4 Bystander②
「続きが気になる」という言葉は、嘘ではなかったらしい。夏来は翌日の放課後も、教室の前で待っていた。だから、樟葉は仕方なく、昨日と同じように家まで一緒に帰ったのだった。
「……何見てんの?」
これまた昨日と同じように、飲み物を用意して部屋に戻った樟葉は、開口一番そう言った。夏来が勝手に机の引き出しを開けていたのである。
「テスト」
「悪びれもせず」
平然と答える夏来に、樟葉は眉根を寄せた。どうしてこう面の皮が厚いのだろうか。自分のことを棚に上げてそう思う。
「正直、引くんだけど」
「ごめんごめん。暇だったからつい」
謝るようなことを言いながら、夏来は期末テストの答案用紙を手放そうとはしない。
「でも、樟葉って勉強できるんだね」
夏来が持っていたのは数学Ⅰのテストだった。点数は97点。そこから安直な推理をしたようである。
「何位だったの?」
「17位」
「うわ、マジか」
具体的な順位を聞いて、夏来は改めて驚いていた。
丹波連城高校は、際立って偏差値や難関校への合格実績が高いわけではないが、それでも世間では一応進学校扱いである。その中で約250人中17位なのだから、勉強ができると言っても差し支えはないだろう。安直な推理だが、間違いではなかったのだ。
特に興味もなかったが、樟葉も何とはなしに同じ質問を返す。
「夏来は?」
「203位」
「……野球やってる場合じゃないんじゃないの?」
「あ、赤点は取ってないから」
震えるような声で、夏来はそう弁解した。とりあえず、やるべきことはやっているらしい。単に、補習で部活に出られなくなるのが嫌なだけかもしれないが。
「でも、17位かー」しみじみとした風に呟くと、夏来は口元に笑みを浮かべて言う。「アンタも頑張ってるんだね」
「別に頑張ってはないけど」
「えっ?」
夏来は固まった表情のまま尋ねてくる。
「一夜漬けで十分的な?」
「一夜漬けで十分的な」
全くその通りだったので、復唱で答える樟葉。これが夏来に追い討ちをかけたらしい。
「何か落ち込んできた……」
「そういう時は、アニメを見るに限るよ」
肩を落とす夏来を、樟葉はそう慰めた。
◇◇◇
「ほら、癒しでしょ?」
「癒しねぇ……」
六話は期末テストと夏祭りを中心にした回だった。この手の作品では定番のイベントだが、それまでの会話を考えると、ぴったりのタイミングで視聴したことになる。そのせいもあってか、感想を尋ねられた夏来は複雑そうな顔をしていた。
「癒しかもなー」
曖昧な返答だが、見始めた頃に比べれば随分好意的になったものだと思う。続きを気にするような言動といい、本当にハマってきているのかもしれない。
自分の好きな物が受け入れられたのである。樟葉も嫌な気はしなかった。それで、次の話に行く前に聞いてみる。
「夏来は、やっぱりセイコが良いわけ?」
「うん。可愛いじゃん」
そう言って、夏来は素直に頷く。第一印象から変わらず、お気に入りのようだ。
「具体的には、どこらへんが?」
「どこって……」上手く言語化できないのか、夏来はもどかしそうにする。「こう、優しいというか、何というか」
「ふーん」
趣味の話だからだろうか。樟葉はいつものひねくれぶりからではなく、気安さから意地の悪い口を利いていた。
「ネット見る限り、メインの中だと一番人気ないけどね」
「マジで!?」
驚きの大きさを、そのまま表現するような大声を出す夏来。それから、「くそー、ネットめー」とネット批判のようなことまで言い始める。その様子が、樟葉には少しおかしかった。
直後、百面相のようにショックからすぐに立ち直った夏来は、同じように聞き返してくる。
「……そういうアンタはどうなの?」
「私はニコ×リン派かな」
「ニコ×リン?」樟葉の答えに、夏来は要領を得ないという顔をする。「ニコとリンの二人が好きってこと?」
ニコとリンは、主人公のカヤノが高校で作った友達で、この二人は幼馴染同士でもある。クール70シャイ30のニコに対し、明るく社交的なムードメーカーのリン、といった役どころだった。
