2 プールサイドにて②
「あー、泳いだなー」
ちょうどプールでの練習が休憩になったところだった。プールサイドの日除けの下で、花佳はそう声を漏らす。
それから、持ってきたスポーツドリンクを飲む。というか、がぶ飲みする。
他の部員たちも同じようなもので、飲み終えて人心地つく頃にはこんな感想が出た。
「水泳って意外と喉渇きますよね」
「分かる分かる」
比呂の言葉に、花佳は同意する。
比呂はまた、「水の中にいるから涼しく感じるだけで、運動量自体は多いからなんでしょうけど」とも続けた。おそらく、その通りなのだろう。
だから、花佳の頭に閃くものがあった。
「いっそプールの水飲みながら泳ぐか」
「それはまずいでしょう。塩素とか色々入ってるわけですから」
「じゃあ、代わりにスポーツドリンクの元入れてみる?」
「そういう意味でまずいわけじゃないです」
花佳と比呂がそんな馬鹿話をしていると、横から縁子が口を挟んだ。
「プールの中で、しちゃう人もいるらしいからね~」
「…………」
「私がしたから言ってるわけじゃないですよ?」
二人に疑いの眼差しを向けられて、縁子はそう弁解した。
とはいえ、何も花佳だって本気で疑っていたわけではない。そもそも縁子の話自体信じられなかった。
「しっかし、本当にそんな奴いるのかね」
同感のようで、比呂も相槌を打つ。
「自分だって泳ぐわけですしね」
「そうそう」
このやりとりを聞いて、縁子が補足するような反論するようなことを言う。
「プロの競泳選手の中には、練習中垂れ流しっていう人もいるらしいですよ~」
「…………」
「私がしたから言ってるわけじゃないですよ?」
縁子は再びそう弁解した。
◇◇◇
日除けに集まる部員たちから離れて、樟葉は一人だった。
プールの縁に腰掛け、水に足を浸すようにして座っている。その方が涼めるのか、それとも単に一人が好きなのか。それは遠巻きに見ているだけの夏来には分からない。
「?」
樟葉に視線をやりながら、しかし動こうとしない夏来の姿に、穂波は首を傾げていた。
「クズちゃんのところ行かないの?」
「今日はちょっとね」
普段なら無理にでも引っ張ってきたかもしれない。少なくとも、嫌がられるのを承知の上で、隣に座るくらいのことはしただろう。
ただ、今日だけはそんなことをする気になれなかった。
夏来の返答に、穂波は顔をわずかに曇らせる。
「喧嘩でもしたの?」
「そういうわけじゃないけど……」
明言するのが嫌で、夏来は言葉を濁した。
夏来はもう一度樟葉に視線を向ける。そして次に、うつむくように視線を落とした。
こんなところでも、持って生まれた才能の差を感じてしまう。それほどまでに、二人の間にある隔たりは大きい。
それから、夏来は穂波を見る。長い付き合いだけに十分理解していたことだが、穂波との隔たりは更に大きかった。
自分のことは自分が一番分かっている。夏来だって何の工夫も考えなかったわけではない。
しかし、赤は物を大きく見せる膨張色、紺や黒はその反対の収縮色、という錯視の前でも、体型の差は歴然としたものだった。
「ていうか、穂波ちゃんもあっち行っててくれない?」
「ひどいっ」
◇◇◇
プールの縁に座って、樟葉は何を考えるでもなく、ぼんやりとしていた。
うだるような暑さに、思考がまとまらないということもある。しかし、ただこうしてボーっとするだけの時間が樟葉は案外嫌いではなかった。練習、練習で肉体的にも精神的にも疲れるばかりだから尚更そう思う。
が、不意に視界を物で遮られて、何も考えないというわけにはいかなくなった。
食事代わりになる、パウチパックのゼリー飲料。
差し出したのは、真紀だった。
「お疲れ様」
「……お疲れ様です」
樟葉はそう答えて受け取った。放っておいて欲しい気持ちもあったが、この後の練習に向けてエネルギーを摂りたかったところでもある。
一方、真紀の用件はそれで終わりではなかった。
「隣いい?」
「…………どうぞ」
熟考の末、樟葉は頷く。相手は先輩だし、ゼリー飲料を貰った手前もあるから断り辛かった。もしかすると、そこまで見越して渡してきたのかもしれない。
しかし、それは流石に樟葉が穿った見方をしているだけのようだった。
「ごめんね、ただの助っ人なのに随分付き合わせちゃって」
「私は別に……」
単にお礼のつもりだったらしい。厚意を無下にもできず、樟葉も「悪いと思うのなら放っておいてください」とは言わなかった。
それに二人きりというのは好都合だった。一度聞いてみたかったことがあるのだ。
「先輩も甲子園行きたいとか思ってるんですか?」
「え?」
突然の問い掛けに戸惑いながら、真紀ははっきりと認める。
「うん」
その後で、「できたらの話だけどね」と自虐するように笑ったのは、照れ隠しの為だろう。
やはり、真紀もまた甲子園を目標にしているようだ。
「…………」
「それがどうかしたの?」
そう尋ね返されると、黙り込んでいた樟葉はようやく口を開く。気は進まないが、親には既に似たような質問をしていたから、あとはもう野球部のメンバーくらいしか自分の話を聞いてくれそうな相手はいなかった。
「そういうやりたいことみたいなのって、普通あるもんなんですかね」
