4 Southpaw
樟葉が投球動作に入った。
足を踏み込み、腰を回転させる。そして、それと同時に、上から下へ腕を振り下ろす。オーソドックスなオーバースローだ。
しかし、天才のやることはいつだって単純で、それでいて強大なものである。
樟葉の投げたボールは、激しい風切り音を立てながら、真っ直ぐに伸びていった。
変化球のメカニズムは、重力とマグヌス力によって説明される。
このマグヌス力を簡単に説明すると、回転を掛けた方向にボールが曲がるようになる力、ということになる。
野球のボールを投げると、回転と縫い目による空気抵抗により、その周囲を流れる空気の速度に差が出る。気圧は速度が遅い場所ほど高くなり、速い場所ほど低くなる。こうして発生した気圧の差によって、気圧の高い(=圧力の強い)ところから気圧の低い(=圧力の弱い)ところへ、押し出されるようにしてボールが動く。これがマグヌス効果であり、これにより生まれる力を俗にマグヌス力と呼ぶ。
空気の流れが速くなる(気圧が低くなる)場所というのは、サイドスピンなら横、トップスピンなら下と、回転を掛けた方向と同じ部分がそれに当たる。だから、先程説明したように、回転を掛けた方向にボールが曲がるのである。
そして、この原理はストレートにおいても変わらない。
ストレートには強いバックスピン――上方向への回転が掛けられており、これにより上方向へのマグヌス力が働く。その為、通常よりも重力による落下の幅が小さなボールとなるのだ。そういう点から、ストレートは上方向の変化球という見方もできる。
マグヌス力は回転数が多いほど強くなるから、ストレートもバックスピンの回転数が多ければ多い分だけ落ちにくい、いわゆるノビのあるストレートになる。そのようなノビのあるストレートは、一般的なストレートに慣れた打者の目には特殊な軌道と映る為に打ち辛く、それゆえ基本の球種でありながら強力な武器になるのだ。
だから、樟葉のストレートを受けた穂波は、賞賛の声を上げた。
「ナイスボール」
夏来も同感だった。キャッチボールの時から、回転の強く掛かったボールを投げているとは思っていたが、こうして全力投球させてみると歴然である。
「うん。良い感じ良い感じ」
その上、回転数だけでなく球速も悪くない。
「やっぱり130キロくらい出てるかな」
打撃、守備と来て、最後に投球練習場で投球練習を行ったが、やはり樟葉はピッチングの才能において天賦のものがあるようだ。
「速いなぁ」夏来は羨望を込めて言う。「その上、左だし」
少しは野球に興味を持ったのだろうか。これまでに何度も同じような発言をしたが、ここで初めて樟葉は尋ねてきた。
「左利きって、そんなに有利なの?」
守備においてはデメリットのある左利きが何故才能なのか。それは守備以外――投球や打撃の点でメリットが生じるからである。
「左投げは人数が少ない分、バッターにとっては慣れない相手でやり辛いんだよ。左右が違えば、それだけで球の出所や軌道が違ってくるからね」
左利きの人口は、全人口のおよそ10%前後。人数が少なければ、その分だけ経験不足、練習不足になりやすく、左投げのような変則的なフォームは体感で5キロほど速く感じるのだという。
「それに、左打ちはバッターボックスが一塁に近いから、その分だけセーフになる可能性も上がるんだよね。
だから、本来右利きの選手が左打ちに転向するケースって結構多いんだけど、左投げ対左打ちの場合、バッターからは球の出所や軌道が見にくくなって余計やり辛いんだよ」
バッターはピッチャーに対して半身で構えるので、どうしても打席側の視界が遮られてしまう。その為、個人差もあるが、一般的には左対左は投手有利のシチュエーションだとされている。この相性差を利用して、左打者に対して左投手を当てる戦術もあるくらいだ。
「他の競技でも左利きのことをサウスポーって言ったりするけど、大元の語源は野球のピッチャーから来てるみたいだし」
southpaw――southは南、pawは手という意味である。打者の視界に太陽が入らないよう、公認野球規則は「本塁から投手板を経て二塁に向かう線は、東北東に向かっていることを理想とする。」と定めており、これに則って球場が建てられていた場合、左投げの投手は南側を向く方の手で投げる、ということから来ている言葉らしい。他に、アメリカ南部出身者には左投げの投手が多かった、という説もある。
