3 初めての野球部③
結局、マシンバッティングでろくな成果を得られないまま、二人は休憩に入った。
樟葉はほとんど手ぶらで部活に来たらしい。仕方がないので、夏来は自分のスポーツドリンクを紙コップに分けてやった。
一口飲むと、樟葉は溜息をつくように声を漏らす。
「はー、疲れた……」
「そこまでやってないでしょうが」
スタミナ強化も兼ねて買いに走らせれば良かったかと、夏来は渋面を作った。
そうして休憩を取る間にも、夏来は今後のメニューについて考えを巡らせる。打撃練習を一通りやったから、次は守備だろう。そう思い至って樟葉に尋ねた。
「樟葉は、やりたいポジションってある?」
「…………」
迷っているのか、困っているのか。樟葉は黙り込んでしまった。
それを見て、まずポジションごとの特徴を説明するのが先かと夏来は気付く。大雑把に言っても、守備重視のピッチャー、キャッチャー、セカンド、ショート、センターと、打撃重視のファースト、サード、レフト、ライトに分けられ――
しかし、夏来が説明を考えている最中に、樟葉の方から質問してきた。
「一番楽なとこってどこ?」
「散々考えてそれかい」
眉根を寄せる夏来。面倒か否かというのは、樟葉が価値判断をする上で相当のウェートを占めているようだ。
ポジションの選択には、その特徴以外にも考慮しなければならないことがある。たとえば、チーム事情がそうだろう。
「空いてるのはファーストなんだけど」
「毎回ボール捕るんでしょ? やだよ」
「できたらピッチャーをやって欲しいかなぁ」
「毎回ボール投げるんでしょ? やだよ」
悪びれもせず樟葉はそう答えた。ぶれない基準に、夏来は「全くアンタは……」と二の句が継げなくなる。
ポジションごとに特徴があるということは、当然個人の適性をそれにすり合わせていくことが必要となる。そして、適性という点で、樟葉にはまず一つのハンデがあった。
「実を言うと、左利きだと守れるポジションが限られてくるんだよね」
「そうなの?」
「基本的に、ピッチャーとファースト、それから外野だけだよ」
「左利きは才能」と言って勧誘した手前言い辛いが、それもまた事実だった。総合的に見ればメリットが大きいのは確かだが、守備においてはデメリットもある。
「正確には、できないわけじゃないんだけど、送球なんかでロスが出て不利だから」
「ふーん……?」
「どうして左利きだとポジションが限られてくるのかというと――」
セカンド、サード、ショートの守備で多く見られるプレーの一つが、ファーストへの送球である。しかし、ファーストのいる左方向へ送球を行う場合、左利き(左投げ)の選手は捕球の後、一旦体を捻る必要があり、その分送球にロスが生じる。
キャッチャーの場合は、逆方向を向いて守る為、盗塁阻止で三塁に投げる時に同じ問題が起こる。また、人数の多い右打者と左手が重なる為に、打者を避ける動作が必要になり、二盗阻止にも悪影響が出てしまう。
加えて、ホームでのクロスプレーの際、ミットを右手にはめていると、三塁――左手方向から走ってくるランナーに対してタッチがし辛いということも挙げられる。
それぞれの損失は、さほど大きなものでもないかもしれない。身体能力でカバーできる部分もあるだろう。
だが、レベルが上がり、実力が拮抗した状態では、たとえわずかな差であっても軽視はできない。その為、アマチュアならともかくプロレベルでは、左投げのキャッチャーや左投げの内野手を見ることはまずないのである。
「と、いう訳なんだよ。分かった?」
「とにかく左利きはピッチャーとファーストと外野しか無理ってことでしょ?」
「……うん、まぁ、それでいいや」
要旨だけでも理解してくれて良かった。夏来はそう自分に言い聞かせる。
それから、話題に上げた二つのポジションについて考え始めた。
ファーストは送球を受けるのが中心で守備負担が軽く、一般には打撃のポジションとされる。しかし、ここがまともに送球を捕れないと、それはすなわちまともにアウトを取れないことになってしまう。草野球などでは好守の選手を置くことがまま見られ、レベルによって相対的に求められる守備力が大きく変わるポジションと言えるのではないか。
ピッチャーは投球を行うのが主で守備はあまり意識されないが、その投球後に打球の処理やベースカバーをしなくてはならない場面もある。その為、ピッチャーはしばし「五人目の内野手」と呼ばれるのだ。
だから、夏来はこう結論を出した。
「どこ守るにしろ、やっぱり守備が課題かなぁ」
打撃は下手でも、せいぜいアウトカウントが増えるだけのことだ。チーム全体の打線で点を取ればそれで良い。
