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夢観の八葉

図書館の幽霊

作者: 穹向 水透

14作目となります。図書館は好きですか? 初夏は好きですか?



 新緑が眼に眩しい季節になり、心が自然と踊ってしまう。私は夏という季節が好きだ。細かく言えば、初夏が好きなのだ。命が命らしい煌めきを見せている。初夏は最も命の価値を引き出してくれるのだ。

 初夏の薫りに誘われて私は家を出た。履き潰した安物の靴に、意図が行方不明のデザインのTシャツ。綺麗に見えるのは、明るめのブラウンに染めたばかりの髪と新品のジーンズだけだ。

 行く宛も特になかったので、近所の川に沿って歩いた。名前は瀧新川(たきあらかわ)と言った。幼い頃、この川で転んでしまい、何針も縫ったことは今では良い思い出である。

 瀧新川に沿って進み、桃玄橋(とうげんばし)を越えると図書館に辿り着く。この町の子供なら一度は利用したことがあり、私も親しみがある図書館だ。高校を卒業してからは殆ど来なくなってしまった所為か、子供が遊園地に行くみたいにワクワクしている。

 意外かと思われるだろうが、私も本を読むのだ。さらに意外かと思われるだろうが、私が敬愛するのはラヴクラフト氏の作品である。

 図書館の入り口前には笛を吹く熊の像がある。数年前は笛が折れたりと悲惨な状況であったが、今は元通りになっている。

 図書館に入ると、まずホールに出る。中央には高く聳え立つオブジェがある。天使や悪魔の部分的特徴を有する異形のオブジェで、タイトルや作者の説明は何処にもない。大抵の子供たちは、このオブジェを避ける傾向にある。私はこのオブジェが好きだ。オブジェの根本に滑らかに九練(くね)る無数の触手がある。私が言いたいことはわかってもらえると思う。

 ホールの端にある休憩スペースで小学生数人が携帯ゲーム機で遊んでいる。私は少し喉が渇いたので、騒がしい一角へ歩みを進めた。自動販売機で無糖のコーヒーを買い、その場で喉に流した。絶妙な苦味がどうにも言い表せない。やはり、コーヒーはカフェで飲んだりするより、安価な自動販売機産の缶コーヒーで私は充分だ。庶民的思考の果てにある私だ。

 近くの長椅子に腰を下ろし、子供たちの会話に耳を傾ける。

「なぁ、これどうやって倒すのさ」

 ゲームの話だろう。残念ながら、私はゲームの文化に昏い。

「そういえばさ、今日も幽霊いたな」

 幽霊? この白昼堂々?

「いつもいるけど暇なのかな」

「そりゃ、幽霊だもん。永遠に暇だろ」

「関わんない方がいいんでしょ? 話し掛けたりすると取り憑かれて、殺されちゃうんだって」

 何の話だろう。そんなものが図書館にいるのだろうか。少なくとも子供たちの間では名のある存在なのだろう。私は興味が出てきたので、図書館で探すことにした。

 缶コーヒーをゴミ箱に突っ込んで、まだ騒がしい子供たちを背景にして図書館に入った。

 図書館という場所には独特な匂いがある。懐かしいような、新しいような。厳しいような、優しいような。相反するふたつを同時に抱え込めるのだ。子供向けの棚を覗けば、途端に懐かしさに心は溺れ、科学や機械の棚を覗けば、進みゆく時代に精神が研がれる。

 私は小説ばかり読んでいたので、科学などの専門的なエリアに足を運ぶことはなかった。大きな棚と棚の間は埃臭いが、却って懐かしさを引き出してくれる。私は植物図鑑を手に取り、パラパラと頁を捲った。知らない植物がひたすらに並んでいるが、外を歩くと見ることがあるようなものもある。

 私はジャーマンアイリスを探した。それは索引から探せば見つかった。ジャーマンアイリスはアヤメ科の植物で、瀧新川では初夏を迎えるとこの花が満開になる。

 私は、この神秘的にも思える通りを抜けて、図書館の一角、宛ら幽邃の地を思わせる場所を訪れた。そこは郷土の資料が保管されている場所で、図書館の中でも独特な雰囲気を醸し出している。空気が重く、立ち入ってはいけないというように脳が認識する。

