6 Sidewinder
妙なフォームだ。
夏来の投球練習を見ながら、樟葉は改めてそう思う。
踏み込みの為に左足を上げる。同時に、後方に腰ごと利き手の右腕を引く。ここまでは、まださほど樟葉のやるようなオーバースローと大きな差は現れていない。
しかし、テイクバックの後、腕を上から下に投げ下ろす樟葉と違い、夏来は腰を横回転させて、腕も体の横から振っていた。
通常のオーバースローで投げた場合でも、若干だが投手の利き手方向から逆方向へと向かうような角度のついた軌道になる。夏来の場合は腕を横から振っている為に、ボールはもっと大きく角度のついた軌道を描いた。
樟葉の休憩中に夏来が練習するのはいつものことである。だが、いつもは疲れ切っていたり、そもそも関心がなかったりで、今までに夏来の投球をじっくりと見たことはなかった。
気まぐれついでに、樟葉は尋ねてみる。
「夏来の、その変な投げ方何て言ったっけ?」
「サイドスローだよ」
夏来は「横手投げ」と続けて、もう一球。横手投げというだけあって、確かに横に手が振られている。
ただ、樟葉にはそれよりも気になることがあった。
「……変な投げ方は否定しないの?」
「悪いと思うなら、最初からそういう聞き方しなければいいでしょ」
咎めるような口調だが、夏来はやはり否定はしない。決勝戦で見たり、自分が教わったりしたオーバースローではないから変わったフォームだと思ったのだが、その感想は間違いではなかったようだ。
だから、樟葉もにわかに興味が湧いてきた。
「有名な選手は?」
「そうだなぁ……」少し考えてから夏来は答える。「斎藤雅樹とか?」
斎藤雅樹は、ベストナイン五回、沢村賞三回を受賞し、また四十回の完封勝利を含む通算一八〇勝などの華々しい成績を上げて、野球殿堂入りを果たした名投手である。
ただ斎藤は、最初からサイドスローだったわけではない。アマチュア時代は他と同様オーバースローで投げていたが、読売ジャイアンツ入団後に転向したのである。これは、二軍で結果が出ていなかった入団一年目の初夏、当時の監督である藤田元司に、上から投げる投法と腰の横回転が噛み合っていないことを指摘されたのがきっかけだったという。
また、ノミの心臓と揶揄されるような精神的な弱さが原因で燻っていた時期もあったが、それも同監督の指導の下で克服。その結果、斎藤は先の通りジャイアンツどころか球界を代表するような投手に成長し、〝平成の大エース〟の異名を取るまでになった。
が、そんなことは樟葉は知らない。
「誰?」
「知らないかー」
そう言って残念がる夏来。ただ一方で、納得している面もあるようだった。
「引退したの二〇〇一年だし無理ないか」
「それ、夏来も世代じゃないじゃん」
樟葉はじとっとした目で夏来を見た。
もっとも、自分も名作と言われている昔のアニメや漫画をチェックしているので、それと同じようなものかとも思う。同年代の作品なら――
「で、そのサイドスロー?」
気がつけば、話が脇道に逸れてしまっていた。樟葉は元々、漠然とした見た目の違い以外の特徴を知りたかったのである。
「それって、どういう意味があるの?」
「よく言われるのは、腕を横から振る分、球も横から来るような特殊な軌道になることだね。オーバースローと違って、サイドスローのピッチャーは少ないから、バッターとしては不慣れでやり辛いんだよ」
大半のピッチャーは上から投げるオーバースローか、そこからやや腕を下げたスリークォーターで、横から投げるサイドスローや下から投げるアンダースローは少数派である。
横に角度のついたサイドスロー特有の球筋は今見たばかりだった。また、変則的なフォームは体感で5キロ増し、と希少であることの重要性はサウスポーの時に聞いている。だから、樟葉も得心が行った。
「上から投げ下ろすオーバースローと違って、上下に視線がぶれにくいから、コントロールが安定しやすいっていうのもあるね」
体を縦に使うオーバースローと比べ、サイドスローは横の回転で投げる為、頭の位置が上下しにくく視線が安定し、コントロールをつけやすいとされる。だから、制球難の選手がサイドスローに転向する例がまま見られる。
「あとは、これも腕を横から振る関係で、横に曲がる球が投げやすいことかな」
そう説明した後、夏来は穂波に向けて手を振る。
「穂波ちゃん、スライダー投げるね」
穂波が「はーい」と手を振り返すのを見て、夏来は再びテイクバックを取った。
サイドスロー特有の、投手の利き手方向から逆方向への角度のついた軌道。同種の投法でも、腕が上下どちらかに傾くバリエーションがある中、夏来のフォームは地面と平行になるよう、ほぼ水平に右腕を振る、最も横への角度がつくものである。また、それだけでなく、夏来はプレートの右手側(三塁側)の端に立つことで、より強い角度がつくように投げていた。
更にその上、このサイドスローの軌道に、サイドスピンで投手の利き手と逆方向に曲がるスライダーの動きが加わる。
結果、夏来のスライダーは、まるで横滑りでもするかのような変化を起こした。
「おおっ……」
「ま、ざっとこんなもんよ」
思わず声を上げると、夏来は少しだけ得意気な顔をした。
樟葉はこれまた思わず尋ねる。
「みんな、これやれば良くない?」
この素人考え丸出しの質問に対して、
「デメリットもあるからね」
夏来はそう言って困ったように笑った。
「球速が出にくかったり、横の変化球とは逆に縦の変化球――フォークみたいな落ちる球が投げにくかったり…… やっぱり、基本はオーバースローなんだよね」
