川上会長の言葉で決まった。川上会長も甲斐の事が心配だったのである。
甲斐は西田会長と表れ、佐伯は徳井と表れた。
「よく逃げなかったな?」
「逃げる相手じゃねぇからな」
「甘く見るなよ」
「見る必要ねぇさ。試合が終われば、お前が1番分かってるはずさ」
佐伯と甲斐は言葉を交わすと、それぞれ着替えてアップに入った。緊張感のある時間である。
ある程度時間が経つと、川上会長が声を掛けた。佐伯と甲斐がリングに上がる。本日のレフェリーは石谷トレーナーが請け負っている。
リング中央に歩み寄った2人の所に、徳井が急いで走って行く。
「3ラウンドだ。いいな?」
「俺は構いませんよ。1ラウンド持たないでしょうから」
「……寂しいな拳人……分かりました。さて、やりましょう」
2人共に試合着になっており、グローブは6オンス。本当の試合そのままである。
徳井は佐伯の肩を叩き、すぐにリングから降りて行った。
……佐伯vs甲斐·特別マッチ……
試合は1ラウンドから壮絶な物となった。
佐伯は左ジャブから左にサークリングし、アウトボクシングに徹しようとしていた。その左ジャブのスピードと切れ、更にはサークリングする動きの速さは現役の頃そのままとさえ言えそうである。それだけ、佐伯はしっかりと練習を積んだのである。
しかし、相手は現役最強の甲斐である。何とかなる相手ではなかった。
佐伯の高速ジャブでさえ、甲斐はカウンターを合わせてしまう。その上で甲斐は間合いを詰め、強烈なボディブローを何度も佐伯に叩き付ける。佐伯がボディを嫌がると、甲斐は返すパンチを佐伯の顔面に飛ばした。見事な右フックが佐伯を捉える。更に付け加えるなら、甲斐は常にスイッチし、佐伯の距離感を奪っていた。
一瞬膝が落ちた佐伯、
(終わった)
そう思って引いた甲斐に右ストレートを打ち込んだ。甲斐の顔面にヒットする。佐伯は左手で何度も甲斐に来いとジェスチャーしていた。
(これで終わるなら、元々やらねぇよ!)
佐伯の覚悟が甲斐との実力差を埋めて行く。
ここから、甲斐は更にギアを上げて行く。どうやら、佐伯のこの態度が気に入らない様である。
ここからは、見ていても凄惨であった。
佐伯の攻撃は甲斐にかわされ、甲斐はカウンターを含めて佐伯を一方的に打ちのめす。KOは時間の問題かと思われた。しかし、佐伯はそれに耐えて反撃していた。打ち終わりにパンチを被せると、甲斐にも当たる時がある。佐伯は必死に抵抗していた。
この抵抗が、すぐには終わらなかった。甲斐の攻撃を受けながら、それでも佐伯は立っていた。気が付けば2ラウンドが終了していた。
そして、運命の3ラウンド。佐伯は最後の力を絞って甲斐に向かって行った。だからといって、甲斐が手加減する訳もない。今までの様に、佐伯が一方的に殴られ続けていた。
2分40秒を過ぎた頃、ふらついた佐伯に甲斐の左ストレートが炸裂した。しかし、佐伯はこのパンチを間一髪首を捻っていなしていた。バランスを崩した甲斐だが、すぐに右のパンチを放つ。佐伯はこのパンチを喰らい、1·2m後退した。
一気に距離を詰める甲斐、次の瞬間、佐伯の左手はスリークォーターから甲斐を目掛けて飛んで行った。スマッシュである。誰もが決まると思ったこのパンチだが、決まる事は無かった。甲斐を後ろから抱き抱える様に石谷トレーナーが止める。その甲斐の顔の前を佐伯の拳が通り抜けて行った。既にブザーが鳴っていた様である。
佐伯はパンチを打ち抜いた形で甲斐を睨み付けていた。意識は既にない。あれだけ甲斐のパンチを貰ったのである。当然といえば当然だろう。