 私はそこに少女がいるのを見つけた。ボブカットで、眼鏡を掛けている。服装は白いTシャツにカーディガンを羽織っている。彼女が読んでいたのは「瀧新川と梳山(くしけずりやま)の歴史について」という分厚い黒い本だった。彼女は眼球と偶に手を動かして、本を読み進めている。

 私は近付いて本を覗いた。細かな文字がひとつの頁で犇めき合っている。それを彼女は驚くべき速さで読み進めているのだ。

 彼女は私に気付いていないようだったので、私は彼女の前の席に座り、持ってきた植物図鑑を読む振りをした。何となく開いた頁には続随子草(ホルトソウ)が載っていた。

 彼女はその後、十五分ほど本に眼を向けたままだった。

 ああ、なるほど。幽霊というのは彼女のことなのだろう。この十五分、彼女には人間らしい動作が欠如していたように見えた。機械的な速度で眼球を左右させ、頁を捲る。恐らく、子供たちはこの状態の彼女に話し掛けたりしたのだろう。しかし、彼女は気付かない。子供は受け入れ難いものを人ではないものの名前で呼ぶことが多々ある。彼女の場合もその一例だと言える。

 本を読み終え、小気味良いパタンという音で本を閉じ、彼女は小さく口を開いた。

 彼女は客観的に見て整った顔立ちで、幼い子供のようにも、上品な妙齢の婦人にも見える。

 ふと、視線を戻すと、彼女がこちらをじっと見ていた。私が軽く頭を下げると、彼女もそうした。

「いつも、ここにいるんですか?」と私は訊ねた。

「そうですね。大抵はここに」と答えた彼女の声は優美な庭園に吹く柔らかな風のようだった。

「その本は面白いんですか?」

「そうですね。あまり共感は得てもらえないかもしれないですけど、非常に興味深い内容だと思います」

「……少し話でもしませんか?」

 彼女は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに「いいですよ」と言って、一度、席を立ち、本を棚に戻してきた。

「果たして私は、貴女と話す価値のある人間でしょうか?」

「ええ、そう思ったから提案しました」

 彼女はゆったりとした動きで椅子に座った。

「では、私から名乗りますね。私は空波阿礼(そらなみ あれ)と申します。貴女は?」

水森環( みずもり たまき)です」

「良い名前ですね、環って。環は永遠を示します」

「阿礼さんの名前は、すいません、由来がよくわかりません……」

 阿礼はクスクスと笑う。

稗田阿礼(ひえだのあれ)ってご存知ですか?」

 私は首を振る。その方面には昏い。

「古事記の編纂者として知られる人物です。彼は類い稀なる記憶力があったそうで、私の両親はそれに肖ったそうです」

「博識ですね。普段はそういった本を読んでるんですか?」

「んー、そうですね。この場所で図鑑や資料を読んで過ごしています。学校を無断欠席しているので、あまり大きな声では言えませんね」

「高校生なんですか?」

 私は驚いた。彼女の風貌から年齢を予想することは難しいようだ。

「はい。一応ですけど。吃驚しました? 私、高校生って言うと何故か驚かれるんです」

「ちょっと驚きました。何というか、良い意味で年齢がわからない外見をしてるんですよ」

「そうなんですね、あまり、鏡というものを見ないので、自分の顔がわからないんですよね」

 微笑んだ彼女の顔は中世の絵画のような温度があった。恐らく、表情による印象の変化が大きいのだろう。

「環さんは、この図書館をよく利用されるんですか?」

「いえ、久し振りに来ました」

「あまり本は読まない方ですか?」

「読みますけど、小説ばかりですね」

「その植物図鑑は?」

 彼女は私の手元にあった図鑑を指差した。

「偶にはいいかなって。花は好きですし」

「私はスノードロップという花が好きです。ご存知ですか?」

 私は首を振る。

「スノードロップは白い繊細な花です。鈴蘭のような咲き方をしていますね。この花の花言葉は『希望』と『慰め』なんですが、あまり贈り物には適さないんですよね」

「何故です?」

「死を連想させるからです。スノードロップにはある伝説があります。恋人が死んでいるのを発見した女性が、彼の身体の上にスノードロップを置きました。すると、彼の身体は雪の雫となり消えてしまいました、というものなんですが……、この命の儚さって言うんでしょうか? 私はそれが好きですね」

