2 初めての野球部②
バットを中空に向けてスイングしていた樟葉を、夏来は「よし」と制止する。
「じゃあ、そろそろ次の練習行こうか」
キャッチボールを終え、二人は打撃練習を始めていた。今はその第一段階として、基本的な動作を覚える為に素振りを行っていたところだったのだ。
早くもガス欠気味なのか、樟葉はバットを杖のように地面に突きながら聞いてくる。
「次は何?」
「今言ったことに気をつけて、このティースタンドに置いたボールを打つ練習だよ」
ティースタンドは突起部分が長く伸びた凸型をした用具である。ゴルフのゴムティーを硬球に合わせて大きくしたようなものとも言える。説明した通り、このティースタンドの先端にボールを置き、それを打つことでスイングの確認、修正を行うのだ。
ボールの位置が樟葉の身長に合うように、支柱の長さを調節しながら夏来は話を続けた。
「ティーバッティングって言うんだけどね」
これを聞いた瞬間、樟葉は熱っぽい声を上げる。
「放課後ティーバッティング……!」
「え?」
珍しく興奮しているようだが、夏来には何の事だか分からない。少なくとも、今日は休日であって放課後ではないはずだが。
「何? どういう意味?」
「いいから」
「アニメか何かのネタ?」
「だから、いいって言ってるじゃん」
気になって仕方のない夏来に対し、樟葉は頑として会話を打ち切りたい様子だった。空振りに終わったギャグを解説させる方が間違っていたかもしれないが。
説明と雑談が終わると、ティーバッティングが始まる。
夏来がティースタンドにボールを置き、それを正面のネットに向けて樟葉が打つ。この動作を餅つきのように延々繰り返す。
もっとテンポ良くやってもよかったが、速く次の球を打つことばかりに注意が行った結果、練習する意識が散漫になって流れ作業化し、最悪フォームを崩すことにもなりかねない。だから数よりも質で、素振りで指導したことを一球一球確認させるように、夏来は意識的にボールの設置に間隔を空けて、樟葉には丁寧に時間を掛けてティーバッティングを行わせた。
夏来の指導方針が功を奏したのか、樟葉の運動神経がいいせいか、上達は早かった。野球部の雰囲気に慣れてもらう為にも、初日はなるべく色々なメニューを体験させる気でいたが、これならもう次の練習に入ってもいいかもしれない。
次はようやく動くボールを打つ練習である。
「今度は私がボールをトスするから、それを前のネットに打ってね」
斜め前から投げられた緩いボールを打つのが、この練習の基本形である。他にも目的に応じて投げる位置や打ち方を変えるなど、いくつかのパターンが存在している。
始める前に、樟葉から質問があった。
「これは何バッティング?」
「ティーバッティングだよ」
「…………?」樟葉は不審げな顔をすると、今使ったばかりのティースタンドを指して言う。「……さっきの棒がティーじゃないの?」
「何でか知らないけど、そういうものなんだよ」
腑に落ちないという表情の樟葉にそう言い聞かせる。区別の為にティースタンドを使った練習がティースタンドバッティングや置きティーなどと呼ばれることはあるが、トスされたボールを打つ練習がティーバッティングと呼ばれる理由は夏来にもよく分からなかった。
二人は「トスしてるんだから、トスバッティングじゃないの?」「それはまた違う練習なんだよ」などとやりとりした後、ティーバッティングを開始した。
動くボールを打つだけに、ティースタンドバッティングの時以上にフォームが崩れないよう気をつけなくてはいけない。今回も一球ごとに間を置いて丁寧に行う。
そうして練習を続けていると、途中、夏来に声が掛かった。その相手は樟葉ではない。
「夏来、代わろうか?」
「キャプテン!」
声を掛けてきたのは野球部キャプテン、吉川真紀だった。
副キャプテンは穂波だが、真紀には穂波とはまた違った安心感があった。
すらりとした長身に、細面の大人びた顔立ち。清潔感のある短めの髪は、結ってまとめられている。落ち着いた物腰も合わさって、年齢が一つしか違わないとは夏来にはちょっと思えない。穂波が「温和」なら、真紀は「冷静」といったところだろう。
「いいんですか?」
そう聞く夏来に対する真紀の反応は、喋り方もその内容も、やはり大人びたものだった。
「夏来だって、自分の練習がしたいでしょう? こういう時は、やっぱりみんなで協力しないと」