樟葉が二人を好きだという点は間違っていない。しかし、オタク界隈では、こんな風に名前を繋げて呼んだ場合には別の意味になる。
「まぁ、二人の組み合わせというか……」
「…………?」
一層要領を得ないという顔をする夏来。しかし、詳しく説明したらしたで、またややこしいことになりそうなので、樟葉はそれ以上何も言わなかった。
◇◇◇
芳しい反応をしない樟葉に、夏来は負けじと提案する。
「生ハムミカンがダメなら、生ハムパインは?」
「酢豚しかイメージできないんだけど」
「じゃあ、生ハムゴハン」
「肉巻きおにぎり……」
ここまで再三再四にわたって否定したせいだろうか。この頃になると、夏来は明らかにふざけ始めていた。
「生ハムチキン」
「胃もたれしそう」
「生ハムマロン」
「喉渇きそう」
「生ハムロマン」
「お腹膨れなさそう」
「生ハムギロン」
「それは今やってる」
何がそう面白かったのか、夏来はこれに声を立てて笑い出す。一度呆気に取られた後、つられるように樟葉も頬を緩めた。
九話を見終わった後のことである。作中に生ハムメロンが出てきたのをきっかけに……というわけではなく、話が脱線に脱線を重ねて、いつの間にかこんな事態になっていた。元々何の話をしていたのか、樟葉はもう思い出せそうにない。
笑いが収まったところで、夏来は「んー」と大きく伸びをする。
「今日は、この辺にしとく」
夢中で気がつかなかったが、時刻はとっくに七時を過ぎていた。夏になって日の入りが遅くなったとはいえ、空はもう薄墨を垂らしたように暗い。これから、ますます夜の色が濃くなっていくことだろう。
それで、樟葉は「そう……」とだけ呟く。次回は全話中でも一、二を争う人気エピソードで、樟葉としてもオススメの一話である。だが、この時間に引き止めては迷惑だろうし、それにそんなことを切り出すのも億劫だった。
どうせ嫌だと言っても明日また来るだろうから、その時に見てもらえばいい。樟葉はそう結論付けた。
一方で、夏来も言いたいことがあったらしい。樟葉とは違い、それを躊躇なく口にする。
「樟葉はさ、こういうのが好きなんだよね」
テレビを指して確認するように言ってから、夏来は核心に踏み込む。
「なら、自分で作ってみたいとか思わないの? 漫画描いたり」
「別に」
樟葉は素っ気なく答える。趣味でも仕事でも、そんなことをするつもりは毛頭なかった。
その訳は、もう何度も説明したはずである。
「創作って面倒くさいじゃん」
「アンタ、筋金入りだな」
苦笑する夏来を、樟葉は冷然とした目で見る。筋金入りなのはお互い様だろう。
夏来はどうしても他人に努力をさせたいらしい。野球部の勧誘は諦めたはずだし、アニメ――それも日常系アニメに多少の理解も示していた。だが、思考の根底の部分に変化はないようである。
そのことが、樟葉の神経を逆撫でしていた。
「何でそんな頑張らせたがるかな」
初めて会った時から夏来のそういう態度が気に入らなかったが、それが今でも変わっていないことに樟葉はうんざりしていた。口では分かったようなことを言っていても、結局何一つ分かっていないのだ。
「私は別に、努力してる人を馬鹿にするつもりはないよ。むしろ、しんどいことを続けてて立派だと思う」
これは本音だった。
勉強や仕事、対人関係、病に老い…… 人間、ただ生きていくだけでも、長く苦しい闘いを強いられることになる。
その上で更に、汗をかき、知恵を絞り、最後には気力まで使い果たして、そうまでして向上しようとする。そんな人間の姿を見て、それを批判しようなどとは全く思わない。言った通り、努力できる人間のことは尊敬しているくらいである。
「でもさ、やっぱりしんどいんだよ」
そして、これもまた本音だった。
樟葉が努力できる人間を尊敬する理由はごく単純だった。自分には、それができないからである。
だから、――
「だから、それを押し付けられても困る」