「ロマンチックですね」

「そうでしょうか?」

 彼女は少し頬を赤くして言った。

「失礼かもしれないんですが、ずっと図書館にいて飽きないんですか? 外の空気を吸いたいとか……」

「勿論、外の空気を吸うのは大切ですよ。でも、本を読んでいると、時間が加速したみたいに、或いは飛ばされたみたいに過ぎてしまうんです。もし、貴女に話し掛けられなかったら、閉館までこの場所で読み続けていたでしょうね」

「先程、読んでいたのは瀧新川に関する本でしたね」

「そうです。私は郷土の文化や歴史に興味があるんです。将来は民俗学者になりたいなって思うんです。そのためには、学校での勉強なんて役に立たないんです。私は私の必要なことをするだけなんです」

 なるほど、なかなかに意志の強い人のようだ。澄んだレンズの奥にある黒い眼が宝石のように見えた。

「環さんは何をやってる方なんですか?」

「私は……、私は一応、浪人生って扱いなのかな? あんまり勉強はしてないけどね」

「大学に行くつもりはないんですか?」

「あんまりない……かな。やりたいことも特にないし、行くだけ損かなって思う」

「そうなんですか。生き方はそれぞれですから、やはり、自分で決めるべきです。環さんが行くつもりがないなら、行かなくていいんじゃないでしょうか?」

 彼女は優しく微笑んだ。

 私はスノードロップを探した。

 見つけたそれは、彼女の微笑みと似ていた。

「環さんはどうして図書館に?」

「初夏の緑に誘われてしまいまして」

「あぁ、もう夏になるんですね」

 阿礼は少し曇った顔をした。

「嫌な思い出でも?」

「まぁ、一般的な観点から比較すると悲劇的な思い出と言えるんでしょうか……」

「思い出したくないなら大丈夫ですよ」

「いえ、これは忘れてはいけないこと。故に日毎に回顧しなければならないことなんです」

 彼女は息を吸い込んだ。

 私は息を飲んだ。

 彼女は息を吐いた。

「一度、外へ行きませんか?」

「え?」

「私も初夏の緑に眼を染めて、爽やかな空気を吸いたくなりました。ここは居心地は申し分ないんですが、意識が複数の方向へ向いているときは、やはり、黴臭さが気になってしまいます」

 彼女は立ち上がり、私の持ってきた図鑑を抱えて歩き出した。彼女はスムーズな動作で、図鑑をあった場所に戻した。端から見れば、司書そのものである。正直なところ、私は図鑑のあった場所を記憶していなかったので助かった。

「阿礼ちゃん、今日はもう帰っちゃうの?」と本の整理をしていた初老の女性が訊ねる。

「いえ、先程できた友人と初夏の空気を摂りに外へ」

 女性は少し驚いた顔をして、阿礼の顔と私の顔を交互に見た。そして、すぐに顔を綻ばせて、「よろしくお願いします」と言った。

 私は「こちらこそ」という言葉が自然に口から零れた。

「行きましょう」と阿礼が急かすので、私と女性はお互い若干の戸惑いを見せながら会釈をした。

 ホールの休憩スペースには、まだ小学生たちが居座ってゲームをしていた。阿礼が「お茶を買ってきます」と言って近寄ると、小学生たちはゲーム機から顔を上げ、全員が磁石のように彼女の方を向いた。そして、ひとりが静かに身体を傾けて、隣の少年に何かを囁いた。私は何となくそちらへ向かい、彼女の横に立った。