それから、静かに微笑む。
「私たちは、チームなんだから」
「キャプテン……!」
樟葉は自分が部に誘ったのである。その手前、他の部員には手伝いを頼みにくかった。真紀はそれを察して、こうして自ら申し出てくれたのだ。
だから、夏来は思わず感激の声を上げていたのだが、一方で樟葉は静かなものだった。
「…………」
それどころか、樟葉はげっそりとした表情さえ浮かべていた。顔色も蒼白である。
真紀は怪訝そうに小声で夏来に尋ねる。
「……どうかしたの?」
「すみません。この子、熱血アレルギーなんです」
◇◇◇
代役を真紀が買って出て、ティーバッティングはなお続けられた。
トスをするのが夏来だろうと真紀だろうと何も変わらない。樟葉は淡々とバットを振る。
強いて言うなら、ただでさえ煩わしい人間関係に、先輩後輩の上下関係の要素が加わることは懸念していた。ほとんど経験のないことだが、それだけに気苦労が増えそうである。
幸い練習中のせいか、性格のせいか、真紀はただ黙々とトスを出していた。これなら、威張って怒鳴られたり、逆に妙な気遣いをされたりすることはなさそうだ。
しかし、真紀もいくらキャプテンとはいえ、よく損な役回りを引き受けたものだと思う。自分の練習がしたいのは真紀だって同じだろうに。こういう人間関係が煩わしくなったりしないものだろうか。
そんなことを樟葉が考えていると、真紀は手を止めて言った。
「阿久津、もっと脇を締めて」
「はぁ……」
雑念が混じった影響だろうか。知らない内にスイングが崩れていたようだ。
樟葉は、交代後も律儀にすぐそばで練習している夏来に目をやった。助けを求めようというわけではなく、素振りの最中だったから参考にしようと考えたのである。
あくまで素人目に見てだが、改めて上手いと思う。少なくとも、長年練習した跡が見える。
上半身を後ろに引き、そこから捻った腰を回転させると、それと連動するように腕が振られる。テイクバックからフォロースルーまでの一連の動きが流れるように繋がって、スイングという一つの動作を作り上げていた。
脇を締めることを含め、打撃の際の注意点は夏来から教えられていた。だから、その指導を思い出し、更に見たばかりの彼女の実際のスイングを思い浮かべ、今一度樟葉はバットを振る。まずは上半身を後ろに引き――
樟葉の素振りに、真紀は「うん」と満足したように頷いた。言葉で伝わらないなら手を取って教えようと考えていたらしく、ボールをかごに戻していたのだが、真紀はそれを再び投げる姿勢に入る。
「そういう感じで――」
「ダメダメ」
ティーバッティングを再開しかけたところに、そう言って横から待ったが掛けられた。
「もっとこう、グッといかないと」と提案したのは篠崎湊。
「いやいや、ガッとでしょ。ガッと」と訂正したのは岡田朋美である。
このレフトとライトの両翼コンビを、センターの真紀が一喝する。
「湊、朋美、うるさい」
それから、次は樟葉に声を掛けた。こちらについては落ち着いたトーンだった。
「ごめんね。あの二人の言うことは基本的に無視していいから」
「はぁ……」
樟葉は曖昧にそう答えた。湊も朋美も二年である。常識的に上級生を無視するのはまずいような気がするのだが。
しかし、真紀は注意をした後、二人を放置するようにすぐに練習を再開する。当の上級生が無視しろと言うのだから、それで構わないのかもしれないと樟葉も思い直した。
ティーバッティングが始まってからも二人の話は止まらない。打撃理論について、互いに独自の意見を展開する。
「バァッっといってガーンとかもありだよね」
と、湊が聞けば、
「シュッと振ってバーンとかね」
と、朋美が答える。
容姿だけで言えば、二人はさほど似ているわけではない。
背丈こそ平均並みで同じくらいだが、健康的に肉のついた湊に比べると、朋美はよりスリムな、美容的な体型だった。またヘアスタイルも、湊がざっかけない短髪であるのに対し、朋美は長く、色も派手だ。
当然顔だってパーツごとに見れば、それぞれに個性や特徴がある。ただ、言動というか精神性に重なる部分が多いせいか、二人が見せる表情はまるで双子のように似通っていた。
両者共に子供じみた、悪戯っぽい笑みを浮かべながら話を続ける。
「何だっけ? こうボールを前で捉えて……」
「ああ、手をギュンと押し込むといいらしいね」