しかし、守備でのミスは、即失点に繋がりうる。また、傷を広げないようカバーに入るくらいのことはできるが、エラー自体をなくせるかどうかは個人の技量に関わっており、チームでフォローすることも難しい。そういう理由もあって、丹波連城は「守りの野球」をモットーにしているくらいだった。
「ただでさえ、樟葉は硬球を怖がってるし……」
夏来は、キャッチボールやマシンバッティングを戦々恐々とこなす樟葉の姿を思い出す。適性という意味ではそれが一番の問題かもしれない。
練習中、頭の片隅でずっと考えていたことだが、夏来はこの問題について未だに良い解決策を思いついていなかった。ただ幸いにも、二人が話している間に他の部員たちも休憩に入っていた。それで、アドバイスを求めることにする。
「縁子ー」
そう言って、本城縁子を呼ぶ。
軽くパーマのかかった、綿菓子のようなふわふわとした髪。大きな目をした、まだ幼さの残る顔立ち。
体格は貧弱で、背は小柄な上、手足もか細い。だから、一見してスポーツをやっているようには見えないかもしれない。内野守備の中でも重要度の高いショートをやっているようには、なお見えないことだろう。
「守備のコツっていうか、硬球にビビらないコツとかってない?」
「コツか~」
やはり体育会系らしからぬ、特有の間延びしたような喋り方で繰り返すと、それから縁子は思い至ったように答える。
「ボールはともだち。こわくないよ」
「それはもう一回やったよ」
樟葉が渋い顔をする。
これに、夏来も口を挟んだ。
「って、それサッカーじゃん」
「だから、それも一回やったって」
樟葉はますます渋い顔をした。
小首を傾げながら、縁子は困ったように言う。
「う~ん、改めて聞かれると難しいね~」
「縁子は守備上手いもんね」
夏来は「だから聞いたんだけど」とも続けた。
「名選手、名コーチに非ず」ということかもしれない。縁子はしばらく悩んだ末、最終的に夏来と同じ手段を取った。他の部員にアドバイスを求めたのである。
「ヒロちゃんは?」
「……私?」
振り返った反動で、艶やかな黒髪のポニーテールが揺れる。そして、切れ長の瞳が、正眼にこちらを見据えた。
平均以上とはいえ、群を抜いて背が高いわけではない。しかし、しゃんと伸びた背筋が、彼女をそう見せていた。例の切れ長の瞳も合わせて、凜乎とした雰囲気がある。
「私も初心者だから」
岩井比呂は、固辞するようにそう答えた。
ただ、方法こそ夏来と同じようなものだが、発想は違っていたようである。縁子は意図を改めて説明する。
「その方が初めての子の気持ちが分かるかな~って」
比呂も野球を始めたのは高校に入ってからだった。しかも、守るポジションは、右打者の引っ張った強い打球が飛ぶサードである。樟葉がモデルケースとするには最適の人材かもしれない。
「普段、どういうことに気をつけて守備に着いてるの?」
「…………」
少し考えてから、比呂は答える。
「明鏡止水」
そう言う比呂の態度は、答えた通りのものだった。樟葉はこれに、呆れ半分怒り半分という口調になる。
「さっきから、全然参考にならないんですけど」
「比呂は剣道やってるから」
「何その剣道万能説」
夏来の返答にも、樟葉は不満げにそうこぼした。
そんな風にして、一年生たちがああだこうだと言い合っていると、それを見かねたように、
「三間ノックでもやってみる?」
と言って、上級生が話に割り込んだ。
「あ、えーと……」
樟葉が言い淀む。
長くも短くもないような髪。中肉中背の、同年代ではいたって標準的な体型。
顔つきも、十七歳という年齢なりのものだった。すなわち、女の子というにはもう大人っぽいが、女というにはまだ子供っぽいところがある。ちょっと見の可愛らしさはあるが、色気と呼べるほどものは備えていない。
この容姿は――
「佐藤先輩」
「鈴木だよ。鈴木花佳」
花佳はそう訂正した。
しかし、これを無視するように、樟葉は夏来に対して尋ねる。人見知りをしているのか、嫌がらせをしているのかは微妙なところだ。
「ノックはいいとして、サンゲンって?」
「距離の単位でしょ? 一間は、えっと……」
「約1.8メートル」
「そうそう」
それが分かれば、後は簡単である。夏来は単純計算して答えた。
「だから、5メートルちょっとか」
「……それ、今の時代には許されないタイプの練習じゃないの?」
顔を青ざめさせながら、樟葉は質問のような詰問のようなことを口にしていた。
確かに樟葉の想像した通り、打球を至近距離で捕る練習には違いない。だが、体罰じみたような、非人道的な練習というわけでもない。それを花佳が説明する。
「キャッチャーの防具つけてやるから平気だよ」
三間ノックとは、マスクとプロテクター、レガースで体を防備した状態で、至近距離からノックを行う練習のことである。これは守備技術の向上云々というより、打球に目や体を慣らし、恐怖心をなくすことを目的にしている。
