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るき×ろじ!  作者: 我楽太一
第一章 Bystander×Baseballer
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9 Bystander×Baseballer

「おかえり」


「おー、ただいまー」


 その夜、帰宅してようやく夕食の席に着いた菊花きくかは、残業の疲れもふっ飛んだような笑みを浮かべる。娘がわざわざ部屋から出てきて迎えの挨拶をしたことに、驚きと喜びを覚えているようだった。


 何だか勘違いされたようだが仕方ない。酔っ払ってしまう前に、樟葉は質問する。


「……仕事って、そんなに楽しい?」


 菊花は晩酌の手を止めると、すぐさま聞き返してくる。


「今度の休み、みんなでご飯でも食べに行こっか?」


「深読みし過ぎだよ。そういう意味じゃないから」


 キャリアウーマンだけに、やはり頭は回る方らしい。今回は空回りもいいところだが。


 安心したようにペルノ・ウォーターを一口飲むと、菊花は単刀直入に問い質す。


「じゃあ、どういう意味?」


「だって、お父さんだけでも結構稼いでるでしょ? お母さんが働く必要なくない?」


 キッチンで作業する父を見ながら、樟葉は「逆もしかりだけど」と付け加えた。


 家事が楽だと言うつもりはない。だが、共働きで仕事をしながら分担で家事をこなしている現状を考えれば、どちらかが家庭に入った方が明らかに負担は減るだろう。金銭的な問題を抱えているわけでもないのだから、何も無理に働くことはないはずである。


 樟葉はまた、昼間見た試合や練習の光景を思い出していた。彼女たちがどれだけ必死に頑張ろうと、プロ野球選手になれる者はごくわずか。それのみで生涯の生活資金を得られる者は更に少ないことだろう。ほとんどが将来野球と無関係の人生を送るのは明らかで、無意味な苦労を背負い込んでいるとしか思えない。だから、以前からの疑問を、今日聞かずにはいられなかったのだ。


「何でわざわざそんなことするの?」


 菊花の反応は、今度も早かった。


「別に、お金の為だけに働いてるわけじゃないよ」


 樟葉が思わず父の方を見ると、「ほらね」と言わんばかりに微笑していた。つい先程、同じことを聞いて、同じことを言われていたのだった。黒縁眼鏡で優等生風の父と、瞳に自信を宿す活動家の母。似ていないように見えて、夫婦になるだけのことはある。