悪乗りを更に重ねてくる相手がいるせいか、会話はどんどんヒートアップしているようだった。朋美の返答に、湊は調子づいたように言う。
「もういっそのこと、グワァラゴワガキーンって――」
「アドバイスするならするで、真面目にやりなさい」
トスしかけたボールをかごに投げつけると、真紀は二人をそう叱った。
だが、お説教を素直に聞き入れるような湊と朋美ではなかった。急に真剣な顔をすると、束になって反論してくる。
「こういうのって、感覚的に教えた方が伝わりやすかったりするんだって」と湊。
「そうそう。スポーツオノマトペってやつだよ」と朋美。
盗人にも三分の理。ああ言えばこう言う典型例に、真紀は眉間に皺を寄せる。
「絶対そんな真面目なこと考えてなかったでしょ」
二人にそう言うと、やはり次は樟葉に声を掛けた。ただし、今回はやや険がある。
「応用的にも無視していいから」
「そうします」
今度は、はっきりとそう答えた。
◇◇◇
「それじゃあ、一度マシンバッティングをやってみようか」
ティーバッティングの後、夏来はそう提案した。
バッティングケージとピッチングマシンが置かれ、マシンの脇には真紀が立っている。引き続き、練習を手伝ってくれていたのだ。
球速や投球コースを確認する意味で、真紀はまず一球、マシンに投げさせる。球種は基本のストレート。
これに、樟葉はボソッと感想を漏らした。
「速……」
「たったの100キロだよ。樟葉の投げる球の方がずっと速いって」
勇気づけようと夏来が言うが、追い討ちになってしまったらしい。樟葉は「100キロの石つぶて……」と呟いていた。
不安と不満の交じった顔のまま、渋々と樟葉は打席に入る。しかし、単に打席に入っただけで、バットを振る気配はない。二球、三球とボールを見送っていた。
「どう?」マシンを一旦止めると、気遣うように真紀は尋ねる。「何とかなりそう?」
「はい」
意外にも、樟葉はあっさりとそう肯定した。
「何とか避けれそうです」
「打てそうかどうか聞いてるんだけど……」
初心者相手にあまり強く言えないせいだろう。真紀の声は語尾にかけて小さくなっていった。
それでも、樟葉はまだ硬球への不安を拭えないでいるようだ。夏来に向かって言う。
「これ、本当にぶつかったりしない?」
「しないしない。機械なんだから」
「でも、何事にも絶対はないよね?」
「アンタ、どんだけびびってんのよ」
しつこく聞いてくる樟葉に、夏来は呆れだしていた。
その後、おっかなびっくりという調子で、樟葉はようやくバットを振り始める。ただ体は恐怖心に硬直したようにぎこちなく、そのせいでスイングが崩れている。だから、ボールになかなか当たらないし、当たってもまともに飛ばない。
(まだ早かったかな……)
樟葉の様子に、夏来は考えたメニューを反省する。
実戦的な練習であるマシンバッティングは、これまでの基礎的な練習の成果を総括する意味で行った。それで妙な癖がついてしまったのでは苦労が水の泡である。失敗続きでモチベーションが低下したり、自信を失くしてしまうことも危惧される。
今日は元々、体験入部レベルで練習をさせるつもりだったのだ。樟葉も疲れてきているようだし、このあたりで一旦切り上げた方がいいかもしれない。
夏来がそうして悩む間にも、樟葉は空振りと打ち損じを繰り返す。
すると、これに声援が起こった。
「頑張れ!」と湊。
「ファイト!」と朋美。
続いて、「手だけで振らない」「ボールをよく見て」などとアドバイスも送る。
(先輩たちの言う通りか)
すぐに諦めてしまっては何も身につかない。それは技術だけでなく、精神もである。樟葉が分かりたいと思ったものも、きっと分からないままだろう。
だから、もう少し様子を見ようと、夏来も「素振りでやったことを思い出して」と声を掛けた。
が、しかし、湊と朋美のやることが、それだけで収まるはずもなく――
「諦めないで!」
「自分を信じて!」
「明日を夢見て!」
「希望を今、力に変えて!」
早くも脱線を始めた二人に、夏来は苦笑する。最初は感心した風だった真紀も、たまりかねたように口を開く。
「だから、やるなら真面目にやりなさいって言ってるでしょ」
その一方で、樟葉本人はといえば、
「…………」
黙りこくって、悪態の一つもつかない。
これを見て、真紀はますます語気を強めた。
「ほら、阿久津だって、いい加減怒って――」
「もういっそ殺してください……」
「熱血アレルギー!」