8 Baseballer③
バッティングの基本は、センター返し(ピッチャー返し)。マシンから射出されたボールを、夏来は真っ直ぐ正面に向かって打ち返す。
一ノ島から戻った丹波連城高校野球部は、打撃練習――マシンバッティングを行っていた。ピッチングマシンが打者の前方に設置され、また打球が逸れた時の為に、バッティングケージなどと呼ばれる柵上の網で打者の周りを囲ってある。
自分の番が終わりケージから出ると、夏来はヘルメットを脱ぐ。しかし、それで一息つくでもなく、次は大声で呼びかけ始めた。
「樟葉ー」フェンスの外から見学している彼女に、そう言って手招きする。「見てるだけじゃつまんないでしょ。いい加減、こっち来なよ」
「別にいいよ」
そう短く断る樟葉。練習が始まってから、ずっとこの調子だった。樟葉の性格を考えると、平生からだと言うべきかもしれないが。
こうなったら実力行使しかないだろう。夏来は一旦、自分もフェンスの外に出ると、樟葉の手を引っ張る。
「いいから、いいから」
「鬱陶しい……」
じっとりした視線を背中に感じながら、夏来はほとんど腕ずくで、樟葉をグラウンドへと連れ込んだ。
せっかく、ここまでついて来てくれたのである。樟葉には練習を見学するだけではなく、実際に体験してもらいたかった。
打撃練習の最中だけに、尚更そう思う。バッティングセンターが娯楽施設として成り立っていることから考えて、ヒットやホームランを打った時に爽快さや心地良さを覚えるのは、一般的な感覚だろう。だから、マシンバッティングを通じて、樟葉にも野球の面白さを分かってもらえるかもしれない。
そんなことを考えて、バッティングケージまで樟葉を先導する夏来。その傍には、ケージからこぼれたのか、ボールが転がっていた。
何気なしにそれを拾った樟葉は、驚きの声を上げる。
「何これ、カッチカチじゃん」
「硬球って言うくらいだし」
門外漢というのは妙なところで驚くものだ。当然のことと夏来はそう答えた。
樟葉はこれに、不安げに尋ねてくる。
「本当にこれでやるの? 危なくない?」
「危ないには危ないよ」
夏来はけろりと言い切る。その為のバッティングケージであり、その為のヘルメットである。
「ピッチャーの投げたボールが頭にぶつかって、亡くなった事故もあるから」
これを聞いた瞬間、樟葉の顔からさっと血の気が引いた。表情こそほとんど同じままだが、白皙の肌が蒼白に変わっている。
怖がらせるのは本意ではない。夏来は慌てて付け加えた。
「大丈夫! 昔の話だから大丈夫!」
クリーブランド・インディアンスのレイ・チャップマンが、頭部死球を受けて死亡したのが一九二〇年。彼の死を契機にヘルメットの導入や改良が進んだとされ、現在ではABS樹脂やポリカーボネート製の硬くかつ軽いつくりで、なおかつ側頭部までカバーする為の耳あてつきのものが広く普及するまでになっていた。
また同様に、医療技術の進歩もある。デッドボールで怪我を負うことはあっても、死亡事故にまで至るケースは考えにくい。
夏来の説明に、樟葉は大分普段の調子を取り戻していた。つまりは、悪態をついたのである。
「怪我したら漫画描けなくなっちゃうじゃん」
「元々描いてないでしょうが」
夏来は眉根を寄せる。抜け抜けとよく言うものだと思うが、マシンバッティングを拒否したいという気持ちから出た言葉のようだった。
「私は痛いのダメなんだよ」心底嫌そうな口振りで樟葉は続ける。「あとは、血とか内臓とかグロいのも」
「へー」
意外な弱点だった。アニメの中でも特に日常系が好きなのには、そういった部分も影響しているのだろうか。
しかし、マシンバッティングが駄目となると、他に何の練習を勧めるべきか、夏来は考え込んでしまう。まさか素振りのような地道な練習だけさせて、それで面白がってくれるとも思えない。
