6 Baseballer
「樟葉ー! おーい!」
集合場所である駅前で、先に待っていた夏来が、子供のように大きく手を振って呼びかけてくる。いつもなら、これに悪態の一つでもつくところだが、しかし今日の樟葉にそんな余裕はなかった。
「暑い……」
日本の夏である。日中の屋外である。暑くないわけがない。
七月二十八日。日を追うごとに太陽が輝きを増して、夏が盛りに向けて進んでいくのが分かる。もしかすると、今夏の最高気温を記録するのは今日になるかもしれない。
七月の月末となれば、とっくに夏休みに入っている時期である。過去の例から言って、本来なら今頃は、冷房の効いた部屋でネットサーフィンなどに興じていたはずだろう。一体、どこで何を間違えたのだろうか。
「帰りたい……」
「今来たばっかでしょ」
のろのろと現れたかと思えば、会うなり愚痴をこぼし始める樟葉を、夏来はそうたしなめた。この調子では、とても帰してくれそうにない。
野球観戦はいいとして、せめて部屋でテレビ中継を見るあたりのところで手を打ってはくれないだろうか。そんな折衷案を樟葉が考えていると、
「この子が、お友達の阿久津樟葉ちゃん?」
先にいたもう一人が、夏来にそう尋ねた。
淑やかなロングヘアーに、人好きのする優しげな顔立ち。笑顔一つ取っても、物腰の柔らかさが伝わってくる。ただ明るいだけの夏来のそれとは好対照と言えそうだった。
野球部の活動の一環だから、他の部員も一緒だということは樟葉も聞かされていた。おそらく、彼女がそうなのだろう。
夏来はまず彼女の問いに「うん」と頷くと、次にこちらに対して推測通りの説明をした。
「紹介するね。野球部の副キャプテンで、キャッチャーの古家穂波ちゃん」
「よろしくね」
柔和な、安心感を覚える微笑で、穂波が笑いかけてくる。比較的長身の上、格別豊満な体つきが、その笑みをより効果的にしていた。
しかし、それはそれとして、気に入らないものは気に入らない。
「別に日高さんとは友達でも何でもないですけど、どうも」
この訂正に、穂波の微笑が微苦笑に変わる。夏来はもう慣れっこのようで、「こういう奴なのよ」と傷ついた様子もなく語った。
樟葉は樟葉で、勢いだけで言葉足らずな夏来には慣れっこだから、仕方なしに自分から質問していた。
「穂波ちゃんってことはタメなの?」
野球部の――学校の活動の一環ということで、樟葉も含めて制服で来ていた。そして、丹波連城高校では、持ち上がり制で学年色が定められており、今年度は一年が赤、二年が青、三年が緑となっている。
だから、胸のリボンを見て、樟葉は気付く。
「あ、でも、二年か」
「私たち、幼馴染だから」
そう説明した後、夏来は弁解を始めていた。
「他に人がいる時は、ちゃんと敬語使おうと思うんだけど、つい出ちゃうんだよねー」
「私も部のみんなも、気にしないからいいって言ってるのに聞かなくって」
穂波の声に、からかうようなところがあったからだろう。夏来は困ったように、「そう言うけどさぁ」などと曖昧な反論をする。
いかにも気心知れた者同士という雰囲気だった。これまでどんな風にして時間を重ねてきたかは分からないが、幼馴染で今でも同じ学校、同じ部活なのだから、仲が良いことは確かに違いない。
二人のやりとりに、樟葉がぼんやりとそんなことを思っていると、穂波はそれまで幼馴染に向けていた笑顔を同じようにこちらに向けてくる。
「樟葉ちゃんも、気軽に〝穂波ちゃん〟でいいわよ」
「分かりました、古家先輩」
「手強い!」
提案をまるきり無視するような発言に、穂波はそう声を上げた。
しかし、樟葉はそれすら無視して周囲を見回す。見た限り、まだ二人しか来ていないようだった。
「他の部員の人は?」
「先に行ったよ」夏来はビデオカメラを持つようなポーズを取る。「色んな角度で映像撮るから」
これに、穂波が補足した。
「観戦と言っても、相手チームを研究する意味もあるのよ」
説明を聞いて、「色々面倒なんですね」と樟葉が言うと、穂波は苦笑いし、夏来は目をつり上げる。
そんな会話を交わした後、三人は球場へと向かった。
◇◇◇
一ノ島総合運動公園野球場――通称、一ノ島球場。
最寄駅から徒歩三分。収容人数約4万人。両翼100メートル、中堅122メートル、グラウンド面積約1万3000平方メートルと比較的広く、ホームランの出にくい投手有利の球場。
そして、地元兵庫県の女子プロ野球チーム、神戸タイタンズの本拠地にして――
女子高校野球兵庫県大会の決勝戦の舞台である。
その観客席に座った樟葉の漏らした感想は、次のようなものだった。
「暑い……」
これに続けて言う。
「帰りたい……」
「そればっかりだね」
待ち合わせの時から今に至るまでに、一体何度同じ言葉を聞かされただろう。今日の樟葉の発言は、この二つのローテーションで成立しているのではないかとさえ夏来は思う。
穂波はそんな樟葉を――あるいは、それに対する夏来の反応も――見かねたように、二人の会話に割り込んだ。
「スポーツドリンクあるけど飲む?」
「あ、すみません」
心なし嬉しそうに樟葉がコップを受け取るのを見て、穂波は更に勧める。
「帽子に、冷やしたタオルもあるわよ」スポーツバッグから、次々とモノを取り出す穂波。「団扇で扇いだ方がいい?」