「環さんも買いますか?」

 彼女は缶のお茶のプルタブを開けながら訊いた。

 私は缶コーヒーを買った。

 小学生は依然として何かを囁き合っている。流石に阿礼も気付いたようで、眉を少し寄せた。そして、徐にひとりの小学生に寄って訊ねた。

「『図書館の幽霊』って何?」

 私は彼女の直球な質問に吃驚した。そもそも、小学生たちの囁きが聞こえていたというのが驚くべきところだ。

 当然ながら、小学生たちは硬直する。そして、ひとりの子が「ゲームのキャラクターです」と答えた。阿礼は「そうなんだ」と言って、興味をなくしたような顔でお茶を飲んだ。

 小学生たちはいそいそと荷物を纏めて、全員が弾丸のようにホールから飛び出していった。

 阿礼は眼を丸くしている。

「何だったんですかね……?」

「阿礼さん、気付いてないんですか?」

 彼女はきょとんとした顔をする。

「幽霊って貴女のことですよ」

 私は彼女に、彼女が幽霊と呼ばれる所以を教えてあげた。

「あぁ、そうだったんですね。てっきり、この図書館の歴史に関する私の知らない話かと思いまして。うーん、そうですか、幽霊ですか。初めて知りました」

 彼女は困惑したように腕を組んだ。

「顔色が悪いんですかね? それとも、髪型でしょうか? 陰気臭いとは時々言われるんですけど……」

「いや、多分、雰囲気だよ。阿礼さん、本を読んでると周りが見えなくなるみたいだから、人と干渉しない、イコール、幽霊って感じなんじゃないかと」

「そうですか。でも、幽霊って広義的ですよね。個人的にはナンセンスだと思います」

 彼女はお茶を飲みながら歩き出し、あの名状し難いオブジェの前のベンチに座った。

「このオブジェの方が幽霊のように思えません?」

「そうかなぁ? どっちかっていうと、クトゥルフ神話の神格に見えるけれど。ほら、触手が九練っているところとか」

 彼女はオブジェを凝視する。

「実は、このオブジェ、私の叔父が作ったものなんですよね」

「あ、そうだったんですね。知らなかった」

「無理はないですよ。別に有名な芸術家ではありませんから」

「何でタイトルがないんですか?」

「うーん、本当はあるんですよ。本当はね。でも、何処にも説明らしきものはないですね」

「本当は何て言うんですか?」

「『図書館の幽霊』って名前です。実は幼い頃の私が名付けたんです。今思えばセンスがないですよね」

 彼女は幼い少女のように笑った。

「小さい頃の私にとっては、天使も悪魔も人間もみんなみんな、幽霊だったんです」

「人間も?」

「はい。物を見る眼が死んでたんですね。思えば感受性の乏しい幼少期だったと思います」

 彼女はベンチから立ち上がり、缶をゴミ箱に捨てた。私も飲み干したコーヒーをゴミ箱に投げ入れた。阿礼が小さく拍手をしてくれた。

「少し昔話をしましょう」

 彼女と私は図書館から外へ出た。

 ああ、命の匂いがする。命から沸き立つ蒸気が空気と混ざっている。私は空気を思いっきり吸い込んだ。説明の難しい満足感と安心感が身体を包んでくれる。

 阿礼は入り口前の笛吹きの熊の像を眺めている。

「夏ですね」と阿礼が言う。

 私たちは瀧新川の河原に下りた。

 河原には色とりどりのジャーマンアイリスが咲き誇っている。私は青みがかったフリル状の花弁の花が好きで、家の庭でもそればかりを咲かせようとしている。

「綺麗ですね、ジャーマンアイリス」

「花言葉は?」

「『情熱』ですね」

 私たちはジャーマンアイリスの咲き乱れる道を歩いて、手を伸ばせば水に届くような位置にあるベンチに座った。

 私はまた深呼吸をした。

「この空気が好きなんですね」

「ええ。これ以上の空気なんてないですよ」

「瀧新川の元は梳山の中腹にある永名ヶ湖(えながこ)に由来するそうですよ」

「それは知ってますよ。中学生だったっけな、そのくらいの時に永名ヶ湖でキャンプをしましたから」

「私の中学も永名ヶ湖でのキャンプがありましたよ。私は休みましたけど。もしかして、同じ中学校ですか?」

「私は梳瀧(くしたき)中学校」

「同じですね」

 阿礼がクスクスと笑う。その様がとても可愛らしい。やはり、笑うと一気に子供に見えるようになるのだ。

「どうしてキャンプを休んだの?」

「うーん、体調が悪かった、ってわけでもなかったと思います。きっと、気分的な問題でしょうね」

 私の視線は対岸にあった。そこには孤児院がある。いつも活気が溢れる場所だったが、二年ほど前、その声は失われた。大人の事情は、純粋な子供を汚そうとする。孤児院の院長のトラブルで、子供たちは場所を移らざるを得なくなった。なので、対岸にあるのは正確に言うと、旧孤児院である。建物は地域の会合などに用いられ、庭は公園となっている。

