皇太子の教訓
爽やかなイケメン皇子を書きたかった筈なのにヘンタイが爆誕しました。
地雷の方は避けて下さい。
「ああ、見付けた。ブランシュ。ちょっと良いかな?」
よく晴れたある春の日、ブランシュは中庭で婚約者に呼び止められた。常に穏やかな笑顔を浮かべている皇太子アシルは、この時もいつもと同じような笑みを浮かべていた。
「アシル様! ごきげんよう」
授業と授業の間の移動時間、思わぬ時に大好きな婚約者と会えたブランシュは満面の笑みで彼を迎え、丁寧に頭を下げた。
アシルも笑みを深めてブランシュの礼を受け止める。
「次の授業が歴史学ですの。移動先がすぐ近くですから、授業が始まる直前まででしたら問題ありませんわ」
「良かった。ありがとう。ごめんね、忙しい時に」
「とんでもない事ですわ。アシュ様に一目でもお会い出来てブランシュは幸せです」
大好きなブランシュとお揃いの呼び名が欲しい。そう言ったアシルに『アシュ』と彼女だけが呼べる愛称をつけたのは、もう何年も前だ。幼い頃から彼は呼び名にこだわりがあった。
愛しい人からその名で呼ばれると、途端にアシルは彼女以外に何も見えなくなる。愛おしくて堪らない。
「ブランシュ……」
「アシュ様……」
学園内でも有名な仲の良い皇太子と婚約者は、こうして顔を合わせただけですぐにうっとりと互いを見詰め合うのが常だった。甘過ぎる空気が辺りに漂う。
周囲も慣れたもので、皇国の次代は平和だと穏やかな目で遠巻きに眺めている。
将来の皇太子夫妻は今日も平和だ。
しかしそんな二人の甘やかな空気に頬を引き攣らせながら、一人の少女が足早にアシルの元へと駆け寄った。
「あの、アシル様っ!」
「えっ……」
驚きの声を上げるブランシュの肩をアシルはすぐに抱いた。微かに震えている彼女が愛しくて仕方が無い。
その反面、目の前の平気で大きな声を出す不躾な娘ときたら。何を考えているのかアシルにはまるで理解できない。
「コフス嬢……私の名を呼ぶのは止めて欲しいと何度も言っているが、直す気は無いのだろうか」
呆れた様子を隠しもしないアシルの率直な言葉に、コフス嬢と呼ばれた少女は小さく震えた。
いつもならもう少し優しく諭すアシルでも、流石に愛する婚約者の前で誤解されるような呼び方は看過できない。
婚約者でもない、ましてや他に婚約者のいる異性を、許可を得てもいないのに勝手に名で呼ぶのは失礼な振る舞いだ。しかも相手は皇太子である。
無礼にも程があるし、いっそ不敬とも取れるほどだ。
「あ……でも、学園内では生徒は平等だと……」
「許可を得てもいないのに勝手に名を呼ぶ事と、学園内では平等である事に何の関係があるんだ。私は止めてくれと再三言っている。それをその謎の理論で無視するのは完全に只の酷い嫌がらせだとしか思えない」
ばっさりと切り捨てられた少女は反論を諦めたのか、震える手を握り合わせて俯いた。
「も、申し訳ございません……、メルセルヴィーテ殿下」
「コフス様……だったかしら? アシル様の家名はそのまま国名でもありますから、皇国民でしたらミドルネームをお呼びする事が許されておりますわ」
「ミドル……ネーム?」
アシルの冷気に当てられたのか、青褪めて震えている少女に少し同情してブランシュは優しく声をかけた。
「ええ、家名だと余りにも他人行儀でしょう? アシル・シン・ヴェリテ・メルセルヴィーテと仰るのはご存知ですね? メルセルヴィーテ国の民はシン皇太子殿下とお呼びしますよ」
「あ、はい。シン皇太子殿下……」
「ブランシュ、こちらは先月私の学年に編入してきたコフス男爵家のご令嬢だ」
「初めまして、コフス様。ブランシュ・ロン・ハリスタンと申します。学年は一つ下ですが宜しくお願い致しますわ」
「あ、は、初めまして……えっと、フローラ・コフスです」
制服のスカートを軽く摘んで優雅に一礼するブランシュとは対象的に、フローラは両手を胸の前で組んだまま軽く頭を下げた。
どう見ても庶民の動作だ。