 二人の言わんとすることはおおよそ察しがつくが、樟葉は一応尋ねてみた。


「生きがいとかやりがいとか、そういうの?」


「そうそう」


「うえぇ……」


「結構良いこと言ってるつもりなんだけど」


 父にも母にも似つかない反応をすると、菊花は渋い表情になった。


 しかし、樟葉からすれば正当性のある主張のつもりだった。残業までした上、気晴らしに晩酌する母の姿を見ていると、余計にその思いは強くなる。


「だって、疲れるでしょ? 面倒くさいでしょ?」


「まぁ、そういう人だっているよね。どうせ食べていくには働かなきゃいけないんだから、そういう意味では私はラッキーなのかもね」


 そう言って、菊花は一定の理解を示した。年中だらけている娘に影響されたのか、もしくはそれを擁護したかったのかもしれない。


 ただ、菊花は単純に樟葉の意見を受け入れたわけではなかった。


「樟葉は、誰にも負けたくないものとかないの?」


「ない」


「負けたくない相手は?」


「いない」


 にべもない態度に、菊花は質問の方向性を変える。


「将来に繋がりそうになくてもいいから、何かやりたいことは?」


「ダラダラしたい」


「臆面もなく」


 躊躇のない返答を聞いて、眉間に皺を寄せる菊花。それから、溜息交じりに続けた。


「そうやって息抜きばっかりしてると、息抜きに飽きが来そうなもんだけどなぁ」


 こうまで言われると、樟葉も反発したくなる。


「息抜きばっかりって、学校はちゃんと通ってますけど」


「……アンタ、学校楽しい? 友達いる?」


「学校なんて、進学だの就職だのの為に仕方なく行くものなんだから、楽しいとか楽しくないとかじゃないでしょ」


 半分は反抗心だが、もう半分は本心だった。行かなくて済むのなら、まず間違いなく行かなくなるだろう。樟葉にとっては、その程度の価値しかない。


 これに菊花は、少し考え込む仕草を見せた。


「……本当に学校行くだけでも大変なら、それ以上頑張れって言うのも酷か」


 呆れるでも、見限るでもなく、優しげな声色だった。言うべきことを言って、もう酔っ払っても構わないと思ったのか、ペルノ・ウォーターをもう一口。


 しかし、それは言わば食前酒アペリティフのような、本題に入る前の下準備だった。舌と喉を適度に潤わせた菊花は、改めて口を開く。


「でも、試しにでいいから、何か一回頑張ってやってみたら? やる前は面倒くさいだけに思えても、やってみれば案外楽しいこともあるかもよ?」


「…………」


 はたして、そういうものなのだろうか。夏来たちのように何かに必死になる人間の気持ちも分からないが、母の言うことも分からない。分からないから否定も肯定もできず、ただ黙りこくるしかなかった。


 そんな樟葉に、菊花は言った。


「アニメが好きなら、いっそ日本一のアニメオタク目指すとか」


「せめて評論家とか言おうよ」



          ◇◇◇



「私が行ってきましょうか?」「岐阜は鷲林山しゅうりんざんが優勝したみたいね」「あれが空きっ腹にズドンと来るんだよ」


 夏は朝の訪れが早い。活動的になった太陽が、急ぐように高度を上げて、輝きを増していく。夏の大会での敗退、引退を「夏が終わった」と表現することがあるが、現実には夏はまだ始まったばかりだった。


 県大会決勝の翌日、丹波連城高校の野球場には、相談したわけでもないのに朝早くから部員たちが集まっていた。各々雑談に興じつつも、部活の開始に備えて、キャッチボールなどの軽いメニューで自主練を行う。


 そんな中、夏来は穂波のお説教に捕まっていた。


「あんまり投げ込むと、肘に悪いんじゃない?」


「でも、どうしても左バッターがネックだからねー」


 そう言い返す夏来。練習時間を削られては困る。今日は特別そう思う。


「昨日の試合見た後だしね」


 野球は筋書きのないドラマである、と言った人がいる。


 ならば、野球の練習は筋書きのないドラマに筋を引こうとする努力だと言えるだろう。強者は勝利を磐石のものにする為に、弱者はわずかな勝機を逃さないようにする為に、研鑽と工夫を重ねる。


 その為に夏来も、そして他の部員たちも、今朝は早くから集まったのだ。


 それは同じように早出した穂波も、十二分に理解しているだろう。最終的に、夏来の言うことに頷いていた。


「ああ、水上さんね」


 夏来は「うん」と答えると、テレビ中継のリプレイのように、決勝でのゆうの活躍を思い出す。二回表、150キロオーバーのストレートを引っ張って打った、強烈かつ鮮烈なライトへの先制ホームラン。


「やっぱり、あの人は――」


 と、そこまで言いかけたところで、夏来は話を中断した。遅れてやってきた彼女を目にして、思わず叫ぶ。


「樟葉!」


 グラウンドには、樟葉の姿があった。


 こちらの動揺など露知らず、今にも「うるさい」と言い出しかねないような冷めた顔つきで、それでも確かに樟葉はやってきたのだ。


「えっ? 何で?」


 部活の日程や開始時間について会話した覚えはあった。だが、昨日した約束といえば、以前に交わした「また今度、一緒にアニメを見る」というものを、別れ際に確認した程度だった。


 樟葉が今日グラウンドに来たのは、彼女が自分で決めたことである。そして、樟葉はこれまでに、しばしば野球に興味を持ったような素振りを見せていた。


 だから、先程狼狽したばかりのはずの夏来も、すぐに一つの可能性に思い至る。


「もしかして、野球部に入部して――」


「それはない」


「えー」


 むしろ、それしかないと思っていたくらいである。言下に否定されて、夏来はぬか喜びに肩を落とす。


 しかし、樟葉の話にはまだ続きがあった。


「それはないけど、こっちもアニメ見るの付き合ってもらったんだし、練習試合まではそっちに付き合うよ」


 助っ人のおかげで九人揃った。これで練習試合を行える。その上、助っ人は、おあつらえ向きなことに――


 そう喜んだのは束の間のことだった。夏来は慌てて口を開く。


「気を遣わなくてもいいよ。野球部のことは野球部で何とかするから」


 他人に迷惑を掛けてまで練習試合をしたいとは思わない。特に樟葉には、努力を強要するなと散々非難されていた。だから、昨日もアニメのこと以外の約束はしなかったのである。


