32.ヴィーの足跡
よろしくお願いします。
「最初は、川ばどがんかせんばいかんやった」
一夜明け、朝食を済ませたヴィーはコレットとオルタンス、そして幾人かの王国兵を連れて町の外へと出ていた。
当初は馬車が用意されていたが、ヴィーが発した「歩きで良かさい」の言葉で、一同ぞろぞろと歩いて町を出ることになった。
町の北側、遠くに見える山々から流れてくる大河が、本流を町のすぐ隣、支流を農地へと伸ばしている。
ヴィーを先導に一時間程歩いた小高い丘の上から見ると、縦横に流れる川がよく見える。
「ここいらは、育てよっ品種によって水の引き込み方が違うとよ」
「おおーっ、すごいね」
素直に感想を述べるコレットと違い、オルタンスの方は眉間に皺を寄せていた。
怒っているわけではない。困惑しているのだ。
「ヴィオレーヌ様……失礼しました、ヴィーさん。間違いだったらすみません。この川の多くが人工的に引き延ばされたもののように見えるのですが……」
全体的に水位も低く、農地へ水を送り込むには足りない。
水を撒くだけであれば問題無いが、水を引き込むとなると無理があるのではないか。更には高い土手が作られ、より水と畑の距離を広げてしまっている。
しかし、オルタンスが気になったのはそれだけではない。資料で観た町の人口に比して、農地が広すぎるのだ。
「これだけの広さがある農地を維持するのは、相当な労働力が必要になるかと思いますが……川から水をくみ上げて撒くだけでも、かなり時間がかかってしまうのでは?」
「さんことなかよ」
ヴィーが指差したのは南。海がある方向だった。
「こん土地は、満潮と干潮でぐらいすっごと水位の変わっさ。今は干潮けんが、もうしばらくして満潮になっぎんた、水は上まで上がってくっけん、堰ば開くぎんた水は入ってくっけん」
干満の差が激しいのは、前世の故郷である佐賀の海も同じだった。だからこそ、ヴィーはそういうアイデアを持ち込むことができたのだ。
「今はよう見えんばってんが、水が上がってくっぎんた、もっと細かか水路に水が入っけん。そこから直接畑に水ば入れてでん良かし、汲み上げて撒いてでん良か」
「ですが、それならば最初からもっと浅い川にして、水門などで水量を調整することもできるのではありませんか?」
オルタンスが話した方法が王国では一般的で、国や領主が管理する水門による水量調整で農地への給水も行っている。
だが、この土地ではそれはできない。
「満潮と大雨が重なっぎんた、酷かことになっとよ」
事実、ヴィーがこの治水事業を始めるまでは、年に数回というペースで水害が発生し、農地が水浸しになって作物が台無しになる被害が何度も発生していた。
堤防を作って対応はしていたが、水の勢いと量に押し負けることが多かったのだ。
そのために、オーバン伯爵領が王国へ納める作物の指定量は、農地の広さに比してかなり少ない。
「畑ば耕しよっ人たちが餓えてしまうとの、見ておられんでさ……父上を説得するのにまる一年かかったばってんが、どがんかなったよ」
権力者である伯爵が決定を下せば、話は早い。領地の兵や農民たちを率いての治水事業は二年ほど必要だったが、結果としては大成功だった。
「ここん人たちが働きもんやったし、おいが言う話ばよう理解してくいたけん良かったとさ」
「ちょっと気になるんだけれど」
コレットが疑問を口にする。
「満潮で水面が上がってくるってことは、海の水が混じってるんでしょ? 大丈夫なの?」
海水で野菜は育たないはずだと彼女は言う。
「心配せんで良かよ。海の水と川の水は、混ざらんけん」
海水は下に、川の水は上に流れるので、水面が上がっても上部の水は真水なので問題無いとヴィーは簡単に説明した。
比重の違いによるものだが、この場にいる者でその理屈が理解できたのはオルタンス一人だけだ。兵士たちは首をかしげているばかりで、質問をすることすらできない。
「へえ、そういうものなんだ。すごいね」
コレットも理解できているというわけでは無かったが、ヴィーがそう言うならそうなんだろう、と思っていた。
こういう知識は助かるとばかりに紀行文用のメモをしているが、言葉の意味は後でゆっくり教えてもらう必要がありそうだった。
貴族令嬢で多少学があると言っても、コレットは読み書きと簡単な計算、王国地理や歴史などを知っているだけで、土地に関する知識はほとんど無い。
そういう意味で、オルタンスの理解度は非常に高い。だからこそ、気付ける。
「ヴィーさん、ちょっと……」
「なんね?」
一行から少し離れた場所までヴィーを誘い出したオルタンスは、膝を突いてまで視線の高さを合わせ、両肩にしっかりと手を置いた。
「近くで見たら、コレットに少し似とっね。目の形とかそっくいやんね。二人とも美人さんやねぇ」
「あ、ありがとうございます。……いえ、そういうのは置いておいてですね」
咳払いを挟む。
「このような知識を、いったいどこで? はっきり言って、王国の土木建築担当文官でも難しい内容の話ですよ」
「おや、そがんね」
これはしまったとばかりに、ヴィーは自分の額をぴしゃりと叩いた。
すっかり忘れていた昨夜の傷が痛くて涙がにじむが、思考ははっきりしている。
「まあ、秘密にしとくばい。そいよいた、他んところば見らんで良かとね?」
「秘密、って……。わかっておいでなのですか? このような知識を持っているとわかったら……」
「どがんもならんよ。おいはここん土地やけん分かったばってん、余所に行ったけんて役には立たんさ」