どこぞの男爵が市井にいた平民との間の庶子を引き取ったと、ブランシュもどこかの茶会で聞いた覚えがある。この娘の事だろう。
「えー、ええと、ロン様……ですか?」
「いいえ、ロンは公爵位を表しますの。私の事はどうぞブランシュとお呼び下さい。フローラ様とお呼びしても宜しいでしょうか?」
「あ、はい。ブランシュ様……」
ややこしい貴族のしきたりをこれから一つ一つ覚えていかなければならない所なのだろう。今までの常識とは全く異なるしきたりを。
男爵家でまともに教育すらしてもらえず急に学園に放り込まれた事を思えば、聞いたばかりの常識を、例え今のように間違えたとしても自分なりに咀嚼し実践しようと懸命な様は好ましかった。ブランシュにとっては、であるが。
「アシル殿下!」
ブランシュが微笑ましく思いながらフローラを見ていると、アシルの側近の内の二人が随分と慌てた様子で駆けて来た。
「フローラも一緒だったか。……ブランシュ嬢!? フローラ、無事か?」
未だアシルに肩を抱かれ、その腕の中に閉じ込められるようにしているブランシュを遅れて見付けると、側近の一人ダーナー・トスは何故かフローラの安否確認を始めた。
謎の行動にブランシュが首を傾げる。
隣のアシルを見上げると彼も首を傾げていた。
「あ……あ、あたしは大丈夫……」
「こんなに震えて……ブランシュ嬢、いい加減にしてもらいたい」
騎士団長を父に持つダーナーは、父親譲りの鋭い視線をことさらに鋭利にしてブランシュを睨み付けた。
「まあ。ほら、アシル様。人前ですわ、離して下さいな」
「嫌だ」
「アシル様……」
「ブランシュが近くにいるのに何故わざわざ距離を取らなくてはならない。非合理的だ。そもそも私がブランシュを抱き寄せているのに、ダーナーがブランシュに文句を付ける意味も分からない。
ダーナー、お前、誰に向かってそんな目をしているのか分かっているのか……?」
先程フローラに向けた視線よりも遥かに冷たく鋭い怒気がダーナーに向けられる。
自分のしでかした事を自覚したのか、皇太子の本気の怒りに触れたからか、ダーナーはすぐに頭を垂れた。
「いや、その密着度について言っている訳では……いえ。何でもありません。申し訳ございません」
「良いのよ。それより、フローラ様に何かあったのかしら?」
ダーナーの無作法をブランシュは流した。彼女にとっては今、急に貴族社会に放り込まれた元平民のフローラに一体何があったのか、そちらの方が余程気がかりだった。
「最近、フローラは嫌がらせを受けているそうなのです」
ブランシュの疑問に答えたのは、財務大臣補佐官子息のサルバトーレ・ハーバルだ。
皇太子の不機嫌な姿を見た直後という事もあり隠そうとはしているが、こちらもブランシュに対して何か言いたげな表情が垣間見える。
「嫌がらせ……ですか?」
「その事で呼び止めたんだよ。学年も違うのに分かる訳がないと思うと私は言っているんだけどね」
いつもの穏やかな笑みを浮かべた優しげな皇太子に戻ったアシルは、どこか困ったようにブランシュへそう告げた。
そしてそのまま流れるように自然に彼女の頭頂部へ顔を近付け、彼女の髪に埋もれて深呼吸をし始めた。
アシルはブランシュの、特に髪の匂いを吸うのが好きだと知っている彼女は、いつもの事だと気にせず放置して好きにさせている。二人きりになると髪どころではないので、今更髪くらいどうという事はない。慣れたものだ。
側近の二人もアシルの奇行をよく知ってはいるが、今この状況下でもそれをやるのかと些か引いた。
初めて見たフローラはアシルが何をしているのか理解できず、怪訝な顔で呆然とするしかない。
「元庶民だからと酷い嫌がらせが続いていまして、ブランシュ様にもご意見を頂ければと」
「私でお役に立てるかしら……。頑張りますわね。聞かせて下さいな」
「なんてことだ、私のブランシュが今日も可愛い」
頼られていると勘違いして気合いを入れているブランシュが可愛くて、アシルは更に彼女に擦り寄った。顔を動かす度に肌をくすぐる彼女の髪がこそばゆくて、でもなめらかで心地良い。