「つまり、普通の右投げと区別して呼ばれるくらいには有利ってこと?」
「そういうことだろうね」
端的にまとめる樟葉に、夏来はそう頷いた。
話が一段落ついたところで、穂波が提案する。
「一度、変化球を試してみたらどうかしら?」
「そうだね」
賛同する夏来。球速、制球力共に、ストレートは既にある程度物になっている。となれば、次は変化球と考えるのは自然な流れだろう。
「変化球?」通じ合う二人に対し、樟葉一人がきょとんとしていた。「カーブとかそういうの?」
「多分、カーブが一番有名だよね」
主観になるが、変化球の代名詞的存在といえばやはりカーブではないか。夏来も変化球と聞けばまず思い浮かべるのはカーブだし、最初に覚えたのもまたカーブだった。
ただし、有名であることが、必ずしも有効であることの証明になるとは限らない。
「最近の流行は、ツーシームみたいなムービング・ファストボールだけど」
「ムービング・ファストボール……?」
「簡単に言うと、ストレート並の速さで、バッターの手元で鋭く曲がるような球のことだよ。動く速球だからムービング・ファストボール」
一方で変化自体は大きくなりにくく、芯を外して打ち取るような使い方をされがちである。その為、球速が出ないと効果が薄いとされるが、その向上に伴ってか、近年は日本でもムービング・ファストボールが存在感を強めていた。
とはいえ、決してカーブが廃れてしまったわけでもなかった。ムービング・ファストボールの流行が、逆説的にカーブの復権をもたらしているという見方もある。
「使い手が減ってるからこそ、バッターも慣れがなくなって、逆にカーブが有効になるっていう考えの人もいるけどね」
「メタゲームみたいなもんか」
「メタゲーム……?」
「簡単に言うと、強いほのおタイプのポケモン対策にみずタイプのポケモンを使うのが流行ったら、今度はその対策にくさタイプのポケモンが使われるようになるってこと」
樟葉は滔々とそう説明した。喩えには趣味が反映されていたが、関心を引かれたことには違いなさそうだ。
これを見て、穂波が畳み掛ける。
「カーブは世界最古というか、一番最初に生まれた変化球と言われているくらい昔からあるの」
一八六七年に、ブルックリン・エクセルシオールズのキャンディ・カミングスが、川原でやった貝殻を投げる遊びを参考にしてボールを投げたのがカーブ――ひいては変化球の起源だとされている。この功績から野球の発展に貢献したとして、彼は後にアメリカ野球殿堂入りを果たした。
他にも、フレッド・ゴールドスミスがカーブを投げたことが、最古の公的な記録として残っている。これが一八七〇年のことだから、およそその年代辺りから投げられ始めたということは間違いなさそうである。
「それから、明治時代にアメリカから日本にカーブが伝えられた時、今までに見たことのない変化する球に驚いた当時の人たちは、カーブのことを魔球と呼んだそうよ」
俗説や誇張も交えているが、穂波の話は概ね事実に基づいている。
一八七一年にアメリカに渡った平岡凞は、在米中の五年間で機関車や機械類の製造技術と共に、野球についての知識を習得。帰国後、平岡は工部省鉄道局で技師として働く傍ら、同僚たちと野球に興じ、七八年には日本初の本格的な野球チームとなる新橋アスレチック倶楽部を設立した。平岡は他に、日本製のユニフォーム作りや用具・規則書の輸入などによって野球の普及に努めたことで、日本の野球殿堂に〝日本の野球の祖〟として殿堂入りしている。
このように平岡は当時最先端の野球知識に通暁しており、同じく〝日本で初めてカーブを投げた男〟だとも言われている。平岡のカーブを目の当たりにした人々は、驚嘆からそれを魔法や魔球だと言い、彼にしつこく教示を求めたり、その修練に腐心したのだという。
驚いたのは樟葉も同じらしい。穂波の言葉を繰り返していた。
「魔球……」
「ワクワクしてる?」
「してないです」
そう否定したが、本心はどうか怪しいものである。
だから、夏来も尋ねてみる。
「どうする? カーブやってみる?」
「……そうだね」