事実、この領地がたまたま故郷に似た状況だったからできたことであって、特別に何か土木や治水に関する知識があるわけではない。
故郷で有名だった人物の治水灌漑事業のことを思い出して持ち込んだだけなのだから。
「さあ、次さん行こうさい。みんなで苦労して作ったとのあっけんさ」
一行の下へと戻ったヴィーは、不安そうにしているコレットに「大丈夫」と伝えて、来た時と同じ足取りで歩きだす。
上流で水の流れを弱めるための『井樋』や、そこから人工河川へとつなげる分水の方法などを簡易に説明して回る。
ヴィーは得意満面に語り、コレットは素直に感心しながらメモを取り、兵士は理解を放棄してただただのんびりと歩き続けた。
そして、オルタンスはヴィーの評価を内心で書き換える。
自分の父親を殺すような人物だと知っていたころに比べて、百八十度の変更だった。もしヴィーが男性なら、年齢差など一切無視して求婚し、領地に連れて帰っていたかも知れないほどだ。
だが、できることはある。
昼過ぎには屋敷に戻って解散となると、食事に行くというヴィーたちに挨拶をして、オルタンスはすぐさま代官の執務室へと飛び込んだ。
「ヴィーさんの件ですが」
「彼女の? 領地の件ではなく?」
順番に話します、とオルタンスは代官の前で今日の視察での出来事を語り、ヴィーという存在がどれほどこの領地の収穫増加に関わっているかを説明する。
「関わっているというより、彼女がいたからこそというべきだな」
代官は冷静に話しているが、内心では驚いていた。
彼は基本的に財務閥で土地の改良などには疎い方ではある。それでも、ヴィーがオーバン伯爵を説得してやり遂げたことの重大さは理解できる。
「領民たちに人気がある理由もわかるが。同時に伯爵が彼女の存在をあまり表に出さなかった理由もわかるというものであるな」
それほどの才能を持った娘であれば、他領地の貴族から相談が殺到するであろうし、場合によっては王からお呼びがかかる可能性もある。
しかし伯爵は、王国への貢献よりも私財を増やすことを選んだのだ。
「隠された才能の発見ということであるな。であれば、この地の収穫量が増加した理由も判明したことであるし、報告書をまとめれば一段落ということになる」
「それなのですが、一つお願いがあります。報告書を届ける役目を、私にやらせていただけませんか?」
「ふむ……理由を聞こうではないか」
武官が戦功による昇進を目指すのと同様、文官も成果を求める。オルタンスが報告を行う役を求めるのは当然であり、調査担当なのだから不自然でもない。
それでも、責任は代官であるシプリアンにある。把握しておきたいのも当然であった。
「報告する相手は、イアサント・ムイヤール様ですよね。……私は、あの方ともっと親しくなりたいのです」
「親しく、か。君は若い。失礼ながら、近衛騎士隊長どのも同様で、独身でもあられる。恋愛大いに結構であると私は思うよ。しかし、良いのかね? 彼も君も、貴族家を継ぐ立場にあるのであろう?」
イアサントの気持ちが不明な状態では杞憂に過ぎないかも知れないが、本来ならば貴族家か裕福な豪商などから結婚相手を選ぶべき立場の二人だ。
結婚するとなれば、どちらかの家は別の人物が継がなくてはならない。
「私の方は問題ありません。優秀な“妹”がいますから。……ムイヤール様にとっても、悪い話ではないはずです」
ヴィーはすでに貴族の地位を失っており、彼女自身をイアサントの妻とするのは難しい。だが、ヴィーから知識を教わった人物としてオルタンスが王国官吏として活躍できるならどうか。
「私は、王国の臣としてこの国の発展に尽くしたいのです。……そのためにも、領地運営にかかりきりになる領主ではなく、文官として長く働ける立場にありたいのです」
「ほう……」
それほどの熱意を持っていたとは代官には意外だった。真面目で優秀な文官だとはわかっていたが、人生を捧げるほどの覚悟があるとは。
オルタンスが言う“立場”は簡単で、貴族でなければ王政府所属の文官にはなれず、領地持ちの貴族家当主では不都合が多い。
「よかろう。ただし、報告書はまず私が確認してから提出するように」
「わかりました。ありがとうございます」
「なに、感謝する必要はない。優秀な文官が長く勤めてくれることは、私にとっても喜ばしいことであるからな……君の恋が無事に実ることも期待しているよ」
「う……」
代官に語った理由も嘘ではないが、敢えてイアサントを狙った理由は、ある意味で純粋なものだった。
「し、失礼します」
赤面を隠したいのか、すぐに顔を逸らしたオルタンスは小走りに出ていった。
「……ふむ。王国もこのままなら安泰であるな」
だが、代官シプリアン・エモニエの仕事はすんなりと終わることは無かった。
「代官様!」
「騒々しいな。どうかしたのかね」
駆け込んできたのは、屋敷を守る王国兵の一人だった。
「それが……代官様とヴィオレーヌ様にお話がしたいと町の者たちが来ておりまして……!」
「“たち”と言ったな。複数来ておるのか」
「複数というか……数十名に達します。それも、武装しております!」
「なんだと!?」
慌てて木戸を開いて門へと目を向けたシプリアンは、喉の奥から絞り出すような唸り声を漏らした。
門の前には、中年から高齢者といった年齢層の市民たちが押し寄せていた。手に剣や槍を持ち、中には鋤や鍬といった農具を握っている者たちもいる。
「と、突然どうしたというのだ……」
代表者を名乗る者が代官に面会を求めているらしい。
しかも、「代官とヴィオレーヌを守るために」と。
ありがとうございました。
次回もよろしくお願いします。




