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まだ日も昇らぬ早朝のことだった。
王宮で眠る貴族のうちの何人かは、空気がおかしいことに気づき、目を覚ました。遠く窓の向こうがほの明るい。こんな時間に、まるで祭りでも行われているかのような熱気が弾けている。その圧は、敏感な者ならすぐに気づくものだった。
ただそれがなんなのかは分からず、市街で火事か何かでもあったのかと、無関心に再び眠る者もいた。
しかし、その熱気は一切収まりはせず、勢力を増させ、そのまま王宮の武器庫を襲撃した。
その時になると、流石にのうのうと寝ている貴族は一人もおらず、事態を把握しようと誰もが慌てていた。
大声で召使らを呼ぶも、誰もかけつけない。
王宮で働く召使たちはみな、不穏な空気を察知し逃げていた。
ダン、と強い振動と大きな音がする。人々の活気ある声も聞こえてくる。
窓を覗いた貴族たちは、眼下の景色に我が目を疑った。
民衆が城門を破壊しようとしている。人々の手には武器が握られ、それは農耕器具や包丁だけではなく、国の所有する銃や爆薬などもあった。
城門を破り、人々が宮殿を襲撃するのは時間の問題。
貴族らは半狂乱になって、自らの所有する財宝をかき集め、鞄や袋に詰め込み出す。そんな重いものを誰かが抱えられるというのか分からない、金塊や美術品を無我夢中でつっこんでいる。
多くの貴族たちと同じく異変に気づいたシュツァーハイトは、室内にわずかにある、自分の形跡を残してしまいそうなものを全て燃やした。
そして勲章の沢山つけられた上着など意味のないものには目もくれず、動きやすい身軽な格好に身を包んだ。見た目だけでは貴族と悟られぬよう簡素な服で、物などもほとんど何も持たず。
彼の行動は早かった。革命を予測できていたわけでは全くない。予想外のことにかなり衝撃を受けてはいたが、取り乱しても逃げ遅れるだけだ。
廊下に出たシュツァーハイトの眼前には、間抜けな地獄絵図のような光景が広がっていた。
貴婦人たちの服の多くは一人で着ることができないデザインになっている。背中にボタンがあったりコルセットの編み上げがあったり、誰かに着せてもらうことを想定した作りだ。
しかし召使も逃げ、みなが自分のためだけに動こうとしている今、服すらまともに着替えられていない女たちが、叫び散らして右往左往している。
中には、ありったけの宝石や装飾品を服の中に詰め込み、髪の中にまで突っ込んで、窓から逃げようとする無様な姿もあった。
髪を下ろし、いつものモノクルもつけていない彼だったが、シュツァーハイトがそこにいると気づいた年配の男性貴族がこう指示を出す。
「お、おお、冷酷者! 私の荷を運べ! 馬を用意し一刻も早くここから逃げ出させろ! お前を今より上の階級に昇進させることを約束するぞ!」
シュツァーハイトはその話の一切を無視し、言葉が終わる前に、つかまれた腕を振り払った。背後から「この、裏切り者!」と自分をなじる声がする。なんとでも言え、と思った。
シュツァーハイトは階段を駆け下る。
たまに人にぶつかり、ぶつかられ、自分に命令しすがりつく者を振り払いながら。
シュツァーハイトの顔色はいつもと変わらぬものだったけれど、胸中は焦る気持ちを抑え切れなかった。
反政府組織主導のもと、革命が起こされたのだろう。組織がどれだけの間、虎視眈々と計画し、水面下で動いていたのかは分からない。
崩れる時は、驚くくらいあっと言う間だ。
彼の心は複雑だった。自分でも理解が出来ないくらいに混乱していた。
今までこれだけ耐え忍んできた自分。積み上げたものはどうなる?
いや、こうして市民たちによる革命が起こり、理不尽な貴族政治を打ち倒せるのだから、新しい時代が始められるのかもしれないのだから、歓迎すべきことなんだろう。意図せずであっても、自分の志が完遂されるのだから、良いことなんだろう。
なのに。
心の中はザワザワとして穏やかでない。
自分は今、民衆たちに倒される側にいる。
そんなことは前から分かっていたはず。
いつかこの立場を利用するために、そのためにひたすら出世した。周囲から「冷酷者」の異名をうけるほどの行為に、手を染めることもあった。
覚悟はしていたはずだ。
裏切り者とされている自分は、組織には戻れない。市民に戻ることもできない。
ならば、いち早く逃げなくては、多くの貴族たちと同じく殺されるだけだ。
混乱する気持ちを抱いたまま、彼は宮殿内の隠し出口に向かう。王宮の建物の構造は物置の一つにいたるまで、彼の頭の中に全て整理されている。
だが、その時ふと思い出した。
地下牢につながれたフローリア。
牢に入れられているくらいなのだから、襲撃してきた民衆も、彼女が確実に被害者であることが分かるだろう。
しかし。主導する反政府組織のリーダーたちの言葉も届かぬほど暴徒化した民衆が、貴族を楽しませていた踊り子だということで、彼女をその場で殺してしまうかもしれない。
それに、もしこのまま宮殿に火がつけられたりしたら、彼女はそのまま焼け死ぬ。
もう他人となった人間が焼け死ぬことくらいなんだというのだ、と冷静に自分に言い聞かせようとした己に、シュツァーハイトは鳥肌が立つくらい驚いた。
人間が焼け死ぬことくらい?
今、自分がどう思考したのか。
もう貴族の立場を全て捨てたはずの自分。冷酷者でなくなったはずの自分。
それなのに。
シュツァーハイトの足は止まり、いつかの夜、震える瞳で自分に「貧民街の人たちを殺さないで」と訴えてきたフローリアのことを思い出した。
――あなたは残酷な計画を沢山実行したと聞いたわ。
――目の前の小さな事象を阻止したとしてどうなる。
目の前の小さな事象? 必死に生きる人々の生活を奪うことが、小さな事象?
――被害を受けた人たちは、確かにいるのよ。
――より最小被害で済むように計算し、どうにもならなければ代替案を出すよう努めている。
最小被害? 三人死ぬところを一人死ぬ、だったら、それでいいとでも、俺は本気で思っていたのか?
――貧民街に火をつけるのは、出来る限り回避したい。
出来る限り回避?
フローリアは言った。貧民街の奥には、体の動かない老人や病人たちも沢山暮らしているのよ、と。
――俺は、今の時代がひっくり返った後の覚悟を決めてる。
笑わせる。時代がひっくり返ろうとしている今、自分は我先に逃げ出している。
見た目こそ取り乱してみせていないだけで、あの無様な貴族たちとなんら変わらないではないか。
これまで自分が行ってきた数々の行為への罰も受けず、まさか「スパイとして目的を果たすためだからしょうがなかったんだ」とでも言えば許してもらえると、心のどこかでそんな甘いことを考えていたのではないだろうか。
頭が混乱する。
でも。確かな思い、それは。
このまま殺されたくない。死にたくない。
そのためには一秒でも早く、少しでも遠く、安全な場所に逃げなければ。
しかし。
バクバクと心臓が早鐘を打つ。シュツァーハイトは拳を握り、眉根を寄せて考える。
そして。
踵を返し地下牢へ向かった。
さっさと鍵を開けて、彼女を出してやるだけ。ほんの少しの時間だ。そうしたらすぐに逃げたらいい。
もう、自分の冷酷な判断で人を死なせたくはない。