「過保護だなぁ」
穂波も穂波だと、夏来は呆れてしまう。
スポーツドリンクやタオルで体を冷やすと、頭の方も冷えたらしい。初めて目に入ったかのように、樟葉は今更球場の感想を口にする。
「……お客さん、随分入ってるね」
選手の家族や同校の生徒といった関係者の他にも、一般の野球ファン、マスコミ、大学やプロのスカウト…… 夏来たちのように観戦・偵察に来ている高校もあるだろう。そのせいで、球場はほぼ満員である。
「決勝ともなると、注目度が違うからね」
流石に一回戦から、ここまで人が集まることはない。強豪校が甲子園行きを賭けて争うからこそ、これほどの人気なのだろう。
夏来はそう説明してから、もう一つの理由に触れる。
「それに、今全国大会といえば甲子園だけど、昔はこの一ノ島でやってたんだよ」
「そうなの?」
「甲子園が聖地と言っても、それは言ってみれば男子の真似だからね。〝女子野球には女子野球の歴史があって、一ノ島こそが女子高校野球の聖地だ〟って人も結構いるんだよ」
初期は大会の制度が未整備で何度か会場を移しているが、それを除けば甲子園での開催が決まるまで一貫して一ノ島球場が使用されていた。それこそ、参加校が全国合わせても一桁に留まっていた時代から、である。
「そのせいか、今でも県大会では決勝でしか一ノ島を使わないし」
具体的な声明などはないが、野球ファンの間ではそういう認識になっていた。夏来も、そんなファンの一人である。
「じゃあ、夏来もここでプレーしたいとか、そういうのがあるわけ?」
だから、樟葉にそう聞かれて、夏来は迷うことなく「そうだね」と頷く。それから、改めて一ノ島球場のグラウンドを見渡した。
「甲子園にも行きたいけど、一ノ島にも行きたいね」
地元で育っただけに、甲子園と同じように、一ノ島で行われる試合も何度も見てきた。仮に世間が聖地として扱っていなかったとしても、今と気持ちは変わらないだろう。
「甲子園行くなら、結局ここに来なきゃいけないしね」
決勝が一ノ島で行われる以上、当然のことである。そして、一ノ島から甲子園へ、聖地から聖地へと行く為には、これも当然のことながら、そこに至るまでの試合全てに勝たなくてはならない。
勝たなくては――
そう考えた時、夏来の中に込み上げてくる感情があった。それは夢の舞台に対する単なる憧憬だけではなく、決意や覚悟、挑戦心といった、もっと泥臭く、また熱い感情である。
その感情に、冷や水を浴びせるように樟葉は口を開いた。
「で、今年の夏はどうだったの?」
今度はあからさまに揶揄を込めて言う。
「観戦してるってことは、負けたんだろうけど」
「一言多いよ」
わざわざ口に出す樟葉に、夏来は渋い顔をする。もっとも、事実は事実なのだから、それは認めるしかないが。
「大栄大付属に、5対2で三回戦負けだよ」
「その何とか大付属は?」
「準決勝で、3対0で陵央に負けた」
少し考えてから、樟葉は再び尋ねてきた。
「……それって強いの? 弱いの?」
この質問には、夏来も答えに困るところがある。それで、穂波に意見を求めた。
「そこそこかな?」
「そこそこだね」
微妙な表現に苦笑しつつ、穂波は樟葉に向けて解説した。
「大阪や神奈川よりは多少マシだけど、兵庫も激戦区には変わりないから」
穂波は「参加校160校くらいだったかしら」と続ける。例に挙げたような最多クラスの地域は180校前後といったところだから、少なくとも規模について言えば、確かに「多少マシ」程度でしかない。
「大栄もわりと有名だと思うんだけど……」
大会の規模は分からなくても、県内の強豪校の名前くらいは自然と耳に入ってきそうなものである。その強豪校に「5対2で負けた」と言ってもレベルが伝わらないことが、穂波には意外なようだった。
「知らない?」
「知らないです」
「今日戦う、陵央と神園学院は?」
「全然知らないです」
あくまで否定する樟葉。本当に全然知らないようだ。
すると、穂波は突然背筋を伸ばして、口調も改めた。
「解説の日高さん、この試合の見所はズバリどこでしょう?」
これに、夏来も居住まいを正して答える。
「そうですね。やはりポイントは、エース同士の投げ合いでしょうか。
単純な実力で言えば、全国でも屈指のエースピッチャーである城戸投手を擁する神園学院に分があるのは間違いないでしょう。
しかし、陵央の相川投手も制球力に優れた好投手ですし、何より二年で四番を務める水上選手を始め打力のある選手が揃っていますから、陵央にもチャンスは十分にあると思いますよ」
「いや、そういうのいりませんけど」
二人の小芝居に、樟葉は心底鬱陶しそうな顔をする。確かに見ようによっては、ただふざけているだけにも見えるかもしれない。
「さぁ、両校の選手たちが、今ベンチから出てきました」
しかし、穂波はふざけてやったつもりはないようだった。めげずにアナウンサーの真似で樟葉の興味を引き、場を盛り上げようとする。樟葉もその意図は理解したのか、それ以上は口を噤んで、ただグラウンドに視線を注ぐ。
ベンチ前に並んだ選手たちに、審判から整列の声が掛かると、穂波は言った。
「いよいよプレイボールです」