「最初は、もっと距離取ってもいいし」
「そういうことなら……」
花佳の言葉に、不承不承と頷く樟葉。これを見て夏来も、
「じゃあ、休憩空けは三間ノックで」
と、樟葉が文句を言い出す前に話をまとめてしまう。
また、ありがたいことに、花佳はただ練習方法を提案するだけで終わらなかった。
「なら、ノッカーは私がやるよ」
「いいんですか?」
「まぁ、言いだしっぺだしね」
夏来が確認を取ると、花佳は照れ隠しのようにそう答えた。
花佳のポジションは、内野守備においてショートに次いで重要とされるセカンドだった。だから、単にノックを打つだけでなく、指導にも期待が持てる。
「どうもすみません。お願いします」夏来は頭を下げた後、樟葉にも同じことを促す。「ほら、アンタも」
しかし、夏来が押さえつけるまでもなく、樟葉は自分から頭を下げていた。
「お願いします、高橋先輩」
「鈴木花佳と申します」
◇◇◇
話し合いの通り、休憩空けの練習は三間ノックから始まった。
キャッチャーの防具を一式装備した樟葉は、三間と言わず十間は距離を取る。そして、これも話し合いの通り、花佳がノッカーを務め、夏来がボール渡しをする。
ノックを続けながら、花佳は言う。
「動きはぎこちないけど、反射神経自体は悪くないっぽいね」
「はい」
同意見のようで、夏来もこれに頷いた。
「結局、慣れだと思うんですけどね。技術的にも精神的にも」
樟葉は三間ノックの前から、ある程度捕球の基礎について教えられていた。キャッチボールをした際に、夏来がゴロやショートバウンド、ライナー、フライといった打球の種類を投げ分けて、手投げノック(ハンドノック)も行っていたのである。
それに加えて、今は防具で守られているという安心感もあった。弱いゴロやフライだからと言えばそれまでかもしれないし、ミスが全然ないわけではないが、樟葉は何とか打球をグラブに収めていく。
一定の成果を確認して、花佳は次のステップに進む。
「今度はライナー行くぞー」
そう言って、バットを振った。
手投げノックをやったとはいえ、打球は投げられたものより断然速い。矢のように、銃弾のように、ボールはこちら目がけて一直線に飛んでくる。
怖気づいた樟葉は、さっと打球から体を逸らした。後ろに、転々とボールが転がる。
最初はそんなものだろうと笑いも怒りもせずに、花佳はもう一球ライナーを打つ。防具をしていても怖いものは怖いと、樟葉は持ち前の反射神経でこれを避ける。
打つ花佳、避ける樟葉。これをしばらくの間、繰り返した。
「ボクシングの練習でこんなの見たなぁ」
花佳が言っているのは、投げられたピンポン球を避ける練習のことだった。しかし、ボクシングでなら防御として成立するが、野球ではただのミスである。
だから、花佳はやんわりと注意してきた。
「捕れとは言わないから、せめて避けるのはやめよう」
続いて、夏来も助言を送ってくる。
「キャッチボールと要領は変わらないって」
「そんなこと言われても……」
樟葉はそう反論した。マスク越しでも伝わるように、露骨に嫌そうな顔をしておく。
三間ノックはボールに対する恐怖心をなくす為の練習である。花佳の言うように、避けずに体で受け止めてでも、打球に慣れなくてはいけない。だから、防具をつけてやるのだ。
その理屈は樟葉も分かっている。だが、いくら防具があっても、打球への恐怖心を完全に取り除けるわけではない。防弾チョッキを着ていても銃で撃たれたいとは思わないのと同じことである。
こうして樟葉の取りこぼしたボールは、その後方で待機する縁子と比呂が拾い集める。二人も花佳同様、練習に付き合ってくれていたのだ。
よくやるものだと樟葉は思う。二人は夏来のように自分を勧誘したわけでもなければ、真紀や花佳たちのように先輩というわけでもない。
いや、そもそもからして、樟葉には、夏来や花佳たちが積極的に練習を手伝ってくれることでさえ理解できなかった。人数不足で戦力が欲しいのは分かるとしても、自分は所詮一時的な助っ人に過ぎない。いずれ辞めるような人間を相手に、自身の時間を割くのが惜しいとは感じないのだろうか。
そうまでしてでも、今度の練習試合に勝ちたい理由があるということか。それとも、慣れてきたら逆にこちらが練習を手伝うこともあるだろうから、それで五分ということか――
またも樟葉が打球を避けると、縁子が声を掛けてきた。
「怖がって縮こまった動きになる方が危ないと思うよ~」
比呂もこれに続く。
「阿久津さん」
樟葉の肩に手を置くと、あくまで端然と言う。
「ボールはともだち。こわくないよ」
「意外とノリいいな……」
樟葉は呆れ交じりにそう答えた。