やはり多少は関心を引かれたようで、樟葉はそう答えた。気が変わらない内に、夏来は話を進めてしまうことにする。
「じゃあ、まずは握りから教えるね。さっきのストレートの握りから、人差し指を中指の方にずらして――」
ボールの握りから、腕の振り、手首の使い方について、動作を交えながら夏来は説明する。樟葉はそれを分かったような分からないような顔をして聞いていた。
「基本はこんな感じかな。ここから、ちょっとずつ自分に合うようにアレンジしていくんだけどね」
その後で、夏来は「一度見てもらった方がいいかな」と、穂波に目配せする。穂波はこれに頷くと、キャッチャーマスクをかぶった。
「行くよー」
手を振って合図すると、夏来はカーブの投げ方を実演する。
片側を持つように握ったボールを、立てた手首から抜くようにしてリリース。これによって、ボールにはストレートとは異なり、サイドスピンとトップスピンが掛かる。
ふわっと上に投げ出されたボールは、サイドスピンとトップスピンにより、そこから利き手と逆側に曲がりながら落ちていく。ゆったりと山なりの弧を描くような軌道だった。
カーブは基本的に球速が遅く、変化も特徴的で見た目に分かりやすい。そのせいか、夏来のカーブが特別優れているわけではないのだが、樟葉は賛嘆するような声を上げていた。
「おー、あんなに曲がるものなんだ」
「向き不向きもあるけど、最初に生まれただけあって、投げるだけならそんなに難しくないと思うよ」
若干の照れくささを覚えて、夏来はそんな話をして誤魔化した。
もっとも、嘘をついたわけではない。最初に教えられることが多いのは、投げやすさも理由の一つだろう。その点でも、飽き性の樟葉にはちょうどいいかもしれないと、夏来は密かにそう思う。
「それじゃあ、カーブの練習始めようか」
◇◇◇
それから、夏来の指導の下、カーブの練習が行われ――
「ナイスボール」
樟葉の投げた球に、穂波はそう言った。
これに、当人は訝しむような顔をする。
「今のは曲がってた?」
「曲がってた曲がってた」
諸々気になるところもあるが、変化自体はしていた。その変化も決して小さくはない。
しかし、夏来の答えに、樟葉はいまいち納得いっていないようだった。「自分だとよく分からん」と首を捻ると、続けて確認するように尋ねてきた。
「まぁ、投げるだけなら簡単なんだよね?」
「樟葉の場合はそういう問題じゃないと思う」
この短時間で、ある程度とはいえカーブを投げられるようになる人間がどれだけいるだろうか。樟葉のピッチャーとしての資質は、もはや疑いようがないだろう。
ただ、僻んで言うわけではないが、変化球はただ曲がればいいというものではない。
「コントロールとかフォームとか考えると、使えるレベルにするのが難しいんだけどね」
「ストライクゾーンに投げなきゃいけないんだからコントロールがいるのは分かるけど、フォームってそんな大事なの?」樟葉は不思議がって聞く。「ていうか、何が大事なの?」
「変化球ごとにフォームにバラつきがあるっていうのは、今から何投げるのかバッターに宣言してるようなものなんだよ。球種が分かってれば、その分だけ打ちやすくなるのは何となく分かるでしょ?」
球の軌道だけを追い、変化や緩急に対応して打つ、というのはそう簡単なことではない。その為バッターには、ピッチャーの癖を盗んだり、あるいは配球を読むといった技術も必要になってくる。裏返せば、バッテリーにはそれをさせない工夫がいるということである。
「だから、全部の球種を同じフォームで投げられるようにするのが理想なんだけどね」
完全に同じとはいかないだろうが、目指すところはそこである。ムービング・ファストボールの流行も、フォームや球の軌道からストレートと判別することが難しいのが一因になっているのかもしれない。
一方、カーブはまず球の軌道自体が特徴的である。その上、フォームにおいても、腕の振りが遅くなったり、あるいは肘が上がり過ぎる者が少なくない。樟葉のフォームにもその傾向は表れていた。
また、一般に肘に負担の掛かる変化球といえば、落ちる球のフォークや利き手側に曲がる球のシュートだが、カーブも投げ方によっては故障に繋がりやすいのだという。これらの理由から、近年は最初に教える変化球ではなくなりつつあるとも言われている。