「あの、えっと……」
「フローラ、アシル殿下の事は気にしなくていい。いつもの事だ。何があったのか正直に話すんだ」
「私達が付いていますからね。大丈夫ですよ」
ダーナーとサルバトーレに左右から支えられて、フローラはブランシュへ視線を向けた。
「はい……、えっと、最初は些細な事でした。移動先の教室が変更になった事をあたしだけ教えて貰えなかったりとか、授業に必要な冊子を貰えなかったりとかくらいで……」
「あら? 途中でごめんなさいね。少し良いかしら?」
質問する許可を得ようとブランシュが片手を軽く挙げた。
その様子がまた可愛いと言わんばかりに、アシルが挙がったブランシュの手の甲に口付けをする。小さなリップ音が何度も響いた。
ブランシュも側近の二人もやはり慣れていて、フローラだけが驚きで固まっている。
しばしの沈黙。アシルのリップ音しかしない。なんだこれは。ここが地獄か。
「どうぞ」
アシルはブランシュの手を愛でるのに忙しいようなので、仕方無く許可はサルバトーレが出した。
「恐れ入ります。教室の変更を教えて貰えないという事は、この学園の教師陣にフローラ様を差別する者がいるという事で宜しいかしら? そうしましたら、直ちに文化省に通報をして調査を入れるように致しましょう」
「いや。違うんだよ、ブランシュ。コフス嬢が言うには、教師から伝言を頼まれた生徒が意図的に彼女にだけ伝えなかったようなんだ」
「生徒に伝言!? なんてこと、この学園には生徒を下僕のようにこき使う教師がいると仰るの!?」
ブランシュは驚愕した。これはとんでもない事態だ。
「えっ!? いや、なんでそうなるの? 待って下さい、ブランシュ様。たまたまそこにいた生徒に伝言を頼むくらい別に……」
「いいえ。いいえ! お忙しい教諭が変更の知らせを他の者に頼むのは分かります。ですが、それは助手に言い付ければ良い事。わざわざ生徒にやらせるなんて……」
すかさずフローラがツッコミを入れるがブランシュは首を横に振った。有り得ない事らしい。
「そうだよね。やっぱりおかしいよね。教師一人につき最低三人は助手が付くのだから、何か言伝があれば彼らが動く筈だ。その辺の生徒に任せて、万が一覚え間違えていたり勘違いをしたりしてミスが起きたら、その生徒にも責任が発生してしまう。そうなったらまず間違いなく親が出て来るな」
震えるブランシュに同意を示したのはアシルだ。
ようやくアシルによる手の甲への口付けは止んだが、代わりに今度は耳元に降ってくる。震えているブランシュを宥める為なのか、ただ単にアシルの趣味なのかについては誰も深く考えない。
「それも……そうか?」
ダーナーも助手の存在を思い出したのか、まだ首を傾げながらもやや納得したようだ。
フローラがそれを見て、裏切り者……とでも言いそうな顔をしているのにも気付かない彼は、些か脳筋だし短慮である。
「授業に必要な冊子を彼女にだけ渡さないのも助手の仕業でしょうか」
「そうなるね。ここの教師達は皆、学生時代に優秀な成績を納めた卒業生だ。その教師の助手もまた学園を卒業したばかりの生徒、つまり全員が貴族なんだけどね。そんな意味の分からない事をする頭の弱い輩が、将来は教師になるかと思うと頭が痛いな」
本当にそんな事が起こっていれば、の話ではあるが。
「あ、あの、それは良いんです。サルバトーレ様が何とかしてくれましたし……」
「まあ! ハーバル様、これはどういう事でしょう?」
「困っているクラスメイトを助けた事が何か?」
「そこではありませんわ。それは素晴らしい事です。私個人的としては感動する程です」
「あ、ええ……えええ? 何この悪役令嬢、素直でいい子過ぎない?」
「問題はそこではありません。ハーバル様には婚約者様がいらっしゃるでしょう? にも関わらず、他の女性に名を呼ばせるなど何をお考えなのかしら」