徳井はすぐにリングに上がり、佐伯に駆け寄る。徳井が佐伯の肩を軽く叩くと、佐伯は気が付きすぐに歩こうとした。しかし、そのまま前に崩れ落ちる。徳井は佐伯を受け止め、そのままリングから佐伯を下ろし佐伯を寝かした。
「惨めだな」
リング上から甲斐が佐伯に言葉を掛けた。
「違うな……お前の負けだよ甲斐」
徳井はゆっくりと立ち上がりながら、甲斐に向かって伝えた。
「はぁ?これで?」
「ああ、間違いなくお前の完敗だ」
「……意味が分からないですが?」
「佐伯のスマッシュ、喰らっていただろう?」
「……実際」
「石谷さんだから止められたんだ。本来なら、逆転KOだよ」
「そんな筈は……」
「引退したボクサー相手に、現役世界チャンピオンが統一戦よりも時間を掛けた……それが全てさ」
「……認めない。俺は」
「待てよ、拳人」
佐伯はゆっくりと身体を起こす。
「大丈夫か?」
「まぁ、何とか……徳井さん、心配し過ぎっすよ」
佐伯は甲斐の方を真っ直ぐ向いた。
「拳人、どうして俺ごときをKO出来なかったと思う?」
「……お前はしぶといんだよ」
「違うな。俺は池本さんに教わったボクシングをしていたんだ。苦しい事は当たり前、辛い事も当たり前。しかしだ。その中にこそ楽しみや充実感、達成感が有る。俺は、池本さんにそう教わった。お前の中の池本さんは、笑っているのか?お前を救った時のあの顔に、お前は正面切って会えるのか?」
甲斐は無言で佐伯を見詰める。
「拳人、お前は池本さんに胸張って[教えて貰ったボクシングをしてる]と言えんのか?」
佐伯の言葉がジムに響き渡る。ほんの数秒の間を置き、
「うわぁーーーーーーーーーー!!!」
甲斐は頭を抱え、その場に蹲った。
「分かってたんだ、分かってたんだよ俺だって……池本さんの教えたボクシングじゃないって……でも、じゃあ俺はどうしたら良かったんだよ!池本さんを殺したのは俺なんだ!俺が弱かったから……俺が……俺がーーーーーー!」
徳井がゆっくりと甲斐に近付く。
「違うな。池本さんはお前が強くなった事が嬉しかったんだ。お前とスパーしなかったのは、お前だと情が出るから……自分を越えて行くのを嬉しいと思った時点で、お前とスパーは出来なかったらしい……お前は池本さんの自慢なんだよ」
「甲斐、徳井と佐伯も辛いんだ。それでも、それぞれが前に進んでいる……弟のお前が、みんなを引っ張らないでどうする?」
「石谷トレーナー……」
甲斐はゆっくりと立ち上がった。
「……俺、けじめを着けます……その後はまだ分からないけど……しっかりとけじめだけは着けます」
甲斐は頭を下げ、荷物を持って川上ジムから出て行った。
翌日、甲斐は緊急で記者会見を開いた。自分の引退を表明したのである。記者達は色々と質問が有った様ではあるが、甲斐は終始無言で会見を終えた。
その会見をテレビで見ていた徳井と佐伯、
「佐伯、大丈夫だと思うか?」
「大丈夫っすよ。池本イズムを1番分かってる奴なんですから……俺が出来るのはここまで。後はお前がどう立ち上がるかだそ、拳人」
佐伯はテレビの甲斐に声を掛け、西田拳闘会から出て行った。
結局甲斐は引退した。それでも、それが今の甲斐には1番いいのかもしれない。
人間には、残念ながら未来が分かる能力が無い。だから、甲斐のこの判断が正しかったのかは分からない。それでも、池本が笑顔である事は断言出来る。そして、甲斐にはその身を呈してまで戻してくれる仲間が居る。
甲斐の立ち直りをゆっくりと待つとしよう。
甲斐は、きっと大丈夫……