「孤児院、気になりますか?」

「気になるってほどでもないけれど、昔は活気に溢れてたなって思ったから。今はすっかり淋しくなっちゃったけど」

「まぁ、移動させられたのは致し方ないことですので、今更、活気がどうのこうのは役に立たないですね。孤児院の院長が児童売春の斡旋をしていたんですから」

「え、それは初耳」

「多分、院にいた子の中でも、私ともうひとりしか知らないかと」

「え、阿礼さん、孤児院にいたの?」

「はい。親が幼い頃に事故死したので。祖父母も他界していましたし、残る芸術家の叔父には子育てなんて無理だと判断されましたから」

 彼女は微笑んで言った。今までの柔和な微笑みと同じように見えるが、幽かに影が感じ取れた。恐らく、彼女の初夏の嫌な思い出もそこに起因するのだろう。

「今思えば楽しい場所でした。何て言えばいいのかな、温度、そう、温度があるんです。私、今はひとりで暮らしてるんですけど、やはり、温もりに欠けるんですよね。夜が冷たいのは淋しいし、怖いんです」

「昔は楽しくなかったの?」

「そうですね。両親が亡くなって数年は」

「そっか」

 私は不思議な気持ちになった。この空波阿礼の人生には荒波が多過ぎる。それを彼女は乗り越えてきたのだ。しかし、まだ彼女の忌むべき思い出はわからない。それこそが最大の波なのだ。彼女はどうやって凌いだのだろう。グリーンルームに入ったのか、それとも、突破したのか。私は思い切って訊ねた。

「ねぇ、阿礼さん」

「はい」

「貴女が言う、初夏の嫌な思い出も孤児院に関係したりするの?」

「……そうですね」

 彼女は顔を曇らせる。眼が透明度を失う。

「あれは中学生の時の話でした。さっき、孤児院がなくなった理由を言いましたよね」

「うん」

「それは私ともうひとりだけが知っているとも」

「言ってたね」

「その子は、ツキネって名前でした」

 彼女は息をゆっくりと吸って吐いた。

「実は、売春の斡旋のことを警察に知らせたのは私なんです。その時には、ツキネはこの世にいませんでしたが」

「……」

「ツキネが死んだのは、院がなくなる二週間前のことでした。私と彼女はひょんなきっかけから、院長の悪事を知りました。私たちは探偵の真似事をして、それでも、院長の立場を崩せるような証拠も得たりしてたんです。あとは、これを警察に伝えるだけ……、そんなことを言っていた矢先のことでした。ツキネは永名ヶ湖で死にました」

「それはキャンプをしてた時?」

「はい。私は院で休んでいたので、生き延びましたが、彼女は……。どうやら院長は私たちが嗅ぎ回っていることに勘づいていたようなんです。そして、ツキネを永名ヶ湖で……」

「それが初夏の思い出……」

「はい。その後、院長は逮捕されました。逮捕される時、彼は私にこう言ったんです」

 私は彼女の口元に注目する。

「『ツキネの家族になってあげればよかったのに』って。私は泣きました。ツキネを守れなかった自分が悔しかった。生き延びてしまった自分が恥ずかしくなった。ツキネの亡骸は湖の桟橋の下に沈められていました」

 彼女は手を伸ばし、川の水に触れる。

「変な感じですよね。彼女の残滓はゆっくりと流れていくんです」

 彼女は手を水に沈め、微笑んだ。

「私は彼女のために生きようと思いました。そして、今、私はこうして生きています」

「ずっと本を読んでいるのもツキネちゃんのため?」

「そもそも、民俗学者はツキネの夢だったのです。ぼんやりとした私は、将来なんて深い霧の果てに隠していたので、彼女の遺した夢を自分の未来にすることにしました。何だか、ツキネを食べたみたいで、申し訳なく思いますけど」

「立派だと思うよ。私には出来ないもの」

「そうだといいんですけど……」

 彼女は眼を細めて言った。視線は虚空にあり、その焦点は定まっていないように見えた。

 彼女は勢いよく自らの頬を叩いた。

「あぁ、ごめんなさい。私、変だったでしょう?」

「思い出すといつもそうなるの?」

「そうですね。後で恥ずかしくなるんです。思い出は時間も場所も関係なく現れるので困りますね。でも、忘れるわけにはいかないので、私にはどうしようもないんです」

「……私なんかが言うのも変だし、陳腐だと思うけど、阿礼さんは、もう少しだけ、背負うものを減らしていいと思うよ。ツキネちゃんの分まで生きるのも立派だと思うけど、貴女の人生は貴女のものなんだからさ」