球速は速ければ速いほど打者が反応する為に使える時間が短くなり、被打率が低下する。これはデータにもはっきりと出ている。
また、人間の目は左右より上下の動きを追うのが苦手とされ、縦の変化球は空振りを奪うのに有効だと言われている。
上から投げ下ろすオーバースローは、体幹や肩の力が伝わりやすいので球速が出やすく、また縦の変化球と相性がいい。言い換えれば、サイドスローはそれらのメリットを捨ててしまったことになる。先頃夏来は制球力が上がると説明したが、サイドスローのピッチャーは制球力を武器にするしかないという側面もあった。
投球フォームは利き腕のように先天的なものではない。それなのにサイドスローが少数派なのには、それだけの理由があるのだ。
「だから、合う合わないもあるけど、オーバースローで通用しなかった選手がやることが多い感じかな」
樟葉はサイドスローの全容を仔細に理解していたわけではない。それでも、再び困ったように笑う夏来を見て、大まかな彼女の事情は理解できた。
「……夏来も?」
「うん」
頷く夏来。やはり、先程も樟葉の素人考えを笑っていたのではなく、サイドスローに転向せざるを得なかった自身を嘲っていたようだ。
自嘲気味に夏来は続ける。
「私、あんまり肩強くないからね」
初心者ながら最速130キロ前後を投げる樟葉に対し、フォームの都合もあるとはいえ夏来は最速120キロ前後。少なくとも、際立った強肩とは言えない。
筋肉は瞬発力の速筋と持久力の遅筋に大別でき、個人の肉体におけるその比率は後天的に変わらないことは既に述べた。ただ諸説あると注記した通り、速筋はトレーニングによって遅筋(正確には、速筋と遅筋の中間の性質を持つ中間筋(ピンク筋))に変えられることが分かってきている。
ただし、その逆――遅筋を速筋に変えることは不可能だという研究結果も出ている。
「何か触れたらまずい系のやつ?」
「気にしてないから大丈夫だよ」
夏来はそう答えたが、樟葉はそれきり口を閉じた。
その後も、夏来は投球練習を続ける。肩が強くないという理由で転向した、サイドスローで。
やはり球速は決して速くはない。だが、武器にするしかないだけあって制球力は高かった。穂波がミットを構えたところへ、夏来は次々ボールを投げ込んでいく。
また、夏来は制球力だけでなく、変化球の面でも優秀だった。今し方見たばかりの、切れ味抜群のスライダー。指導の為オーバースローで投げた時よりも横変化の強いカーブ。緩急をつける意味でカーブに取って変わった感のある、ストレートと同じフォームで遅い球を投げるチェンジアップ。オーバースローでは投げにくい、利き手側に沈むように曲がるシンカー……
樟葉は半端な変化球を増やすより絞った方がいいと助言されていた。一方、夏来は複数の球種を試合で使えるレベルまで磨いてある。球速はともかく、制球力や変化球については夏来の方が上に違いない。
また、夏来は野球に詳しいのだから、配球や投球術の面でも樟葉より優れているはずだ。この他、投球以外にも守備や打撃の問題がある。
これが積み重ねてきた人間の強さということなのだろう。ピッチャーを勧められたが、流石に一ヶ月で夏来を追い抜けるようになるとは、樟葉には思えなかった。ファーストの練習に専念した方が得策なのではないか。
ただそれも、あくまで一ヶ月なら、という話である。
だから、黙々と練習を続ける夏来の姿を見ていると、樟葉は聞くべきではないと思いつつも聞かずにはいられなかった。
「でも、よくやるね」
「え?」
虚を突かれて夏来が手を止める。練習の邪魔をしてしまったようだが、この際致し方ない。樟葉は続けて言う。
「勝てるかどうか分からないのに」
目標が甲子園出場だとして、兵庫県の出場校が約160校だから、単純に考えて目標達成の可能性は160分の1の確率に過ぎないことになる。
勿論、これは実力を無視した、馬鹿げたくらいの単純計算である。だから、丹波連城が甲子園常連の強豪校だというのなら話は違ってくるのだろうが――
「夏来たちが負けたチームも、結局大会の途中で負けたんでしょ? 勝てるかどうか分からないっていうか、負ける可能性の方が高いんじゃないの」
夏来たちの話を聞く限り、丹波連城は「そこそこ」レベルの高校でしかない。実力まで含めて計算したら、160分の1以下ということもありえるのではないか。
「勝てないまま終わって、頑張ったことが無駄になったらどうしようとか思ったりしない?」
無駄な努力だからやめればいい、という皮肉を言ったわけではない。ただ純粋に、報われないかもしれない努力を続けることが疑問だったのだ。
一ヶ月後の自分と夏来なら、おそらくは夏来の方がまだ上だろう。ただそれも、あくまで一ヶ月なら、という話である。
学年の違いもあるから一概には言えないだろうが、今年甲子園に勝ち進んだ神園学院のエースは、最速150キロオーバーのストレートに、制球力と変化球を備えた超高校球の選手だった。彼女のように、自分と同じか、それ以上に才能のある人間に努力を重ねられたら、夏来に勝ちの目などないのではないか。
これに対する夏来の返答は、ごくあっさりしたものだった。
「勝ち負けが全てじゃないよ」
一体、勝ち負け以外の何が大切だと言うのだろうか。そもそも勝ち負けにすら興味を抱いたことのない樟葉には、全く要領を得ない話だった。
ただ、性格から考えて、お為ごかしを言っているとは思えない。夏来がそう言うからには、きっと何かがあるのだろう。樟葉はこれに、「ふーん……」とだけ答える。
話が終わると、夏来はすぐに練習を再開した。