「サ、サルバトーレ様……あたし怖い……」
「あ〜〜〜〜ブランシュ可愛い〜〜!! 意気込んでいる君も本当に可愛いよ。滅多に見られない怒り顔だ貴重だ素晴らしい」
フローラがサルバトーレに泣き付こうと震えた声を出すが、すぐにアシルの奇声によりそれはかき消された。
普段は穏やかで物静かなブランシュがこうもはっきりと感情を露わにする事は少ない。自分に向けられたらこの世が終わるほど絶望するが、そうでなければアシルにとってはひたすらに可愛いし貴重なだけだ。
ブランシュ、可愛い。
「アシル様、前が見えません」
「私だけを見ていればいい」
興奮のあまりブランシュの頭を抱き締めたアシルのせいで、現在の彼女の視界はアシルの腕のみである。
彼しか見えない事はあまり問題ではないが、話をしている相手がいるのに目を見ないのは失礼な気がした。だが、アシルは離すつもりなどない。
そのまま、またブランシュの髪に口付けをしまくっている。
「え、えーと……何でしたっけ」
「名前、名前!」
「あ、そうだ。名前。ブランシュ様、呼び名に関しては貴女にどうこう言われる筋合いはありません。これは、私と彼女の間柄の事です」
「そう。では、貴方は婚約者のご令嬢がいらっしゃるのに、その方との関係はそのままに他のご令嬢に名を呼ばせる方……という認識で間違いありませんわね」
「それが何か?」
「いいえ。特に何も。ただ、貴方がそういう方であると自分の中の認識を改めただけです」
「本当にそう言った物言いがお好きですね。そうやってフローラにも言い掛かりをつけたのですか?」
「言い掛かり? 私が彼女と言葉を交わしたのは、先程アシル様からご紹介された時が初めてですわ。何のことでしょう」
「全く白々しい。フローラは貴女の取り巻き達から殿下に近付かぬよう、罵詈雑言を浴びせられたのですよ」
「とり、まき?」
また聞き慣れぬ単語がブランシュの前に飛び出してきた。
きょとんとしている彼女が可愛くて可愛くて仕方が無いアシルが、そんな彼女の表情の全てを目に焼き付けようとブランシュの面前を全力でキープしている。
お陰でブランシュの視界はアシル一択だし、その他三人の視界はアシルの後ろ姿一択だ。邪魔だな、この皇太子。
「聞き間違えかしら? とりまき……腹巻きか襟巻きではなく? とり……鳥? 肉巻きの仲間かしら?」
「違う、違う。ブランシュ本当に可愛いな……。取り巻き。君の権力を目当てに擦り寄って、君のご機嫌を取ろうとする者達の事だよ」
「ああ、なるほど! 取り巻きですね、理解しましたわ」
耳慣れない言葉に思わず全く関係の無いものと関連付けてしまったが、正しい答えが分かると全く違っていた。
ブランシュはそっと俯いた。ちょっと恥ずかしい。
「可愛過ぎやしないか? 私の婚約者」
世界中に同意して欲しくてアシルは周囲を見渡した。
一部始終を見守っている生徒達が大きく頷く。少し距離を置いて警戒態勢を崩さない護衛も、この時ばかりは朗らかに笑んで頷いた。ダーナーとサルバトーレ以外の側近達もいつの間にか居て、護衛達と共に控えつつ半ば呆れたように小さく頷いている。
沢山の同意が返って来て満足気なアシルは、片手を挙げて皆に謝意を示した。
「ええと、取り巻き、ですね。ご安心なさって。私の権力や後ろ立てにあやかろうとしてもアシル様が許しませんの。私には何の力もありませんわ。私と共にいて下さるのは正真正銘、私の友人方です」
「ブランシュ、君の魅力は世界一だ。その力は私を唯一魅了する力だよ。
誤解があるようだから言っておくが、ブランシュに取り巻きなんていない。その事は私が皇太子として明言する。そういった輩は全て排除済みだ。もしもまだ居るとしたら、それは明らかに私の力不足だね」
「まあ、アシル様。ありがとうございます。腕を離して頂けます?」
目隠しは継続されている。何故だ。
「それは嫌だ」
「あ、あの……っ! あたし、他にも教科書とかノートに落書きをされたり破られたりして」
