第1話 見知らぬ声に導かれて
普通の生活とは何か、そんな事を考える日があった。
自分は普通なのか。答えは否。
考えを巡らせる事もなく、深い眠りに落ちていく。
――どうして!?お母様、私からこの子を奪わないで!
――ダメだ。この子は"眼"を持っている。産まれる前に対処する。
泣き崩れた少女は自分を見下ろす母親に懇願していた。年の頃はまだ十代だろう。
その母親も随分と若く、三十代前半と推測できる。
酷く冷たい目だが、その奥では焦りも感じていた。
決して娘に悟られる事なく、淡々と言葉を紡いでいる。
――椿姫。私の可愛い子。何があっても貴女を守るから。
少女は愛おしそうに、まだ膨らんですらいない腹を撫でた。
これは誰かの記憶。
直後、無慈悲に世界は反転する。
――お前が女であったならば。
――どうして!?どうして、あんたは女じゃないの!この家に男はいらないのよ!
―――
――
―
勢いよく覚醒し、身体を起こした。
何の変哲もないワンルームの仮住まい。
掛け布団を捲り上げ、額の汗を拭う。
重い身体に鞭を打ち、洗面所まで移動した。冷たい水が心地よい。
嫌な夢を拭い落とすように入念に洗顔を行った。
うっすらと記憶している母親の面影がある顔が鏡に映っていた。
少年は今日も学校へ向かう。
学校生活にはそれなりに満足していた。
決して多くはないが友人もいる。
漫然と授業を受けて、放課後は友人達と帰路につく。
そんな日々が続き、大人になるのだと思っていた。
いつものようにコンビニ弁当を買い、誰もいない自宅に着いた。
机の上にスマホを置き、部屋着に着替える。
ルーティンをこなしつつ、一息ついた時、ふと今日の夢を思い出した。
「久しぶりにあの夢を見たな」
母親の顔はほとんど覚えていない。
少年は曾祖母に育てられたのだが、育ての親はもうこの世にはいない。
曾祖母と言っても、まだ六十代の若い人だった。
少年は自分の境遇に目を向けないように努めていたが、自分ももう十七歳になった。
自分の家庭が普通ではない事に気付いている。
身の上話は友人には出来なかった。
少年は曾祖母の言葉を思い出した。
――今でも自分が必要ない子だと思っているんだろう?
小さい頃から何かあればすぐに女の子になりたいと言っていたのを覚えてるかい?
確かに女の子だったなら母親を超える当主になっていたかもしれない。
…でもねぇ、女の子だったら私とこんなに接することはなかっただろう。
私には椿が必要だったよ。こんなにも慕ってくれたんだからねぇ。
この先、必ずお前を必要とする人が現れる。その時には素直に笑いなさい。
いつまでもふてぶてしい顔をしてたら誰も声なんて掛けてくれないよ。
これが曾祖母の最期の言葉だった。
少年は曾祖母が好きだった。
だが、この言葉だけは信じられていない。
過去の記憶に囚われている少年はまだ前を向いて生きていないのだった。
「俺が女だったら…」
誰に向けた訳でもない呟きが口から零れた瞬間、まばゆい光が少年を包み込んだ。
ゆっくりと目を開けるとそこは辺り一面が真っ白な空間で、どこからともなく声が聞こえた。
「この世界が嫌い?」
「…え?」
「自分の事が嫌い?」
「…え。ぁ、はぁ?」
「これから君の事を必要とする世界に連れて行ってあげるよ~。君にはその世界を救って欲しいんだよね~」
声の主は見当たらない。
ただ何もない空間に穏やかな声だけが反芻している。
少年は立ち尽くすだけで何も理解できていなかった。
「じゃあ、君の願いを一つだけ叶えてあげるよ~。でもでも、それには大きなリスクを伴うから気をつけてね~」
少年は申し入れを承認した覚えはない。
しかし、それは確定事項とでも言うように声は言葉を続けた。
そこで少年の意識が途絶えたのだった。