これに「へー」と頷くと、樟葉は投球練習に戻った。
全ての球種を同じフォームで投げられるのが理想と教えたからだろう。樟葉はストレートと同じように、素早い腕の振りでカーブを投げようとする。
しかし、フォームに違いが出てしまうのは、球種ごとに別の回転を掛けようとするからである。短絡的に同じフォームで投げようとしても、今度は変化の方がおざなりになるのが関の山だ。
結局、何度か投げたが、樟葉もその例に漏れなかった。
ただ変化球を投げるのと、変化球を試合で使えるようにするのには大きな差がある。同じフォームで投げるのも、その関門の一つだろう。こればかりは、少しずつ修正していくしかない。
そう言おうとした直後だったから、夏来は度肝を抜かれていた。
ストレート同様のフォームでありながら、樟葉の投げたボールは、確かに利き手と逆側に曲がりながら落ちていく。これはカーブの変化である。
しかも、樟葉はただ同じフォームでカーブを投げただけではなかった。
このカーブには速度があったのだ。
ストレートに比べれば遅いものの、それでもこれまでのカーブより明らかにスピードが出ている。
穂波は捕球こそしたものの、驚きに声が出ないようだった。それは夏来もほとんど同じようなものである。
「……アンタ、今何やった?」
「何って、同じフォームで投げろって言ったのは夏来じゃん」
どうにか絞り出した夏来に対し、樟葉はごく冷淡にそう答えた。
穂波が興奮冷めやらぬという顔でこちらにやってくる。向こうもそのつもりだろうから、衝撃を共有しようと夏来は確認した。
「穂波ちゃん、今のって……」
「うん」
穂波も頷く。
そして、二人はほぼ同時に、
「パワーカーブ!」
と叫んだ。
そんな二人に対し、樟葉はあくまで冷ややかだった。
「……パワーカーブって何?」
「速いカーブのことだよ。別名ハードカーブ」
夏来がそう説明した。シンプルに、高速カーブと呼ばれることもある。
続けて夏来は言う。
「普通の緩いカーブは、球が遅くて軌道が特殊でしょ? そのせいで、フォームだけじゃなくて変化でも見分けがつけやすいのね。
だから、カーブ自体で勝負するっていうよりも、他の球種に慣れてきたバッターの意表を突いたり、逆に他の球種の球速や変化を際立たせるような使い方をされることも多いんだよ」
カーブは変化球の中でも特に遅い部類であり、ストレートは基本的に最も球速が出やすい。また、山なりのカーブと対照的に、樟葉のストレートはノビのある真っ直ぐな球だ。その為、カーブ自体が試合で使えるレベルになくても、ストレートを引き立たせるのには効果的だろうと、夏来はそう考えて樟葉に練習させたのだ。
しかし、カーブはカーブでも、パワーカーブなら話は別である。
「でも、パワーカーブは速さがある分、決め球として使いやすいと思う」
「ふーん……」
自分が何をしたか分かっていないのか、ぼんやりとした言い方をする樟葉。むしろ、興奮しているのは周りの方だった。
「感覚を忘れない内に投げ込んだ方がいいわよね」
そう言うと、穂波は慌てたように、また投げ込めるよう捕手の定位置へと戻った。
結論から言えば、樟葉のパワーカーブはまぐれではなかった。二投目も、一投目と同じように、変化しつつも速度を備えたボールとなる。
「うん!」穂波は声を弾ませた。「ナイスボール!」
ただ、それでも樟葉の表情は冴えない。
「やっぱり、自分だとよく分からん」
樟葉が自分に意見を求めていることは、この時、夏来の頭にはなかった。
この時の夏来は、ただただ樟葉のピッチングについて考えを巡らせていたのだ。
樟葉のパワーカーブは確かにいいボールだった。速度がある上に変化も小さくないから空振りが取れそうである。また、腕の振りは速く、フォームからストレートと区別がしにくい。制球力などまだ荒削りな部分もあるが、これなら練習試合までにマウンドを任せられるレベルのピッチャーになるかもしれない。
ノビのあるストレートといい、パワーカーブといい、たった一日でよくここまで辿り着いたものである。恐るべき才能だと言うほかなかった。
「…………」
「……夏来?」
何も答えないでいると、樟葉が怪訝な顔でそう尋ねてくる。
だから、「ああ、うん。今の感じでいいと思うよ」と、夏来はとってつけたような返答をするのだった。