「ん? ごめんなさいね、お待ちになって。教科書やノートに……ラクガキ、とは何でしょう?」
聞き慣れない言葉にブランシュが再び小さく手を挙げた。
今度はその手をしっかりとアシルに握られた上で、また口付けの雨を降らされている。けれど、そのお陰で視界を覆っていた彼の腕が外れた。
先程振りに見たフローラは微かに涙ぐんでいる。
「そ、それは……あたしの事を平民だとか庶民だって事が……」
「フローラ様個人の記述のある教科書なんてあったかしら? アシル様についてはありますけれど……」
「ブランシュ、彼女の言う落書きというのはね、彼女を貶めるような発言を第三者が彼女の持ち物に意図的に書いたって事なんだよ。初めからある正式な記述は落書きとは言わないよ」
「らくがき……落書き、ああ! 分かりましたわ。落書きの事ですね! えっ……なんてこと!? 各研究者の叡智が詰まった書物を学生の勉学用にと編集され、学園で使用して良いと陛下が許可された教科書に? そんな事を!?」
「待って、大袈裟ではない!?」
「いいえ、これは……皇帝陛下並びに編集に関わった方々や研究者達への冒涜ですわ。殿下、直ちに学園長や学園監査部門に通報を」
「そこまで!?」
むずかしい顔をして真剣に悩むブランシュに、フローラが堪らずツッコミを入れるが止まらない。
ブランシュは初めて聞く前代未聞の事態に頭を悩ませた。
「教科書の作成には私のお兄様も携わっておりますの。許せませんわ……」
「そもそも、誰かがイタズラ出来る所に教科書やノートを置きっぱなしにしている事が私は信じられないけどね。鍵のかけられるロッカーは一人に一つずつ用意されているし、所有物の管理は個々がしっかりと行うべきだよ。……どこに置いておいたんだか」
ブランシュの手を楽しげに握り締めたまま、当然の事をアシルははっきりと口にした。どこか批難めいているのは気のせいでは無いだろう。
「そ、それは……ロッカーから……」
「鍵の壊れた物も壊された物も、今年に入ってからは一つも無いよ。鍵をかけ忘れたのなら、それは尚の事ロッカー所有者本人の管理不足だ」
「アシル様、個人の管理不足はままあることですわ。そこにかこつけて嫌がらせなど……言語道断です。ここはやはりどなたか大人に相談を」
「ブランシュは本当に可愛いね。一生懸命な所がとても素敵だ」
自分の相談をしていた筈なのに、何故悉くブランシュへの賛辞となるのかフローラには分からなかった。
あと、さっきからこの二人めちゃくちゃ近く無いだろうか。近過ぎる。今更だが。私は今何を見せられているんだろう。特に皇太子。キャラが普段と違い過ぎやしないか。
「そ、それに! あたし、押されたり足を引っ掛けられて転ばされたり!」
「暴行! 暴行だわ! なんてこと!? 痛かったでしょう、恐ろしかったでしょう……お可哀想に。これは学園の衛兵達の職務怠慢ではありませんか? 犯人の捜索は勿論の事、生徒の安全を護る仕事を怠った彼らにも事情聴取をせねばなりませんね」
最早ブランシュは怒り心頭だった。
こんなか弱い令嬢に物理的な攻撃をするなど許せる事ではない。
「……なあ、なんかおかしいな? 俺はブランシュ嬢が主導しているって聞いたんだが」
「私が主導……? かしこまりましたわ。必ずやフローラ様に行なった卑劣な行動の数々を暴き、犯人を白日の下に晒してみせましょう!」
ふんすふんすと気合い十分のブランシュ。そんな彼女の顔の前に手を出す事によって、彼女の荒い呼気を手の平で受け止めて恍惚としているアシル。
側近達は主人の奇行に呆れ顔だ。
護衛達はその辺りは見なかった事にしている。
全てを呆然と眺める事しかフローラには出来なかった。なんだあれは。何度精神を立て直してもまた呆然とさせられる。
「そういう意味じゃ無かったんだけどなあ」
ダーナーが困ったように頭を掻いた。
「ブランシュ様。フローラへのイジメの数々、貴女が率先して行なった訳ではありませんか?」
「え……私が? 何故?」
