2 ブラウニーの不羅宇さん
時刻は午後十時、まだまだ宵の口だ。空を見ると、雲が出ていて月は隠れていた。
五階の角部屋、その玄関から外に出ると、じっとりとした熱気が全身を襲った。噂話が好きなおばちゃんが質問攻めしてくるかのような鬱陶しさだ。今日も熱帯夜らしい。さっきまで冷房の効いた部屋にいたから、その温度差がダイレクトに伝わってくる。何なら二倍の暑さだ。倍なんとかだ。
「あっつぅ~」
思わず口から言葉が漏れ出た。でも、どんなに願っても涼しくはならないので、私は諦めて歩き出す。
季節は八月。夏真っ盛り。太陽の活動限界に余裕がありすぎて困る。あいつはもっと、力抜いて良いと思うの。まさか、いや…もしかして空元気? 可哀想に。
そうそう、太陽と言えば言いたいことがある。
太陽が地表を温めて、その熱が逃げきれていないせいで、今の私は半袖を着る羽目になっている。本当は長袖を着たいのだけれど、この暑さの前では半袖に屈するしかなかった。
仕方ないことではある。過ごしやすさの方が大事だ。逆に、夏に長袖でいると不審に思われる気もするし。ほら、不審者ってできるだけ個人を特定されないように、変装とかするじゃない? あれよ。
白すぎる肌はコンプレックスだから、なるべく隠したいのだけれど、暑いよりかはまだマシ。
早く冬にならないかな。そしたら、全部隠せてしまえるのに。あまり肌を人前に晒したくないのだ。これは種族的なものではなくて、個人的な感情だ。個人的ではなく、個吸血鬼的かもしれない。長いから個鬼的かな? まぁ、どうでもいいけれど。
ちなみに、吸血鬼の肌はみんな白い。太陽にあまり当たりたがらないからかな。中には露出過多な奴もいる。
テレビとかでよく、素足を曝け出した都会の女性たちを見るけれど、あんなに肌を見せて恥ずかしくないのだろうか。ホットパンツとかあり得なくない? だってアレ、視線が集中して嫌でしょう? ホットパンツの語源は、その服を見つめる視線が熱いことからきているらしいけれど、下賤な視線はちょっと、ねぇ。特定の対象がいるのならまだしも、不特定多数に見せつけたいとは思わない。
ので、私は長めのズボンを履いている。ジャージの。
…分かっている。みなまで言うな。だから、こう言わせてもらおう。
私に、女子力を期待するな。
う~ん、でも、少しくらい気をつけるべきだろうか。オシャレ力を身に付けるべきかもしれない。オシャレ力は女子力に直結している。オシャレ力を制する者は、女子力を制す、だ。今考えた言葉なので、真に受けないように。
そんな風に、女子だけに許された力について考えつつ、ポケットから鍵を取り出す。玄関の鍵を閉めて、一つため息をついた。玄関を出るまでの決意が揺らいできたせいだ。
夜の散歩は好きだけど、見回りはあんまり好きじゃない。他人の面倒まで見る余裕はないから。いや、余裕がないというより、構いたくない。勝手にやってろと思う。でも、渚との約束があるから仕方なくやる。やってやる。仕方なくだからね!
(よし。少しだけやる気が出た)
誰かに求められたツンデレを済ませたところで、私はマンションの五階から、眼下の道を見下ろした。
マンションの前は道が通っていて、まだまだ車が走っている。人は、いない。この時間帯になると、皆すでに家路についている頃だ。いるとしても、社畜の方々だろう。
限界を超越して働く方々に、敬礼。
彼等の境遇を想像すると、何だか私まで足取りが重くなった…。社畜の安寧、虚偽の繁栄。某アニメの替え歌の歌詞が浮かんできた。
深呼吸して一度マインドリセットをする。わずかに気持ちが平常に戻った。ほんの僅かだけど。夜の空気を取り入れたことも影響しているかもしれない。私は夜側の生き物だから。
気を取り直して、廊下を進む。それから、マンション中央にあるエレベーターに乗って一階に行くと、広いエントランスに着く。冷房が入っているのか、涼しく感じる。
天井にはシャンデリアが吊られている。今は光が灯っていて、キラキラ輝いていた。床はその光を反射するほどに綺麗だ。歩く度にコツコツと良い音が鳴る。
エレベーターから降り、少し進むと、出入り口付近に見知った顔があった。このマンションの管理を手伝っているブラウニーという妖精だ。名前は不羅宇。
身長は160センチほどで、長いスカートのメイド服を着ている。秋葉の奴みたいに、可愛さやエロティックな感じを優先するものではない。なんちゃってメイドではない。しかし、彼女の頭にブリムはない。ブリムとは、頭に装着するフリル素材のヘッドドレスのことだ。フリル素材が白いと名称がホワイトブリムになる。何故着けていないのか聞いたことがあるけれど、そこは「何となく」らしい。
不羅宇は、茶色の長い髪をポニーテールにしていて、いつも穏やかに笑っている奴だ。その柔らかな笑顔に癒される者も多く、マンションに住む男たちにも人気があるらしい。風の噂で聞いた。私も彼女の笑顔に癒されている。
「あら、月子さん。こんばんは」
微笑む不羅宇。ズキューン。いかんいかん、平常心平常心。
「あ、あぁ、不羅宇。こんばんは。何しているの?」
「エントランスの掃除です。少し汚れていましたので、箒で掃いていたんです」
見ると、彼女の手には箒とちりとりが握られている。が、次の瞬間、ポンと軽い音を立てて消えてしまった。掃き掃除が終わって、手元に置いておく必要がなくなったからだろう。
「いつも思うけど、それ便利よね。物を手元に呼び寄せるのって」
「そうですね。掃除用具のみという制約はありますけれど、確かに便利です。マンション管理にも大変役立っています」
良いよね、アポーツって言うんだっけ? あれアポートかな? 同じような力が登場するラノベを読んだ時は、便利な能力で羨ましかったのを覚えているんだけれど。記憶した名称が曖昧だ。
「私もそういう力が欲しいな~」
「何をおっしゃいます。月子さんこそ、分身できるじゃありませんか。私にも同じことができれば、お掃除がもっと捗りますのに…」
どんなことでも、管理のためか。
「不羅宇は、ブラウニーの鑑だなぁ」
「種族的なものかもしれませんけれど、もはや私の生き甲斐ですね」
そう言う不羅宇は誇らしげだった。
「月子さんはこれから見回りですか?」
「うん、渚からも頼まれているからね。面倒だけど、散歩ついでに行ってくる」
「最近は、私たちよりも変な人間も多いので、お気をつけて」
「不羅宇も掃除のし過ぎで倒れないようにね」
お互いに一言、心配の言葉をかけた。
それにしても、変質者か。何だかフラグみたい。
手を振る不羅宇と別れる。エントランスの出入り口を抜けると、夜の熱気が戻ってきた。自分の部屋、部屋の前の廊下、エントランス、入り口前、と移動するごとに気温が違うので、体が少し怠い。寝起きは良かったのに。不羅宇の笑顔成分も、さすがに怠さには敵わないようだ。
「今日は早めに切り上げよう。そうしよう…」
疲れを翌日に持ち越したくないので、見回りに出る前に心に誓う。
夜はまだ、始まったばかりだ。
<キャラクター情報>
・不羅宇さんは、マンションの管理を任されている。
・不羅宇さんは、甘いものがお好き。自室でよく、お菓子を作っている。たまにおすそ分けする。