両親や夏来、それに真紀。おそらく、他の部員たちもだろう。彼女たちを見る限り、やりたいことが特にない自分は少数派のようである。
真紀はすぐには回答に入らなかった。
「樟葉はそういう気持ちが分かってみたくて来たんだっけ?」
「まぁ、一応」
それが練習試合まで付き合ってみようと思った理由だった。
しかし、未だに分からない。むしろ、毎日の練習が辛くて、面倒くさくて、余計に分からなくなりそうなくらいである。だから、樟葉は一度聞いてみたかったのだ。
真紀はこれに、何気ないようなトーンで答えた。
「私からすれば、その分かってみたいっていうのが樟葉のやりたいことだと思うけどなぁ」
少し考えてから、樟葉は言う。
「……何か詭弁くさいですね」
「手厳しい」
苦笑いする真紀。納得のいくものではなかったが、彼女なりに真剣に考えた上での回答だったようである。
だからか、真紀はそこで話を終わらせなかった。
「……野球って、結構お金がかかるスポーツなんだよね」
「はぁ……」
これまでの会話と一体何の関係があるのか。見当がつかない樟葉に構わず、真紀は続ける。
「私は小学生の頃、地域のクラブに入って野球を始めたんだけど、理由は仲の良い友達に誘われたからってだけでね。野球はそこまで好きなスポーツってわけじゃなかったんだ。だから、練習も辛いだけで、すぐに行くのが嫌になったの」
今の樟葉と似ているといえば似ている状況だった。〝練習も辛いだけで、すぐに行くのが嫌になった〟のは、まさにその通りである。
「ただ、うちの親は何かにつけて〝お金がない〟〝もったいない〟って言うのが癖でね。今にしてみればただの冗談だって分かるけど、その頃は私、結構真に受けてたから。
だから、入会費だの遠征費だの用具代だのを払ってもらった手前、子供心にやめたら親に悪いと思って続けることにして……」
真紀の懐かしむような遠い目に、強い意志の光が加わる。
「それで、気付いたら甲子園目指してた」
唐突に思えた最初のお金の話題に繋がったかと思えば、話はまたしても唐突に結論に入っていた。しかも、今回は何の狙いもなかったようで、真紀は自身でももどかしそうに言う。
「上手く言えないけど、何か始めたり続けたりする理由なんて、最初の内からそんな立派なものってわけでもないんじゃないかな」
「…………」
樟葉には、やはりよく分からなかった。
ただ、もし仮に彼女の言うことが正しいとするのなら、自分のような理由で始めたり続けたりしても、いつかは――
「隙ありぃ!」
と、声がした次の瞬間には、樟葉はプールに顔から飛び込んでいた。
樟葉が振り返ると、勝ち誇るように笑う湊と、それを睨みつける真紀の姿があった。自分をプールに突き落とした犯人は、湊に間違いないようだ。
「ごめん。ホントごめん」
真紀は謝りながら、樟葉を引き上げる為に手を伸ばす。湊に反発する意味もあって、樟葉もこれに素直に従った。
しかし、こうして隙を作ったのが失敗だった。
「もいっちょ!」
無防備な真紀の背中を、今度は朋美が押した。すると真紀本人は勿論、彼女に体を支えられていた樟葉までプールに落下する。
二人分の大きな水しぶきに、
「グッジョブ!」
と、湊がサムズアップすれば、
「イエーイ!」
と、朋美も同じようにして答えた。
これが決定打になったらしい。水面から真紀が顔を上げた時、濡れて髪は垂れ下がっていたものの、それ以外はそれこそ怒髪天を衝くような勢いだった。
「コラ――――!!」
真紀は目をつり上げると、大声でそう叫んだ。
「おお、マジギレだ」と湊。
「ヤバイ、逃げよう」と朋美。
二人はすぐにでも走り出すが、これにも真紀は叫んでいた。
「だから、プールサイドは走らない!」
これ以上怒らせるとまずいと思ったのか、二人は言われた通り律儀に速度を落とす。だから、真紀がプールから上がると、歩きながらの追いかけっこになった。
一緒に歩いて追いかけるのは論外として、視線で追うだけでも馬鹿らしくなってくる。同じくプールから上がったものの、樟葉は元の通りにその場に座り込んでいた。
「はー……」
樟葉は大きく息をつく。
部活そのものが初めての経験である。練習は当然として、こうしてチームメイトと一緒に休憩を取るというのも今までに縁のない世界だった。
そのことに、樟葉は一言だけ感想を漏らす。
「早く帰りたいなぁ……」
「何でだ――――――――!!」
呟きをかき消すような大音声だった。
樟葉が「うわ、夏来。いつの間に」と聞くのも無視して、夏来は主張を始める。
「いや、おかしいじゃん! 今のは、〝たまにはこういうのもいいか……〟とかなるところじゃん!」
「そんなこと言われても……」
早く帰りたいのだから仕方ない。それが樟葉の本音である。
そんなことは皆まで言わずとも夏来も分かっているようで、分かっているからこそ尚の事腹立たしいようだった。
「この超暑い中、アンタどんだけ冷めてんのよ」
「…………」
「この超暑い中、アンタどんだけ冷めてんのよ」
「繰り返しても、つまらないものはつまらないから」
「今ギャグの話してないよ!」
彼女の言うような冷めた態度で答えると、夏来は更にそう声を荒げた。
そんな二人の様子に、周りの部員たちは笑みをこぼすのだった。