「アシル殿下と仲の良いフローラに嫉妬して、貴女が色んな方に依頼してこのような事を行なったと……とある筋からの情報が入っております」
「フローラ様が……アシル様と仲が良い? ………………浮気」
「有り得ない!! 待て。待って。待つんだブランシュ! 無いから。浮気も何も確実に無いから。有り得ないから。私が君以外に触れる女性なんてシャーロットくらいだ浮気なんて絶対に無いっ!!」
シャーロット皇女殿下、御年四歳。兄弟の中で最もアシルと似ている皇国唯一の皇女にして、アシルの可愛い実の妹。
「シャーロット様……だけ?」
「そうだ。侍女や乳母すらも遠ざけた」
「やり過ぎでは」
「侍従がいる。問題無い」
厳選に厳選を重ねて侍女を決めても、悉く皇太子を狙うか彼を狙う者に誑かされるので、アシルはもう何年も侍女を部屋に近付けてすらいない。
「ああ、それと母上かな。未だに頭を撫でられる。止めて欲しい」
「まあ。微笑ましい」
「そもそも、私がコフス嬢と仲が良いなどと言う妄言がありえない。それこそ侮辱だ。そんな事を言っている者を片っ端から罰せねばならないし、辿って言い出した者を極刑に」
「してはいけませんからね」
「なんだ。ダメか」
「当たり前です。ダメですよ。真実では無いのでしたら良いのです」
「大丈夫。私の恋情の全てはブランシュにしか向けられていないよ」
「アシュ様……」
「ブランシュ……」
再びの甘い空気。
アシルとブランシュは周囲の事など忘れて、とろけた目で互いを見合った。
「待って下さい!! おかしいです、そんなの! だって、あたし、アシル様にあんなに優しくしてもらって」
「衛兵!」
アシルがフローラの叫びをかき消すように鋭い声で兵を呼んだ。
すぐに学園内を常に見回っている衛兵や、控えていたアシル個人の護衛までもが瞬時に集まった。
「この女を連れて行け! 何度言っても気安く我が名を呼ばう痴れ者だ。不愉快にも程がある!」
「なっ……お待ち下さい、殿下! アシル殿下!!」
「すぐにコフス男爵も調べてくれ。これは私を狙ったハニートラップの可能性もある」
「はっ! かしこまりました」
「ま、待って下さい! 待って下さいシン皇太子殿下、違うんです、あたしは……あたしはこの物語のヒロインです。そんな悪役令嬢に騙されないで……っ!」
「非合法の薬でも摂取しているのか? 私のヒロインはブランシュだと三つの時に定めた。他は要らん。精神鑑定と薬剤検査もするように」
「陛下への通知は如何致しますか?」
「影の護衛に向かわせてある。まあ、正直あまりにも頭が悪い故に間諜の線は薄いのだがな。ただ単に皇太子妃の立場を狙ったにしても私の好みともかけ離れ過ぎている。まるで目的が分からん。手段は問わない。吐かぬのであれば最悪、生死も問わん。徹底的に調べろ」
「はっ!」
「待って下さい!! 本当にそんなつもり無いんです! ただ、貴方の傍にいたかっただけで、そんな悪い事なんて何もしていませんっ!」
「ただそれだけの事が許されるような人間ではないだろう、君は。そもそも、そんな願いを叶えてやる筋合いもない」
たったそれだけの事だとフローラは言い募るが、それを求めている相手は大国の皇太子だ。一介の令嬢が遠慮なく口にして良い事では無い。何故、我慢をしないのか。
それが分からないような頭の悪い恋に溺れた愚か者をアシルは嫌悪している。
似たような事を言ってくる者がどれほど居た事か。
「そ、それに、あたしその人に突き飛ばされて階段から落ちたり、池に落とされたり……」
「腕に怪我はないかブランシュ!? あんな重そうな者を突き飛ばすなんて……そういう事は侍従にやらせなさい」
「ご安心なさって、アシュ様。私はそんな事はしておりませんよ」
「あたしは!? 被害に遭ったあたしの心配は!?」
「……耳障りだな。階段から落ちたのなら怪我をすれば良いし、池に落ちたのなら溺れれば良いのではないかな。お前達、それの口を塞いでさっさと連れて行ってくれ」