 だが、これもまた、いつものように、


「別に」


 と、樟葉は言葉少なに退ける。


 愛想がないのか、素直でないのか。申し出自体はありがたいのだが、そこが判然としないせいで夏来はどうにも戸惑ってしまう。


 ただ樟葉は、夏来に恩義を感じたり、情にほだされて申し出ただけではないようだった。


「……夏来たちが何でそんな必死なのか、正直全然分からないけど」


 樟葉は相も変わらず冷めた瞳のまま、夏来を真っ直ぐ見据える。


「でも、分かってみたくはなった」


 アニメを見たことのない夏来には、最初その良さが分からなかった。それなら、まともに努力したことのない樟葉にも、その良さは分からないだろう。


 アニメに夢中になる樟葉の姿を見て、初めて夏来はその良さを分かってみたいと思った。それなら、努力する夏来たちを見た樟葉も――


「樟葉……」


 感慨に耽る時間は短かった。夏来はすぐに右手を差し出して、握手を求める。


「それじゃあ、短い間だけどよろしく」


 同じように樟葉も手を伸ばしてくるが、それを顔の前で振っていた。

「いや、そういうのいいから」

「ぐぁー、憎たらしい」

 たまりかねて、夏来は声を荒げた。


          ◇◇◇


 こうして、樟葉を助っ人に加え、丹波連城高校野球部は始動する。


 最初にミーティングで改めて自己紹介をさせたが、樟葉は「阿久津樟葉です。よろしくお願いします」とだけ言って早々に頭を下げる始末だった。おかげで、夏来が「えーっと、樟葉は元々帰宅部で、趣味はアニメを見ることで――」と紹介をする羽目になる。


 樟葉の態度に、部員たちは一度は呆気に取られたものの、基本的にはそれだけだった。ただでさえ助っ人を引き受けてくれた上に、遠投やピッチングで実力のほどは知られていたから、不満の声が上がる様子はない。むしろ、たった一試合の為に、普段の練習にまで参加してくれるということで、皆好意的だったくらいである。


 面倒事が済んだとばかりに、自己紹介が終わると樟葉はすぐに尋ねてきた。


「で、練習って何すんの?」


「最初は、ランニングだね」


 夏来がそう答えると、樟葉は「ふーん……」と曖昧に頷く。


 練習のスタートはウォームアップから。まずはランニングで体を温める。部員全員で一団となって、「1、2、3、4」「2、2、3、4」と、キャプテンに続いて声を出しながら走り込むのだ。


 その後、各種のストレッチで筋肉をほぐし、関節の可動域を広げる。怪我を防止し、より高いパフォーマンスを発揮する為に、ウォームアップは欠かせない。


 しかし、それはランニングを開始してから、まだ間もないようなタイミングで起こった。一団から取り残されるように、一人の走るペースが遅れだしたのである。


 夏来は彼女と併走する為、わざと速度を落とす。


「樟葉、どうしたの? 調子悪い?」


 一目で樟葉が普通の状態ではないのは分かった。荒い呼吸。大量の汗。力なく動く手足。顔にはいつにも増して生気がない。


 だから、真っ先に体調不良を疑ったのだが、直後に夏来は別の原因を思いつく。樟葉は野球どころか、スポーツの経験さえ皆無なのだ。


「……もしかして、アンタ、スタミナない?」


「もしかしなくてもない」


 呻くように答える樟葉。やはり体調不良ではなく、体力不足で正解だったようだ。


「えー、まだ走り始めたばっかなのに」


 夏来は思わず文句をこぼす。何しろ、あれほどの運動神経である。ここまでスタミナがないというのは正直に言えば期待外れだった。野球は他のスポーツに比べて運動量が少なく、さほど持久力を必要としないとはいえ、最低限度というものがあるだろう。第一、これでは練習すらままならないのではないか。


「そういうところは帰宅部なんだなー」


「…………」


「ゴメン。怒った?」


 わざわざ助っ人を引き受けてくれたというのに、無礼が過ぎたかもしれない。黙り込む樟葉に、夏来は慌てて謝罪する。


 しかし、樟葉はそんな理由で黙ったわけではないようだった。ほうほうの体で、ようやく声を絞り出す。


「……疲れたから帰っていい?」


「おい」

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