 私がそう言うと、彼女は靴を脱いで、川に足を踏み入れた。彼女は「冷たい」と言いながら、手で水を掬い、顔に思いっきり浴びせた。そして、雲ひとつない青空のような笑顔を見せた。

 私の心臓の辺りが何故か痛んだ。

 彼女は笑顔のまま歩き出した。

 私は彼女を眺めていることしか出来なかった。

 彼女の髪が山からの風に靡いた。小さな耳が露になって、隠された。

 風が草を撫でる音、水が滑々(つるつる)と流れていく音。それらが蝉時雨のように私の聴覚をジャックしている。

 阿礼は桃玄橋の下に座り込んでいる。

 私は彼女の元に移動した。

 彼女は手で眼を隠していた。

「大丈夫?」

「……はい」

「……」

「やっぱり、変ですよね、私」

 彼女は手をぶらりと下ろした。露となった眼の周りは赤く染まっていた。そして、眼には透明な水滴がはち切れそうに溜まっていた。

 私は手を伸ばした。

 彼女はそれを掴む。

「無様ですね、私。こんな格好じゃ、図書館に戻れないし……」

「でも、取り敢えずは図書館に戻ろう」

 私は彼女の手を引いて歩く。彼女も私の手をしっかりと離さないように握っている。

 ジャーマンアイリスが靡く道を、私たちは風に逆らうように進む。足取りは重く、彼女の足は今にも縺れてしまいそうだ。

 どうにか図書館のトイレまで辿り着いた。

「着替えとかないもんね、どうしよう」

「……今日は帰ることにします」

「じゃあ、荷物、取ってこようか?」

「すいません、お願いします」

 私は図書館の奥へ足を運んだ。本の整理をしていた女性はもういなかった。私は彼女のバッグを手に取って、本当に彼女のものなのかわからなかったので、カウンターにいた司書に訊ねた。

「ああ、それは阿礼ちゃんのよ。あと、その褪せた表紙の本も」

 司書が示したのは、酷く色が褪せた薄いノートであった。私はそれを手に取って見た。表紙には「わたしのけんきゅうノート」とある。中には地域伝承などの民俗学的な記述が所狭しと記されていた。裏を見るとそこには「泡海月音(あわみ つきね)」とあった。私はまた不思議な気持ちになった。何だか目頭が熱くなった。 

 ノートをバッグに仕舞い、私は阿礼の元に帰った。

「ありがとうございます」

 彼女は頭を下げる。まだ髪が濡れているようだ。

「今日は、何というか……、私の醜態ばかり晒してしまって、見苦しいものを見せてしまいました」

「気にしないで」

 彼女は小さく息を吐き、頬を赤らめている。

「今日はもう帰るんでしょう?」

「はい。こんな格好じゃ、何処にも行けませんから」

「送って行きましょうか?」

「ありがとうございます。でも、大丈夫です。すぐそこまでですから。それに、ちょっと、考えたいこともあるので……」

「そっか。じゃあ、気を付けてね」

「はい」

 彼女はまた頭を下げる。

「えっと、また図書館に来たりしますか?」

「うん、阿礼さんに会えるなら来るよ」

 私がそう言うと、彼女は笑顔を見せた。

「では、今度は環さん一押しの小説を紹介してくださいね」

「勿論、いいよ。じゃあ、また会おうね。約束だよ」

「はい」と言った彼女の顔は、初夏の青空に似ていた。

 私が手を振ると、彼女は大きく振り返した。もう彼女の姿は遠くにあり、柔らかな温度の空気で見えなくなった。

 私は彼女とは逆の方へ歩く。河原への階段を下り、ジャーマンアイリスの道を抜け、あのベンチに座った。

 私は足を水に浸け、空を仰いだ。

 初夏の履歴を綴り変えるような日であればいいと、私は対岸の遺跡と突き抜けるような薄い青にどうしようもないほどの想いを馳せながら、命の煌めきを感じていた。

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