そうして迷っているところに、穂波が現れて助言をした。
「打つのがダメなら投げてみたら?」
言われてみれば、何も打撃練習にこだわる必要はなかったかもしれない。バッティングセンターには、制球力や球速を測るストラックアウトを設置しているところもある。年上だからか、第三者だからか、ともかく妥当な提案だった。
それに、夏来個人としても、穂波の意見に賛成したい部分があった。
「そういえば、肩強いんだった」
それが樟葉を部に勧誘しようと思った、そもそもの理由である。是非一度、生で見てみたいものだ。
とはいえ、当人の意思も無視はできない。
「どう?」
「投げるだけならいいけど」
樟葉は渋々とそう承諾した後になって、下を向いて躊躇いを見せる。制服で来て、着替えもないから、スカートルックだったのだ。
「……まぁ、ここらでサービスシーンも必要か」
「何の話?」
「こっちの話」
よく分からない理屈で納得する樟葉に、夏来は不審な顔をするしかなかった。
その後、部員たちからグラウンドを使う了解を取ると、軽くウォームアップを済ませ、いよいよ樟葉の強肩のお披露目となる。
ホームベースの後ろに立つ樟葉。そこから助走をつけ、ボールを全力で投げる。
身体能力が優れていることもあるが、技術的な面も決して悪くない。適切なステップ、適切な角度でボールが投げ出されていた。
ボールの速度や角度から、打った瞬間ホームランか否かが分かるように、投げた瞬間にどれだけの記録になるかも、ある程度推測がつく。そして、この時、夏来は驚きに目を見張っていた。
夏来が直感した通り、ボールはぐんぐんと伸びていった。空を悠然と飛ぶように、ひたすらに長い放物線を描く。
ようやくボールが着地したその場所は、グラウンドのはるか後方――センター最奥付近だった。
「おおー!」「すご~い」
練習の手を思わず止めて、異口同音に賞賛の声を上げる部員たち。野球部の目から見ても大記録なのである。
ボールの着地点から、穂波がその距離を推定した。
「100メートル弱ってところかしら」
一部のプロ野球チームでは、スカウトによる通常の調査以外に、直接志望者の能力を見る入団テストを行うところもある。たとえば、神戸タイタンズの一次試験の基準――どの球団も似たようなものだが――は、遠投90メートル以上、50メートル走6秒5以下となっている。
以前に本人から、50メートル走のタイムは6秒4だと聞いていた。単純に考えれば、樟葉は現時点で一次をパスできることになる。
だから、夏来は顔を強張らせていた。
「……アンタ、本当に素人なのよね?」
「そうだけど」
大記録に喜ぶでもなく樟葉は答える。何度も聞くな、という答え方である。
対照的に、示された才能の片鱗に、夏来は強い興味を覚えていた。樟葉がどこまでやれるのかを見てみたかった。
「今度はマウンドから投げてみてよ」
樟葉は内野の中央、小高く土の盛られた場所を指して言う。
「マウンドって、あのピッチャーが投げるとこで合ってるよね?」
「そうそう」
頷く夏来。樟葉がピッチャーとしてどこまでやれるのかを見てみたかったのだ。
これに、普段捕手を務める穂波が、「あ、じゃあ私、キャッチャーやるわね」と買って出た。防具を一式身につけて、ホームベースの後ろにしゃがみこめば、準備完了である。
樟葉が初めてのマウンドに立つ。
未経験者だから見様見真似のはずだが、そのフォームは思った以上に様になっていた。矢を射る為にまず弓弦を引くように、足を上げ、腰を回し、一度体を後ろへ捻る。
そして、蓄えたエネルギーを一気に開放させる。上げた右足で前へと踏み込むと、同時に左腕が振り下ろされた。