「アシル殿下! お待ち下さい、フローラの言い分をお聞き下さい!」
「聞く理由が無い。私は皇太子だ。一介の男爵令嬢の妄言に耳を傾けている暇も趣味も無い」
アシルは常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。いつも通りだ。
そのいつも通りである事が、側近二人にとっては空恐ろしかった。こんなにも主人が恐ろしく感じるのは初めてだ。
「サルバトーレ、ダーナー。つまらない女に唆されたお前達二人は暫く謹慎していろ。沙汰は追って言い渡す。己の過ちは何だったのか、教えは製造責任者に問うように」
それはつまり、側近解雇だと言う事。
突然の通達に二人は呆然とするしかなく、最愛だと感じていた筈の女性が皇太子の護衛に連行されていく事すら忘れ果てた。彼女が口を塞がれても尚必死に叫ぼうとしている事にも気付けない。
「ア、アシル殿下……」
「それからお前達は金輪際、私の名を呼ばぬように」
完全に皇太子は二人を見切っていた。
名を呼ぶ事を許されていたのは側近だったから。それが覆された今、皇太子は既に二人を側近とは見做していない。
暫く呆けていた二人だったが、やがて他の側近達に促されてその場から立ち去って行った。
「つまらない事に巻き込んでごめんね、ブランシュ。私だけだとあそこまでの失言を取れなくて」
「お役に立てたのでしたら何よりですわ。守られているだけが妃ではありませんもの、私も共に戦います。
ですが、正直少し残念ですね。私、本当に頼りにされた気になっていて……実際に悪事を暴くつもりでしたのよ? 殆ど嘘のようでしたけれど。あのお二人の浮気の証言くらいしか得られませんでしたわ」
「どうしよう……私の妃が可愛い上に頼れるしかっこいいし可愛い抜かり無いし可愛くて可愛い」
「彼女の話していたイジメというものは不思議な内容でしたね。何の意味があるのでしょう」
困ったように首を傾げるブランシュと同じようにアシルも首を傾げた。
二人とも訳が分からないらしい。
「よく分からないね。平民はああしているのだろうか。……ブランシュが気に入らない者をイジメるとしたらどうする?」
「ご本人と直接お話し合いもせずにいきなり、ですか?」
「そう。出来るだけ陰険な意見を聞きたい」
「そうですねぇ……。私でしたら本人には何もしませんね。まずはご実家の男爵家と繋がりのある人物達を壊しつつ、並行して学園のご友人やそのご家族に圧力をかけます」
「やっぱりそうだよね! 私でもそうする。本人に自分でちまちまと何かしてどうするんだろうね。彼女に相談された時、それをして一体何になるのか本当に分からなかったんだ。
シャーロットに相談したら、『炙り出しにちょうど良いですね。頭弱に次期皇帝の側近は務まりません。彼女に引っ掛かる側近は解雇なさいませ。無い事ばかりを並べ立ててブランシュおねえさまを蹴落そうとしておりますので、すぐに護衛の増員を』と言うから、護衛を増やすくらいなら今すぐ潰してしまおうと思って」
アシルが少しふざけてシャーロットを真似たが、驚くほどによく似ている。兄妹の中でこの二人だけが母皇后似であるし、考え方も似通っていて好みも近い。
「四歳児になんてご相談をしていらっしゃるのですか、もう」
「あれ? 皇太子殿下、ブランシュ様」
ブランシュがぺちぺちとアシルの肩を軽く叩いていると、通路を通り掛かった教諭が二人に声を掛けた。
「あら、先生。ごきげんよう」
「ごきげんよう。何かございましたか? 間もなく授業が始まりますよ」
「軽い炙り出しをしていただけです。さ、ブランシュ。授業に行こうか。また放課後に会おう」
「はい、アシル様。また後程」
その日、アシル皇太子殿下の側近二人が解雇され、残った側近達や首脳陣により後日新たに側近の選定が行われた。
新しい側近達がまず先輩の側近達から教わったのは、優秀な皇太子である主人が婚約者に行う様々な行為はスルーせよ、と言う謎のアドバイスであった。