1 Prologue
「おおー!」
投げられたボールが長い放物線を描くと、クラスメイトたちから大きな歓声が起こった。
春――四月、入学式や自己紹介といったイベントを済ませた新入生たちを、次に待ち受けていたのは体力テストだった。クラスごとにローテーションして各種目を回る中、一年二組の女子はグラウンドでハンドボール投げの測定を行っていたのだ。
記録係を務める生徒が、同心円弧で描かれた白線から数字を読み上げる。
「40メートル」
体力テストの評価基準では37メートル以上の数値を満点(10点)としていることから考えても、間違いなく強肩の部類だろう。岩井比呂の記録に対して再び歓声が起こった。
「肩強いね」
投げ終えたばかりの比呂のところに、クラスメイトの一人がそう言って声を掛けてくる。顔にはいかにも快活そうな笑みを浮かべていた。
「岩井さんって、中学の時は部活何やってたの?」
「特には」
にこりともせず比呂は答える。内容のせいもあってか、表情を変えていたのはクラスメイトの方だった。
「え? 本当に?」
「家が剣道の道場をやっているから、その練習には出ていたけど」
「あー、それでか」
彼女の顔つきが驚嘆から得心に変わった。感情がそのまま表情に出るタイプらしい。
聞かれたのだから、社交辞令として聞き返した方がいいだろう。比呂は半ば義務的にそう考えたものの――
「えっと」
「日高夏来」
こちらが言い淀んだのを見ても、彼女は嫌そうな顔もせずに答えた。比呂も安心して、改めて尋ねる。
「日高さんは、何か部活は?」
「野球部!」
夏来は目を爛々と輝かせて即答した。その上、念を押すように「高校でも入るつもりだよ」と力のこもった声で続ける。
「野球……」
噛み締めるように、比呂はその言葉を繰り返していた。
態度や口振りからして、彼女はおそらく根っからの野球好きなのだろう。そして、高校の野球部といえば、とある典型的なイメージが思い浮かぶ。
「じゃあ、目標は……」
「勿論、甲子園だよ!」
◇◇◇
戦前から女子野球には少ないながらも一定の需要が存在していたが、安全上の問題などを理由に、高校野球連盟は連盟主催の男子大会に女子選手が参加することを認めていなかった。
一方、戦後から女子スポーツの需要は拡大し続け、高校の女子野球部も年々増加していった。
そこで一九四七年に、女子選手のみで行われる、全国高等学校女子硬式野球選手権大会が初めて開催された。
この大会を契機に女子野球部は爆発的に増加。一九五〇年に女子プロ野球リーグが発足したこともそれに拍車をかけた。
男子大会で一種刷り込まれた「高校野球=甲子園」という図式から、女子の全国大会も阪神甲子園球場で行うことを求める声は以前よりあったが、この参加校の増加に伴い、それは更に大きなものとなる。結果、一九六八年に遂にこの主張が認められ、名実共に女子が甲子園を目指すことが可能になった。
そして、これが最後にして最大の後押しとなり、女子高校野球大会は、現在では約四千もの高校が参加する、国内最大規模の学生大会の一つとなるまでに成長したのだった。
◇◇◇
「おおーっ!!」
投げられたボールが長い長い放物線を描くと、クラスメイトたちから一際大きな歓声が起こった。
これには今日何度も計測を行ったはずの記録係ですら目を丸くする。
「ごっ、50メートル」
満点の37メートルを大幅に超えた数値で、一年五組内どころか校内、いや県内でもトップクラスの強肩に違いない。記録が読み上げられた後、更に大きな歓声が起こったのも当然の成り行きである。
「肩強いね~」
同じクラスでこれまで一緒に回ってきたから、運動神経がいいのは分かっていたが、それでもこのハンドボール投げの記録は特に群を抜いたものである。だから、本城縁子は思わず彼女に声を掛けていた。
「阿久津さん?」
「…………」
「阿久津樟葉さん?」
「……何?」
大儀そうに、彼女はようやくこちらを振り向いた。迷惑なのかとも思ったが、今更会話を打ち切るのも失礼な気がして、縁子はそのまま質問を続けることにする。
「阿久津さんって、中学の時は部活何やってたの?」
「特には」
にこりともせず樟葉は答える。内容のせいもあって、表情を変えていたのは縁子の方だった。
「へ~? 本当に?」
「本当に」あくまで淡々と樟葉は言う。「三年間ずっと帰宅部ですけど」
それがどうかしたのか、という言い方である。しかし、縁子からすれば、どうかしたというレベルの話ではない。
「それであれか~」
スポーツの経験がないということは、あれだけの記録を持って生まれた才能だけで達成してしまったということである。それは天賦の才だと言っても過言ではないのではないか。
「凄いね~」
「…………」
樟葉は何も答えない。照れて黙ってしまったわけではないのは、表情のない顔から明らかである。彼女は自分の才能にも、それに対する賞賛にも、ほんのわずかな感興さえ覚えていないのだ。
縁子は小学生の頃に始めた野球を、高校でも続けるつもりでいた。もしも樟葉が入部してくれるのなら、必ずや心強いチームメイトになることだろう。そうでなくとも、この才能を眠らせたままにしておくのは惜しいような気がした。
「高校では何かやろうと思ってないの?」
「別に」
多少の期待を込めた縁子の質問を、樟葉は事もなげに一蹴する。
「私、汗かくの嫌いだし」