ハンドボール投げ50メートル、遠投100メートル弱を誇る強肩。そこから放たれた球は、素人離れしたスピードボールとなった。
捕球の瞬間、キャッチャーミットが乾いた音を響かせる。見物に集まっていた部員たちは、今回も口々に驚嘆の声を上げた。
「速いねー」
夏来は率直に、樟葉の球をそう評した。
それから、「コントロールも悪くないし」と続ける。穂波が元々ミットを構えた位置から、ボールは大きくは外れていなかった。コースがど真ん中だったとはいえ、制球難からそもそもストライクゾーンに入らない投手だっているのだ。
マウンドから降りた樟葉は、褒め言葉に照れるでもなく尋ねてくる。
「今の何キロくらい?」
「120キロは間違いなく出てたと思う」
スピードガンのようにはっきりした数字は出せないが、夏来は経験からそう請け負った。
「そうね」捕球した穂波も、夏来に同意するようなことを言う。「130キロ出てるか出てないかくらいかしらね」
だが、これにも樟葉は顔色を変えなかった。
「ふーん……」
「反応薄っ」
かえって、夏来の方が狼狽してしまう。球速は投手の力量を測るバロメーターの一つである。遠投などの記録と比べて話題になりやすいのだから、もっと驚いてもよさそうなものだが。
しかし、話題になりやすいからこそ、樟葉は逆に価値観が歪んでしまっているようだった。
「だって、前にネットで盛り上がってるの見たけど、プロは160キロ出るんでしょ? さっきの試合でも150キロとかだったじゃん」
「それはどっちも極一部の超人の例だから」
選ばれた一握りの天才が、努力に努力を重ねてようやく到達できる領域だろう。いくらなんでも比較対象にするには遠過ぎる。
「高校野球なら、最速が140超えたらプロのスカウトも注目するような上位層の選手、150超えたらプロ入り間違いなしの超高校級の選手って感じかな。
多分だけど、平均は高めに見ても125キロくらいだと思う。だから、高一の素人が130投げられるって十分凄いことだからね」
未経験者なら三桁に乗るだけでも上等だろう。130キロは本来、日頃ろくに運動もしていない人間が出せるような球速ではないのだ。それこそ、一握りの天才であることの証明かもしれない。
そう伝えても、樟葉に喜ぶ様子はなかった。代わりに質問を続ける。
「そういう夏来は?」
「私?」
夏来は誤魔化さず、正直に答える。
「私は120キロ出るか出ないかくらいかな」
「何かゴメン」
「絶対悪いと思ってないでしょ」
夏来はそう言って睨む。謝る体で小馬鹿にされたとしか思えない。
ただ、夏来は何も意地になって言い返したわけでもなかった。コントロール、変化球、フォーム、投球術…… 具体的な数値が出る為に何かと話題になりやすいが、球速だけでピッチャーの優劣が決まるわけではない。それを知っているからこそ、先程誤魔化さずに答えたのである。
夏来はそのことを教えようと考えたのだが――
「樟葉?」
当の樟葉は何を言うでもなく、フラフラと歩き出していた。こちらを振り返ると、その意図を答える。
「ダルいし、もういいでしょ」
「えぇー、ちょっと投げただけじゃん」
そんな夏来の抗議を無視して、樟葉はグラウンドを後にする。最初の時と同じく、フェンスの外にでも出て、見学をしようというのだろう。
どうしたものかと思うが、あまり無理強いするとかえって逆効果かもしれない。強引な勧誘に対する反発から口が悪くなった面もあるだろうが、樟葉は大の野球嫌いを公言していた。今日、これだけ付き合ってくれただけでも十分ではないか。夏来はそう考え直す。
グラウンドでは、部員たちが既にマシンバッティングを再開していた。メニューはまだまだ残っている。夏来も練習に戻ることにする。
その練習の様子を、樟葉は外からじっと見つめていた。